第53話 蒲生賢秀、初陣

主要登場人物別名


左兵衛大夫・鬼左兵… 蒲生定秀 六角家臣 蒲生家当主

藤太郎… 蒲生賢秀 定秀の嫡男


左京大夫… 六角義賢 六角家当主六角定頼の嫡男

右京大夫… 細川晴元 細川京兆家当主 三好長慶によって没落し、六角を頼る

筑前守… 三好長慶 三好家当主 細川晴元を追い落として権勢を握る

日向守… 三好長逸 三好家家臣 三好長慶の重臣


――――――――


 

 天文十九年(1550年) 二月

 昨年から坂本に陣取っていた六角軍には保内衆から各種兵糧や物資が届けられていた。


「蒲生様、国許からの文をお預かりしております」

「おお、済まんな。兵糧の手配りといい、保内衆にはいつも世話になる」

「いえ、叔父からもくれぐれも粗略にすることなきようにと仰せつかっておりますので」


 蒲生定秀は細身の男から文を受け取ると宛名を確認して懐に仕舞った。差出人は観音寺城の辰からだ。

 近頃では次男の重千代が元服をせがんでいるというから、その件だろう。長兄の賢秀が父と共に戦陣に居ることをうらやましく思っているらしい。


 ―――やれやれ、そういえば重千代ももう十三歳になるのか


 自分や賢秀の例を考えれば来年辺りには元服させなければならない。だが、まずは目の前の三好勢との決着が付かなければどう動きようもない。

 重千代は賢秀に輪をかけて立派な体格をしており、亡き父の高郷を思い起こさせる武辺者の気質を表して来ている。もう辰だけでは抑えようがないのかもしれなかった。

 定秀にはとっては怖い女房殿であっても、反抗期を迎えた子供にとっては愚痴や我がままを言いやすい母親なのだろう。その葛藤が蒲生屋敷で行われているのだと思うと何やら可笑しかった。


「ご苦労だったな。観音寺城の様子はどうだ?」

「御屋形様は常と変わらず政務に当たっておられます。ですが、近頃は戦支度とも取れるご注文が多くなってきました。先だっても我が保内衆に牛馬の専売をお認め下さると仰せつかったばかりです」

「左様か」


 牛馬の肥育は保内衆が大々的に行っているが、この三月には六角定頼は保内衆に近江国内での専売を認める奉書を出す。牛馬の専売権を与えるということは以後近江の流通は全て保内衆に握らせるという宣言でもある。それと引き換えに保内衆は六角軍の軍事行動を支える軍馬や兵糧の手配を受け持つ。要するに保内衆に六角家の兵站を支える役目を負わせたとも言えた。


 細身の男が一礼して下がっていく。


 ―――伴伝次郎と言ったか。さすがは庄衛門の甥っ子だな


 保内衆を長年率いて来た伴庄衛門も近頃では老いの為に気軽に各地に出向くことが難しくなっている。そのため、各地へ兵糧などを届ける役目は甥の伴伝次郎資忠に任せている。

 伝次郎はまだ二十歳に届かぬ若者だが、甲賀伴谷の出身で足腰は強く、また勘働きも庄衛門に劣らぬキレがあった。次代の六角家は六角義賢を中心に蒲生賢秀や後藤賢豊、進藤賢盛、平井定武、永原重隆、三雲賢持らが固めていくことになるが、その軍事行動を支える者として伴伝次郎には定秀も期待を寄せている。


 陣幕の中で改めて文を読んでいると、不意に陣幕を上げて嫡男の賢秀が入って来る。


「失礼します」

「おお、藤太郎。ちょうどよかった。お主に華から文が届いているぞ」

「華から?」


 賢秀が嬉しそうな迷惑そうな微妙な顔をする。賢秀は十七歳であり当時としては一人前の大人とされる。だが、精神的にはまだ一人前の男として確固たる自分自身というものを確立できていない。妻からの文に喜ぶ気持ちと、まだまだ初陣も済ませてない半人前の身であるという強がりとがないまぜになったまさに複雑な顔だった。


「そう邪険にしてやるな。嫁入り早々に夫が戦陣に出ずっぱりでは気が気でないのであろう」

「別に……邪険にしているつもりは……」


 ゴニョゴニョと語尾を濁すところが定秀には妙に可笑しかった。自分も新婚当初は辰にどう接していいかわからなかった気持ちを思い出す。


「いや、用件はそれではありません。中尾城のご普請のことです」


 気を取り直したように賢秀が顔つきを改めるが、さりげなく文を懐に仕舞っている所作を定秀は見逃さなかった。


「中尾城のご普請がどうかしたか?」


 中尾城とは京の東山銀閣寺の裏手に急造した城のことで、足利義晴のたっての希望で京奪回の足掛かりにするべくこの二月に築城を始めたばかりだった。


「城の壁を二重にし、壁と壁の間に小石を詰めて堅固な壁にすることが決まりました」

「おお。では、左京大夫様も鉄砲の備えを採用して下されたか」

「はい。父上のたっての願いということでお聞き届け頂けたようです」

「そうか。まずはよかった」


 中尾城の築城に当たって定秀は壁を従来の一重壁から二重壁にすることを提言していた。言うまでも無く鉄砲への備えである。

 蒲生定秀は鉄砲の威力を決して侮ってはいなかった。一重の土壁では壁を貫通して弾が内側に飛び出してくる恐れがある。それゆえ、壁を二重にしてさらに間に小石を詰めるという普請を提案していた。


「それと、右京大夫様がこちら側にも鉄砲三十丁を調達されました」

「堺は三好筑前が抑えていよう。よくぞ買受けられたな」

「それが……北近江の国友にて生産されたもののようです。保内衆が先ほど運び入れて参ったと」

「ほう。国友で……」


 国友村では鉄砲伝来当初から国産の鉄砲の製造に取り掛かっている。法華寺院の本能寺から買受けた鉄砲は職人の手によって瞬く間に複製され、この頃には既に年間三十丁ほどの生産体制が確立し始めている。


「我が日野も負けておれんな。鉄砲の生産を急がさねば」

「左様ですな」


 六角家中にあって蒲生家は鉄砲という新種の兵器を取り入れようと試行錯誤を尽くしていた。そのためには日野での生産体制を確立しなければどうにもならない。現状鉄砲を手に入れるには堺から買い付けるか、安孫子や根来産の物を買受けるか、あるいは国友村から求めるかしかない。いずれも六角にとっては敵国、あるいは支配下にあるとはいえ他国に属する産地だ。



 天文十九年の二月に中尾城の築城を始めたばかりだったが、三月には築城半ばの中尾城へ足利義晴が入城しようとした。一刻も早く京を奪回したいという意思の表れだったが、話を聞いた六角定頼に諫められて義晴は妥協し、坂本から近江穴太あのうに陣を移す。穴太からは山を越えれば中尾城に入れる立地だった。

 足利義晴の中尾城入城を押しとどめる代わりに六角義賢率いる六角軍は北白川の瓜生山城に陣取り、京洛に進軍を開始する。

 もとより六角義賢としても三好と決戦というつもりはなく、中尾城が完成するまで足利義晴の入城を押しとどめる為のパフォーマンスではあったが、ともかくも蒲生賢秀が待ちわびた初陣の機会が訪れた。


 天文十九年(1550年)三月十三日

 蒲生勢は瓜生山城を下り、京に陣する三好みよし長逸ながやすの軍勢と小競り合いとなった。

 三好長逸は三好長慶の従兄弟にあたり、一族内での内紛が絶えない三好にあって長きに渡って長慶と共に戦ってきた男だった。




 ※   ※   ※




 鴨川を挟んだ向こうには三好の『三階菱に五つ釘抜』の旗指物がたなびく。


 数はそう多くないが、摂津を制した阿波衆の威容はいやが上にも若い賢秀に緊張感を与えている。いつものように六角軍の先陣を務める蒲生陣では、戦の前の軽い高揚状態が訪れていた。


「藤太郎、そう緊張するな。今回は小競り合いだ」

「はい。ですが……」


 語尾を消して生唾を飲み込む息子の姿に定秀は何とも言えない感情になっていた。息子が一人前の男として自分や六角家を支えてくれるのは嬉しいが、さりとて自分もまだまだ現役で戦えるという自負もある。若い者には負けないという気概だけは人並みに持っていた。


「始まるぞ」


 定秀の声に呼応するように三好陣から鬨の声が上がる。


「こちらも鬨をあげろ!えい!えい!」


 オオーという轟音が耳をつんざく。賢秀も周囲に混じって夢中で喚声を上げているように見えた。


 ―――それでいい。最初は戦陣に慣れることから始めるんだ


 チラリと笑った定秀も一転して真剣な顔になり、正面の三好勢を見据えながら次々に下知を飛ばした。


「弓隊用意!鏑矢を放て!」


 定秀の声を待つまでも無いように鏑矢が双方の陣から放たれ、すぐに矢戦が始まった。蒲生陣にも数条の矢が陣幕を突き破って入って来る。

 主人の動揺を汲み取ったかのように賢秀の乗馬は飛来する矢に神経質になっているようだった。


「上手から長柄隊を出せ!川を渡って拠点を作る!」


 しばし矢の応酬をした後、川上側に鬨の声が響くと同時に蒲生の旗を刺した長柄隊が猛然と渡河を開始した。率いるのは外池茂七だ。


「父上、我が軍が押しております!」

「いいや、さすがは三好よ。しっかりと守って拠点を作らせぬ」


 賢秀が興奮したように声を上げるが、定秀の目から見れば川を渡った所で三好も迅速に防御陣形を敷いている。あれだけ守られればいかな外池隊と言えども容易に拠点を作ることは出来ないはずだ。

 そうこうしている間に川下側から今度は三好の渡河部隊が川を渡る気配を見せた。


「原隊に伝令!川を渡り終えた足軽を狩れ!」

「ハッ!」


 使番が駆けて行くと、すぐに蒲生陣の横に陣取っていた原小十郎の騎馬隊が駆け出す。三好の渡河部隊には長柄隊が少なく、太刀を振りかざした足軽隊が主な陣備えだった。

 長柄が無ければ騎馬の方が徒歩よりも強い。

 蒲生・三好双方にほどほどの損害を出しながら、戦局は一進一退……というよりもお互いに本気で戦ってはいなかった。とはいえ、賢秀は初めて感じる戦場の空気をしっかりと体に刻み込むように瞬きも忘れたような目で周囲を見回している。


 ―――少し、蒲生の戦ぶりを見せておくか


 六角義賢からは川を挟んで小競り合いに終始しておけば良いと下知を受けていたが、現場の判断によっては川を渡ることも禁じられてはいない。

 槍持から槍を受け取ると、定秀は馬廻衆に大声で指示を出した。


「川を渡る!外池隊の内側を噛み破るぞ!付いてこい!」


 蒲生陣から上がった鬨の声に三好陣も負けじと喚声を上げる。だが、続いて蒲生本陣の旗印が動き出したことを見て三好陣も動きが慌ただしくなっていた。

 音に聞く鬼左兵が動くとなれば敵も本気で対応せざるを得ない。


「続け!」


 先頭を切って川に入った定秀を追い越すように馬廻衆が主君の前を塞ぐ。蒲生本陣が一つの塊となって正面に急造の防御陣形を作った三好軍にぶつかった。

 馬にぶち当てられて派手に転ぶ兵の姿を視界に収めながら、定秀は自慢の赤樫の槍を振るって対岸の河原へと上陸した。


「かかれー!」


 三好陣からも本気の長柄兵が後詰として繰り出されてくる。長柄の石突を地面につっかえて騎馬の突進を阻むように構えを取った。


 ―――ふむ。やはり対応が早い


 定秀は三好の本気の対応をつぶさに見ながら、再び戦況を見回す。蒲生陣の援護を得た外池隊は上陸を果たして三好の長柄に攻めかかる動きを見せていたが、三好軍からも次々と後詰が現れては蒲生軍を取り囲むように槍衾を揃える。まるで傷口を塞ごうとする人体のように有機的な動きを見せていた。


 ―――日向守とやらはなかなか良い将のようだな


 それが分かっただけでも充分な収穫だった。


「充分だ!退くぞ!」


 戦場を圧する大声に蒲生軍が来た道を戻る動きに変わる。馬廻衆も心得たもので、突撃した箇所を確保して退路をしっかりと守る役割の者が居残っていた。

 乱戦の中で賢秀も足軽に槍を差しているのが見える。戦闘に夢中になって撤退の合図を聞き逃せば敵中で孤立することにもなる。定秀が息子に退却させるよう馬廻に指示を出そうとしたその時、傅役として付けていた岡貞政が賢秀の手綱を取って後方に下がらせる様子が見えた。


 ―――よし


 蒲生陣にも数名の手負いを出しながらこの日の戦闘はこれで終了した。

 終わってみれば定秀は一度渡河したものの拠点を作ることは出来ずに陣を退いた形勢だったが、もとより定秀にも最初から渡河拠点を作る気などさらさらない。今後に来る決戦を前に三好の本気の戦振りを見ておこうと思っただけだ。


 この日を始めとして数日小競り合いを続けたが、やがて双方手出しを控えるようになり、にらみ合いの形勢へと移った。右京の方では細川晴元の兵が西院一帯に火を放ったが、半月後の四月頭には摂津で最後まで抵抗を続けていた伊丹親興がついに三好長慶の軍門に降り、三好軍は完全に摂津を掌握する。

 六角軍も一旦瓜生山城に軍を戻し、三好長慶の反転攻勢に備える構えを取った。


 だが、一月後の天文十九年五月四日。穴太に陣を取っていた足利義晴が亡くなったとの報せを受け、六角軍は坂本まで陣を退いた。

 蒲生賢秀の初陣は三好と六角が争った最初の戦いとなった戦となった。


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