第26話 マムシと呼ばれた男

主要登場人物別名


左京大夫… 土岐頼芸 土岐政房の次男 兄を追放して美濃の実権を握る


――――――――


 


 広間の下座に座る男を定秀はじっと見つめていた。

 観音寺城の評定の間には、蒲生を始め六角家の重臣たちが左右に分かれて居並んでいる。

 定頼の座るべき上座は空席になっており、もうその状態で半刻(一時間)は経っていた。


 定頼を待つ間、六角家臣達は様々に威圧感を込めて使者を睨みつけている。まともな神経ならばソワソワと動揺が見えるはずだ。

 だが、長井規秀はさして気にした様子もなく、上品な微笑みをたたえたまま悠然と座っていた。

 むしろ、六角側の取次として長井の脇に座る三井高就の方がしきりに身をよじって落ち着かない様子だった。


 ―――中々の胆力だな


 定秀は改めて長井の様子を伺った。

 藍染の地味だが小ぎれいな小袖に身を包み、麻の羽織も麻生地の色そのままの地味な拵えだ。髪や髭も綺麗に整え、背筋を伸ばして威儀を整えている。

 背はさほど高くないが、座ると堂々たる風情に見えるのは肩幅が大きいからだろうか。

 だが、最も目を引くのはその目の大きさだ。


 スラリと切れ長な目と形の良い眉が凛々しさと知性を感じさせ、すっと通った鼻筋は意志の強さを感じさせる。見据えた相手を委縮させるほどの眼力を備えていることはすぐに分かる。馬上の人となれば、その目は戦場のすみずみまで捉えるのではないかと思うほどだ。

 今は微笑んでいるために圧力は感じないが、相手を威圧する迫力は相当なものだろう。



「はっはっは。どうやら小細工は通じんようだな」


 不意に襖が開いて奥から足音を響かせながら定頼が入室すると、六角家臣、使者共に一斉に頭を下げる。

 定秀も床板を見つめていると、やがて上座に定頼が座った。


「面をあげよ」


 定頼の一声で全員が顔を上げる。空席になっていた上座は、本来座るべき主人を迎えて広間に威厳を漂わせていた。


「その方が長井新九郎か。噂は聞いている。なんでも左京大夫殿から重宝されておるとか」

「恐れ入りまする。我が父同様に左京大夫様にお仕えしております」


「ああ、皆ももうよいぞ。どうやら肚は座っておるようだ」


 定頼がそう言うと、一座の家臣達が険しい顔を解く。相手を動揺させて心底を計ろうという定頼の策略だったが、それが通用しなかったことにより益々長井新九郎規秀という男に興味を持ったようだ。


「まずは、許せ。そなたの器量のほどを計らせてもらった」

「ははは。…して、某の器量はお目に適いましたでしょうか?」


 怒るでもなく、さりとて愉快気にするでもなく、一切表情を変えずに穏やかに返す。胆力もそうだが、中々腹の底を見せない男だと定秀は感じた。

 見た目の麗しさについ心を許してしまいそうになるが、そう単純な男であろうはずはない。

 言わば敵中に単身乗り込んで来た男だ。自殺志願者には到底思えない。どれほどの智謀の士なのか…


「中々の器量と見た。だが、召し抱えたくはないな」

「……何故でございます?」


 長井の一言に、定頼の目に力が籠る。


「腹の底が見えん。わしは心底信頼できる者でなければ側近く使えぬ性格たちでな。だが物頭などで終わらせるには惜しい器量だ。左京大夫殿はよいご家臣をお持ちだな」

「恐れ入りまする」


 穏やかに、だがお互いに目に冷たい光を灯しながら、顔見せの挨拶を交わす。

 挨拶代わりに発していた定頼の威圧感もかなりのもので、広間には息をすることさえ躊躇ためらわれるような緊張感が満ちていた。


「…で、用件は?と言っても最初から分かり切っているか」

「ご賢察の通りにございます」

「何をくれる?」


 初めて長井の表情がピクリと動いた。単刀直入な物言いに面食らったのか、あるいはどのような条件なら納得するかを考えているのか、表情にやや険しさが混じったように見える。


「不破郡ではいかがでしょう?」

「要らんな。不破郡などもらっても朝倉と奪い合いになるだけだ。そのうち国人たちが起ってその方らの手元に戻るだろう」

「……では、どのような対価を支払えば?」

「美濃半国をもらおうか。それならば釣り合う」

「……」


 初めて長井の顔から笑みが消えた。定秀もまさかそこまで吹っ掛けるとは思ってもみなかった。

 美濃半国は土岐頼芸が事実上支配している領国だ。美濃の東部や北部はまだまだ頼芸の威に服したとは言えない。

 つまりは土岐頼芸に対して六角の軍門に降れと言っているに等しい。


 定頼にとって、今回の出兵は近江の東をこれ以上こじらせない為のものであって、元々領土的な野心はない。守護が頼純であれ頼芸であれ、揉めた末に近江に火の粉を飛ばさなければどっちでもいいのだ。

 今回は土岐政房の法要を行って火種を作った頼芸を責めたが、頼芸が降るのならば後援する事にやぶさかではない。


「対価が出せんのなら話はここまでだ。わしはこのままでも一向に困らん」


 そう言うと、定頼が腰を浮かしかける。


「お待ち下され!」


 浮かしかけた腰を再び落ち着けて、定頼がニヤリと笑った。主導権がどちらにあるのかをはっきりと示した形だ。

 長井にしても、さんざん待たされた挙句たったこれだけのやり取りで交渉決裂などになれば目も当てられない。

 長井の顔からは、ようやく貼り付いたような笑顔が剥がれ落ちていた。


「……しからば、美濃一国を差し上げまする」

「…ほう?」

 長井の返答に定秀は目を剥いた。定秀だけでなく、居並ぶ群臣たちは皆一様に信じられないという顔をする。


 ―――正気なのか?


 困った挙句に破れかぶれになったようには見えない。定頼も真意を読み切れずに目を細めている。


 ―――あるいは美濃一国を切り取る為の後ろ盾になれということか…


 つまり、六角に従う事と引き換えに美濃国内を鎮圧する軍勢を出せと言っているのかと思った。だが、定頼には他国の揉め事に深く干渉する意志はない。

 京の政情にすら関心を示していないのだ。そこを理解していないのならば、この交渉は失敗する。


 果たして次に何を言い出すのかと、定秀は固唾を飲んで見守った。



「美濃紙を桑名で売るように致しましょう」


 ―――何の事だ?


 一体それが何故美濃一国を渡すことになるのか、定秀にはさっぱりわからない。

 だが、定頼にはある程度通じているようだ。上座を見ると、定頼が益々目を細めてじっと長井の顔を見る。

 その頭の中は唸りを上げて回転しているのはすぐに分かった。


「……ふむ。中々面白いことを考える」

「石寺新市の評判は聞き知っております。素晴らしい発想ですな。商人を寺社から引きはがされた」


 ―――なるほど…


 定秀にもようやくその真意が分かった。



 美濃紙は古くから朝廷に献上され、この当時も奉書用の紙として人気が高い。だが、この頃にはまだその値は高かった。

 原因は座を主催する寺社勢力で、仕入れから流通先に至るまで厳しい規制を行って利益を上げていた。

 この当時、美濃紙を仕入れられるのは京の宝慈院を本所とする近江の枝村衆に限られている。



 元々、市は神社に市庭神いちばがみを招来するための神事だ。

『虹見ゆるところ、市を立つ』という伝承があるように、市とは偶然に発生した虹の橋を使って御渡り下さる市庭神いちばがみをお招きし、神前で非日常空間としての祭りを行う行事だった。

 そのために商人は烏帽子に素袍すほうという神官の装束で市に立った。商人が自分の縄張りの事を立庭たちばと言ったのも、元は市庭神に由来する。

 そして、集められた品物は市庭神に捧げものとして供えられ、その捧げものを下さるという形で集まった者同士で交換した。


 一方で、中世以前の観念では盗まれた物はあくまでも盗まれた被害者の持ち物であり、例え盗品と知らずに買い求めても本来の持主が名乗り出れば返還するのが当然だった。

 しかし、それでは正常な経済発展は期待できない。銭を出して買った物でも、盗まれたと言われれば無条件で返さなければならない。であれば、それは正常な商取引とは言えない。


 そこで、品物を一旦市庭神に捧げることとした。


 市で買った物は言わば神様からのたまわり物であり、市庭神に奉納された瞬間にそれまでの所有関係は消滅するとされた。

 神様の物を下されたのだから、元が盗品であれ何であれ、所有権は買った者にあるという理屈だ。


 時代が下り、市は人々から求められる形で定期的に開催するようになった。市庭をいつ、どのように運営していくかを神社で話し合う場所を『宮座』あるいは『座』と呼んだ。座には席次が作られ、商人の座での席次がそのまま市庭で店を出す席次へと変わった。そして鎌倉の頃になると、市庭は神社だけでなく寺でも開催されるようになる。

 つまり、商人と寺社は元々切っても切れない関係にあった。


 しかし、南北朝の頃になって国を跨いだ広域的な物流網が整備されると、市は商人にとってただの神事から生業へと変わった。

 生業である以上は主催する市庭の数が収入を決めることになる。必然的に市庭を出す権益を巡って商人衆同士が争い、国質や郷質の慣習が生まれた。

 そして、商人衆は本所とする寺社の権威を利用するようになり、寺社の側も銭を運んでくれる商人衆の立庭を増やすべく、時には僧兵を派遣して争いに参加する。


 より多くの銭を得たいというのは商人にとっての本能だ。だが、いつまでも立庭争いを行っていては商圏の拡大は見込めない。

 そこで、商人達は国質や郷質を一旦取りやめ、争うよりも協力しあうことを考えて『楽市』を共同運営する。市の平和はやがて品ぞろえの強化と集客数の増加に繋がり、結果的にあらゆる商人に利が生まれた。武家や宗門は対立すれば武力闘争を行ったが、商人は利を持って繋がることでその勢力を広げるという知恵を見せた。


 古い慣習に縛られた商人や盗賊達から楽市の平和を守るため、楽市の商人達はその地を実効支配する武家の庇護を求めるようになり、武士の持つ武力の元で共同運営市が開かれた。

 その一つが石寺楽市だ。


 堺や伊勢の湊町は、武士の庇護を求めるのではなく町人自身が武装した。それらの町が『自治都市』となった。『十楽の津』と呼ばれた伊勢桑名の湊町なども国質不問で、多くの郷の商人が集って楽市を形成していた。

 元々楽市となった目的は販路の拡大であるため、当然ながら楽市では特権に関係なく誰であっても商品を仕入れることが出来た。



 つまり、美濃から揖斐川を下って桑名の市に紙を卸せば、そこでは枝村衆以外も美濃紙を仕入れることが出来る。

 言い換えれば、定頼の主な収入源であり大切な諜報機関でもある保内衆の取扱品目に美濃紙が加わる。

 美濃紙は特に畿内で需要が高く、京や摂津・河内に売捌くにはもってこいな商品だった。

 要するに、美濃が生産する紙の利益は、巡り巡って定頼の懐を潤すことになる。しかも定頼自身には一片の労力も無く…


 ―――確かに、それを約束するのならば美濃一国を手に入れるほどの価値がある


 商売の利は一度で終わる物ではない。現状の支配体制が続くのならば、半永久的に定頼を潤し続ける。

 領地を守っていく経費を考えれば、下手に領地を手に入れるよりも余程に利の有る話だった。



「いかがでございましょう?兵を退いて下さるのであれば、我が主に掛け合って実現して見せます」

「……やるものよな。それに乗れば、兵を退くのみならず左京大夫殿が美濃を治める正当性をわしが担保せねばならん。敵対関係が一転して協力者にならざるを得ぬ。

 そうしなければ、わしは利を取れんことになるからな」


 長井が静かに頭を下げる。一方の定頼は腕を組んで瞑目した。

 だが、結論は定秀にも分かり切っていた。定頼ならば取る気のない領地争いに介入するよりも、利の有る取引を選ぶはずだ。


 ―――まるでマムシのような男だな。穏やかな笑顔の裏にとんでもない毒を隠しておった。一撃で敵を屠り、味方に変える毒を…


 平伏する長井規秀の目が爬虫類を思わせる冷たい光を放っていることに、定秀は気づいていた。



「よかろう。公方様にはわしが申し上げよう。左京大夫殿を正当な美濃守護と認めるように、とな」

「有難きお計らいに感謝いたします」

「…一つ忠告しておこう。石寺新市は商人の方から平和を維持してほしいと願い出て来たものだ。わしはそれを認めて警備を行っているに過ぎん。

 美濃に楽市を立てるのならば、それは商人共を主体とせねば失敗するぞ」


 広間の群臣は事情を理解した者と事の成り行きに呆然としている者に分かれていた。

 土地が全ての価値の源泉と思っている武士にとっては、商業を重視する定頼の価値観は理解し辛いものだった。だが、定頼の考えを側近く聞いてきた定秀は、その利を充分に理解できた。



 天文四年六月二十二日

 足利義晴の執奏しっそうによって土岐頼芸は従四位下修理大夫に任官された。

 翌天文五年には美濃守に選任する勅許を得て、正式に美濃守護職として認められる。


 そして、美濃守任官と同時に定頼は次女の静菜しずなを土岐頼芸の正室として嫁がせることを決め、正式に土岐頼芸との同盟を成立させた。


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