第20話 Ladies’ day ⑵

「じゃあ、お邪魔しましたー」

と玄関を開けてから一旦振り返り、私と裕美が声を揃えて声を掛けると

「気を付けて帰りなねー?」

と、上り框の縁の間際に立っていた絵里が明るく笑いながら返してくれた。

「またねー?」と、絵里の隣に立っていた有希も同じように明るく言うので、「はーい」とまた私たち二人で声を揃えて返した。

と、その二人の後ろに立っていた、絵里と有希の隙間から姿を覗かせていた百合子も、何も口には出していなかったが、顔に微笑みを湛えつつ上品に胸の前で小さく手を振ってくるのが見えたので、私も微笑を浮かべながら同じ位置で小さく手を振り返した。

それから玄関を出て、こちらに手を振ってくれる皆の顔を最後まで見ようとしながらゆっくりと閉めると、それから私たち二人は揃ってエレベーターホールへと向かった。

相変わらずというか、周りに遮蔽物がないお陰もあって、六階の高さだが遠くまで見渡せる景色を眺めていると、到着したエレベーターに乗り込んで一階まで降りた。

オートロックの自動ドアを出ると、上の階にいた時は風が吹いていたのと日差しの方向が逆だったのもあり、心地よく涼しいくらいに感じていたのだが、こうして出てみると、もうそろそろ夕方も五時になろうという頃だというのに、強烈な西日が私たち二人の正面を容赦無くジリジリと焦がし、じんわりと汗の滲む思いだった。


…ふふ、毎度の如く、芸もなくまた勿体ぶって見せてしまったが、今私たち二人がどんな状況にいるのかは大方予想がついている事だろう。

だが一応それでも今から軽く、簡単にでも触れてみたいと思う。

まず真っ先に場所から触れてみると、お察しの通り、ここは…というか、今までいたのは絵里のマンションだった。

今日は試験休みも最終日である平日。明日は採点を終えた期末試験の解答用紙を受け取りに行くために登校するのみで、その翌日、つまり明後日は終業式だ。

そして何よりも、裕美にとって最後の追い上げというか半年以上にわたって努力し続けてきた総仕上げである、練習試合までもう一週間と無かった。



…だが、家路につく私たち二人の会話は、まず先ほどまで過ごしたladies dayのひと時についての感想から始まった。

百合子にしろ有希にしろ、つい最近に自分たちが出演していた劇が千秋楽を迎えたと言うので、ようやくホッと息を吐けて落ち着いた日々を過ごし始めた段階で、二人はそれぞれ違う劇に出ていたのだが、その二つの公演を両方ともに何度か足を運んで観てきたらしい絵里が、その慰労を兼ねてというか、そんな大義名分の元、二人を自宅に招待したのだった。

私も勿論本心としては百合子と有希の劇それぞれを観に行きたかったのだが、そこがまだ中学三年生の悲しい不自由なところで、話にも出した通り、義一が深く関わっている数奇屋に集う中の一人にして、雑誌オーソドックスにも不定期ながら寄稿している百合子が出演している劇を一度観に行ってるので、別にお母さん達にまた観劇に行く事を知られたところで、一応は問題は無いだろうと思われたのだが、ただ単純に妙に時間が合わずに劇も終わってしまい、仕方なく百合子と有希がプレゼントしてくれたパンフレットなどのグッズを貰って満足する事にしていた。


正午過ぎに裕美と一度落ち合ってから絵里のマンションを訪れると、既に百合子と有希が来ており、以前にも触れたが去年末に買い替えた最大で六人がけのダイニングテーブルに隣り合って腰掛けていた。

前回に触れた点に沿うように言えば、美保子が座っていた位置に百合子が座り、有希はいつも通りの場所に座っていた。

顔を合わせると、早速私たちはお互いに挨拶を交わして、いつ来たのかといった軽い雑談をしつつ室内を見渡していると、キッチンの方で何やら作業をしている絵里の後ろ姿が見えた。

実は居間に入った時に、百合子…ふふ、いや、ほとんど百合子のしっとりとした声は、明るさ満点の有希の声に掻き消されてしまっていたが、絵里も二人と一緒になって「いらっしゃーい」と声を掛けてくれていた。

だが、細かい話をすると、廊下から居間に入ると丁度キッチンが死角になっており、すぐには私の目に付かないせいで、今まで紹介が遅れた次第だ。

さて、遅れたついでに、別に開き直る訳ではないが、何故美保子の席に百合子が今座っているのかについて触れてみよう。

とは言っても、極々単純な理由でしかない。美保子が現時点ではとっくに活動拠点であるシカゴに戻ってしまっていたからだ。

私が師匠と訪れた数奇屋の日の数日後には日本を後にしていたので、こうして美保子の席に百合子が座る形となっていた。


そのまま私と裕美は普段通りに、有希の向かいには私、百合子の向かいには裕美が席についた。

そう、これが裕美が来た時のいつものフォーメーションなのだった。

因みにというか、今だにまだ裕美は美保子と会えていないのだが、実際会った時の二人の様子がどんななのか今から楽しみなのはそうでも、果たして座席配置がその時になったらどうなるのだろうかと、これは私だけではなく、他の四人も同様に思うところらしく、今回の様に集まる理由付けがある場合は別にして、大抵裕美がこの場にいる時の乾杯後は、まずその事から雑談が始まるのが常となっていた。

「私も早く会ってお礼が言いたいなぁ。だって…ふふ、こんな可愛い皆お揃いのマグカップを買ってきてくれたんだもん」と、裕美が自分の手に持つカップを眺めながら言うのもデフォルトだった。

…ふふ、別に毎回同じ事を言うからといって、裕美の言葉が社交辞令的な本心からのものでは無いと言いたいのでは無いことだけは付け加えておこう。


さて、私と裕美が着席して少し間が空いた頃、「お待たせしましたー」と言いながら、絵里がおぼんを持って来た。

まずは手慣れた手つきでコースターを置いていくと、年齢順ということで、百合子から順に絵里はマグカップとマドラーを置いていったのだが、そのマグカップがいつもと違うのに気付いた。

普段のは、今さっき裕美の口癖を紹介したように、美保子が買って来てくれた、本人がシカゴで贔屓にしている紅茶専門店で買ったというので、色こそ各々違えどそのお店のロゴが入ったマグカップを使っていたのだが、今回はそれとは全く違い、まず普段使いのは陶器製だったというのに、今目の前にあるのは、室内の照明を反射し金属独特の表面が艶々しているのが見て取れて、どれも同じ色合いだったがどうやら銅製のものだった。

「あれ?絵里さん、これどうしたの?」

と最後にマグカップを置かれた裕美が早速疑問を口にした。

「いつもと違うよね?」

「…あー」

とここで不意に百合子が声を漏らしたので、裕美含む皆で視線を集めると、「ふふ、これうちにもあるわ」と百合子はお構いなしにマグカップを持ち上げると、側面を眺めつつ言った。

「これって…ふふ、美保子さんからのお土産でしょ?」

と微笑みながら言われた絵里も「ふふ、えぇそうです」とオボンを体の前で両手で持ちながら、何故か照れ臭そうに笑いながら答えた。

「あー、これって美保子さんからのだったんだ」

と、私と有希がほとんど同じ意味の言葉を漏らしつつ、百合子に倣ってマグカップを持ち上げた。それに少し遅れて裕美も続く。

「…あー、なるほど」

と私も百合子と同じように側面を眺めた瞬間に、何ですぐに美保子からのお土産だと分かったのか理解ができた。

何故なら、良い意味で無骨にも銅そのものといった見た目をしているマグカップだったが、側面には見覚えのあるロゴが浮き彫りにされていたからだった。

このロゴにも色は付けられていなかったが、それがむしろシンプルにしてお洒落に思えた。

中にはアイスティーが入っており、氷がたんまりと入れられている。

その見た目からでもそうだが、さすが熱伝導率が高い銅製というのもあって、手に持った瞬間に、キンキンに冷えているのが分かった。

絵里は最後に、透明なガラス製のシロップの入った注ぎ口付きの透明なガラス容器をテーブルの真ん中付近に置いた。

「ふふ、こないだ美保子さんが日本に帰られていた時に、チラッとうちに寄って下さいまして、その時にお土産とくれたんです」

と絵里は上座位置の椅子に腰掛けると、座り位置を直しながら言った。

「『これから暑くなるでしょう?この季節は暖かい飲み物よりも冷たい物を飲む機会が増えるけれど、だったらその冷たいのも、出来たら美味しく飲みたいじゃない?だから

…これ、銅製のマグカップ、私の行きつけである例のお店で買って来たんだけれど、良かったら使ってくれる?』って頂いたの」

と、途中から私と裕美に顔を向けつつ話したせいか、丁寧語からタメ口になりつつ言い終えた。

その前に美保子が言ったというセリフを、これまたよく似た物真似で披露してくれたので、その完成度に思わず笑みを零していると、

「あははは!本当に絵里は昔から、人物模写というか、声だけじゃなく仕草も含めて物真似の完成度が高いよねぇー」

と有希が私の心を代弁するかのように突っ込むと、

「ふふ、ありがとうございますね先輩?」

と、本心では微塵もそんな事は思っていませんとアピールするが如く、今にも舌をペロッと悪戯っぽく出してきそうな笑みを浮かべた絵里に対して、有希だけではなく私たち全員が微笑み合うのだった。


「では…」

と、まだ笑みが収まりきらない間に絵里がおもむろにマグカップを手に持ったので、私たちも全員がマグカップを手に持った。

それを一度確認してから、絵里は口を開いた。

「えぇー…百合子さんと先輩の劇が千秋楽を無事に終えたというので、それについてと…」

とここで一旦区切ると、絵里は私を挟んで向こうに視線を流しつつ続けて言った。

「今月末に大会を控えている、裕美ちゃんの活躍を祈って…かんぱーい!」

と絵里がテーブル中央へ向けてマグカップを差し出すと、「かんぱーい!」と言う大きな有希の声に混じって私と百合子も同じように応じながら差し出すと、既に絵里の言葉に照れてしまっていた裕美が、タジタジになりながらも、照れ隠しの苦笑を浮かべつつ遅れて自分のマグカップを同じように差し出すのだった。


お互いのをぶつけ合い、カップの縁までキンキンに冷たくなっている事で、一層飲み口が良いのを味わい終えると、早速百合子と有希が出ていた劇について会話が始まりだしたその時、『チンッ』という小気味良い音がキッチンの方から聞こえた。

「お、出来たわねー?」と有希がすぐに反応を漏らすと、「ふふ、ちょっと待ってて下さいねー?」と絵里が悪戯っぽく笑い返しながら腰を上げて、そのままキッチンへと向かった。

オーブンの前まで来ると、オーブンミトンに手を通し、それから中に入った物を引っ張り出すのを、私たちは見守って見ていた。

「…よし」と絵里は一人ボソッと言うと、予め用意していたらしい大きめの四角いお皿に並べながら言った。

「…ふふ、まだ出来立てなんで、熱がそのまま残った状態だけれど…それも美味しいから良いよね?」

と、作業を続けながら絵里が視線を飛ばしてきたので、座り位置からしてキッチンが真後ろにあるが為に、体を捻っていたのだが、後頭部や横顔に視線が集まるのを感じつつ、「…ふふ、えぇ、良いわよ」と私が笑顔で返すと、「ふふ、良かったー」と大袈裟にホッと胸を撫で下ろした絵里は、丁度並べ終えたらしく、その大きなお皿を両手で持って戻ってきた。

そして「んー…、私の腕ではそれなりに良く出来たと思うんですけれど…」とここにきて途端に苦笑いを顔面に浮かべて言い訳がましい言葉を漏らしながら、テーブルの真ん中に置いたので、早速私たちは揃って上体を前に倒しつつお皿の中身を覗き込むと、そこに入っていたのは、湯気が立ち昇る点で出来立てなのが一目瞭然の、何枚ものチョコレートクッキーだった。


…そう、絵里は私たち、話を聞く限りでは恐らく百合子や有希が来る以前から、チョコレートクッキーを焼いていたようだ。…ふふ、勿論、私だけではなく、他の全員も絵里がクッキーを焼いてくれているのに気付いていた。

何せ、部屋に入るなり熱せられたチョコの甘い芳醇な香りが鼻腔を刺激してきたし、キッチン側まで来ると、思いっきりオーブンの作動音が聞こえてきたからだった。


「早速食べても良いの?」

と有希が待ち切れないといった調子で聞いてくると、「ふふ、先輩ったら…」と絵里は一度呆れて見せたのだが、「えぇ、勿論です」と答えた後で、「百合子さんも、裕美ちゃんも、それに…ふふ、琴音”先生”も是非食べてみて?」と一同の顔を見渡しつつ言っていった後で、最後に私の顔で止まるとニコッと目を瞑りつつ言うので、「…ふふ、何が琴音先生よまったく…」と、丁度他の皆と同じように、まだ温もりのあるクッキーを手に取ったところだった私が、ジト目を向けながらツッコミを入れると、次の瞬間には百合子を含めた皆が一斉に笑みを零した。

それを見て、私も小さく吹き出すと後から続くのだった。


以前にも触れたが…ふふ、そう、私は今年に入って何度かここに訪れては、絵里に頼まれるままに料理を教えていた。

以前にもチラッとは触れたが、こうなった事の経緯は話していなかったと思うので、軽くでも話すと、あれは確か…一度恐らく私の自宅に絵里が遊びに来た時に、丁度私が料理当番だったというので食事を出したのがキッカケだったはずだ。

勿論、私自身だってお母さんにまだ色々と教わっている身なのだが、しかしそれでも絵里曰く、自分とはレベルがそれでも段違いだと褒めちぎってきたので、そのまま教えてくれる様にお母さんの前で頼んでくるので、それを面白く思ったらしいお母さんが悪ノリしてくる中、私自身もまんまと乗せられて教えるようになったのだった。

レッスンメニューは一般的な料理だけではなく、お菓子作りも含まれていて、こうして絵里はたまに私たちの集まりがある時にはお菓子を作ってくれる機会が増えていた。

因みにチョコレートクッキーは一度私が教えたきりで、”先生”である私自身も食べるのがこれで二度目だった。勿論裕美たちは初となる。


「じゃあいただきまーす」

と有希が号令をかけたので、「いただきまーす」と私たちも続くと、「はーいー」と絵里が若干の照れを見せつつ返した。

この絵里に教えたチョコレートクッキーは、チョコレートを溶かして薄力粉を混ぜるだけのシンプルなもので、私が師匠にお菓子作りを習い始めた最初の頃に教わった物だった。

ただ…ふふ、その頃の私と同じで、もう少しサクッとした食感になるはずなのに、少し湿り気というのか、そこまでには至っていない点が分かったが、しかし味そのものはキチンと出来ているという、小学生の頃の自分が作ったのを思い出してしまったあまりに笑みを零してしまった。


「ん?琴音、どうしたの?」

とクッキーを一口入れて中身を空にしてから裕美が話しかけてきた。

「え?何か変だった…?」

と絵里も笑みは浮かべたままだったが、しかし仄かに心配げな色が滲んでいる。

有希や百合子も何も言わずともキョトン顔でこちらを見てきていたのを受けて、「い、いやいや、別に変なんかじゃないよ」と自分でも思った以上に慌ててしまいながら返してしまったが、すぐに普段通りに戻ると、自然な調子で続けて言った。

「…うん、本当に。絵里さん、これで二度目にしては良く出来ているよ。味は完璧。後は…ふふ、もう少しサクッとした食感が出るようになれば良いね」

と最後に目を細めつつ笑顔を見せると、「おー、先生っぽい」と冷やかす有希に始まり、その横でクスッと小さく笑みを零しながらも、頷きつつもう一枚のクッキーに手を伸ばす百合子、「はー、”先生”は厳しいなぁー」と隣の裕美は既に手にしていたクッキーをパクッと口に入れた。

「あはは、そこなんだよねぇ…ふふ、精進します」と絵里が頭を深めにその場で座りながら下げてきたので、思わずギョッとしてしまったが、またしても一同が一斉に笑顔になったので、私もその頭の上から笑みを零すと、顔をあげた絵里の顔にも笑顔が浮かんでいた。


「しっかしなぁ」

と有希が朗らかな雰囲気の中口を開いた。

「ただでさえ最近は髪型をキノコから市松人形ヘアーって、人間に近付けてきて美人になっていくのに、こんな女子力高い事を始めちゃったら…ますます男がほっとかないわねぇー」

「あはは、ですよねー?」

と、有希がニヤケ顔で言うのを聞いて、途端に裕美もニヤケ顔で同調した。

「ちょっと裕美ちゃんまで…」

と苦笑まじりに一旦裕美に声をかけた直後、今度は目を思いっきり薄めながら有希に顔を向けた。

「まったく…ふふ、人間に近づいて来たってどういう意味ですかー?」

「あはは」

とただ笑い飛ばす有希の反応を見た私と百合子は、顔を見合わせると、どちらからともなく微笑みあった。

「まったく…ふふ」

と、そんな有希の態度に自分が不満たらたらでいるのが馬鹿らしくなったのか…うん、まるでそんな風に言いたげに呆れ笑いを零した絵里は、そのままの表情を持ちつつ続けて言った。

「それに…ふふ、何度言ったら分かってくれるんですかねぇ…?料理を振る舞う相手なんか私にはいませんってば」

と言い終えるかどうかという所で、まるで何かを誤魔化すかのように口にクッキーを放り入れた。

そんなあからさまな、態度に出やすい絵里のそんな様子を放っとくほど有希は甘くない。

「えぇー?てっきり…例のあの色男のために、料理を琴音ちゃんから習い始めたんだと思ったんだけど?」

「…っ!…はぁ、センパーイ?」

と絵里は今日一番のジト目を向けつつ答えた。

「なーんで私が、アヤツの為なんかに料理を学ばなくちゃいけないんですか?もーう…自分のためですよ」

と心底呆れて見せていた絵里だったが、しかし今のような態度を取る直前に、口は開けたのに言葉を発することが出来なかった、あんぐり顔を見せた姿を見逃さなかった私としては、これまた随分と分かりやすいと一人笑みを零していたその時、

「色男って…アンタのおじさんの事ー?」

と裕美が不意に声をかけてきた。

「え?」

と私は聞き返しつつ隣に顔を向けた。

何度かこの集会に出席している上に、何度もこの手のノリは経験してきたはずなのに、裕美が何でこんな事を聞いてくるのかと一瞬だけ不思議に思ったが、口元を見るとニヤけているのが分かった私は、「ふふ、そうよー?義一さんのこと」と顔は徐々に裕美から逸らして行きつつ、視線だけ先回りして絵里に向けた。

そんな私たちの意味ありげな態度からすぐに察したらしく、「もーう…あなた達ねぇ…」と苦々しげに力なく絵里は笑顔を漏らしていたが、「そうそう!義一”君”」と代わりに有希が相槌を打った。

「いやぁー…ふふ、私もこないだ裕美ちゃんに、花火大会の写真だというので、それで見ただけだったけれど…彼は、写真以上に実物は良い男でしたね?」

と不意に顔を絵里の反対に向けると、

「え?…ふふ、私もその写真を裕美ちゃんから一度見せて貰ったけれど…えぇ、そうね?」

と百合子はチラッと裕美の方に目を流しつつ微笑みを浮かべながら有希に答えていたが、ふとこの時、チラッと絵里の方に視線をズラしたかと思うと、次の瞬間ウィンクを小さくだがした様に見えた。

思わず私は顔を絵里に向けたが、絵里は相変わらず苦笑いを浮かべており、これが果たして百合子の態度によるものか、それともただの有希に対してのが残っていただけなのか、この時点では判断がつきかねていたのだが、そんな事をクドクドと考え巡らせている私を他所に話は進んでいっていた。


「いやぁー、私もさ?」

と有希は続ける。

「私もそれなりに長いこと演劇という業界の中にいて、そのせいと言うか、会う役者会う役者の顔立ちが良い人ばっかりと知り合ってきたけれど…ふふ、義一君ほどに顔が整った男はそうそう出会った事が無いわ」

「…ふふ、確かに」

と百合子が相槌を入れる。

「私も義一君くらいに顔が整っている役者には会った記憶が無いわね…」

「へぇー、そうなんですね」

と裕美が意外と興味津々に合いの手を入れた。

…いや、意外でもないか。何度か度々触れてきたように、裕美は去年の観劇以来、演劇というものに関心を深めているのは間違いなかったからだ。

「うん、そうだよー?…」

「…え?」

と、ここで不意に有希がこちらにニヤケ顔を向けてきたのに気付いた私は声を漏らした。

…まぁ、会話の流れ的に、絶対にこっちに火の粉が飛んで来るとは思ってはいたのだが、実際にその通りになった。

「…ふふ、琴音ちゃんもそうだけれどねー?絵里がしょっちゅう言ってるけれど、本当に凄腕の職人が緻密に作った人形なんじゃないかってくらいに、琴音ちゃんも顔が整ってるんだからねぇ」

「ですよねー?」

と、ここに来てようやく矛先が外れてくれたと安心したのと同時に、からかう相手も出来たというので見るからにテンションを上げた絵里が、さっきまでジト目を向けていた相手だというのに、有希に乗っかっていった。

「もーう、有希さんまで…」

とこれも一応通過儀礼として一度は苦笑を浮かべておいたが、それこそ長年にわたって絵里にこんな態度を取られ続けてきた過去のいらない蓄積があった私が、

「…ふふ、人形って…私”まで”人間扱いして貰えないんですかー?」

と途端に悪戯っぽく笑いながら続けて返すと、この対応が功を奏したらしく、直後にはまた一斉に場にいた皆の顔に笑顔が浮かぶのだった。


「有希さんはでも、ようやく琴音のおじさんと会えたんですねー?」

と裕美がチビチビと少しずつクッキーを齧りながら声をかけると、「あはは、まぁねー?百合子さんが足繁く通っている、隠れ家的なお店でねー」とマグカップを置くところだった有希は返すと、そのまま続けて数奇屋の話をし始めた。

その話は、有希なりの初めて行った印象なり感想なりがふんだんに盛り込まれていたので、考えてみたらまだ有希から感想を聞いた事がなかった私は、この話をこの中で唯一知らない”ある人物”の前で話されてしまった事には意識が向かずに、興味深く話を聞いていた。

まぁでも一口に纏めてしまえば『楽しかった。また是非行きたい』といった身も蓋もない話だったのだが、それに対して勿論「えー?また行くんですか?」とうんざりげな笑顔で絵里が口を挟んだのは言うまでもない。


「ふふふ」と絵里の反応に笑顔を浮かべていると、不意に裕美に声をかけられた。

「アンタも知ってるの?」

「え?」と一度は聞き返したのだが、そのあまりにも自然な調子とタイミングに質問してきたせい…って裕美のせいにする気は無いのだが、「えぇ勿論。何度も行ったことがあるわ」と自然と思わず返したが、言い終えた時点ではたと気づいた。

と同時に視線を向けられているのに気付いた私が見ると、絵里も『あ』と口を開けてこちらを見てきていた。

そんな私、ついでに絵里を巻き込んで私たちがそんな様子でいるのをお構いなしといった調子で、裕美は続けて言った。

「へぇ、アンタも知ってるのね?その…アンタのおじさんや百合子さん達がよく集まっているっていう、その場所を」

と裕美が言うのが、本人がどう言うつもりであれ意味深に聞こえた私がアタフタと何かを返そうとしたが、言葉が見つからないでいた。

『もしかしたら今裕美にバレるのは不味いのかな?』と直感的に思っていたのだが、しかし少しして、ふと開き直りにしか端からは見えない思考の転換が私の中で起きて、その思い込みのまま「えぇ、知ってるわ」と我ながら自然と返した。

と、この時、またもやというよりも、先ほどよりも強めな視線を感じたのでまた顔を向けると、前よりも一層目を見開く絵里がそこにいたのだが、私は自然体の笑顔を意識しつつコクッと一度緩やかに頷いた。

その頷きに私が含めた意図を恐らく汲み取ってくれたのだろう、『やれやれ』度合いの強めな色が瞳に浮かんでいたが、絵里は徐々に目の大きさを元に戻していった。


因みに絵里には既に、『別に悪い事なんか何一つとしてしていないんだし、両親に私と義一が頻繁に、しかも小学五年生から今まで隠れて…うん、隠れてというか隠していたのは悪いかもだけれど会って、義一の家、宝箱で長い時間、濃厚な時間を過ごしてきた事を、もしもバレてしまうというのなら、いっその事それは別に構わない』という気分になっている話はしていた。

具体的に言えば、絵里の日舞師範昇進記念という事で、他の流派なりの師匠達、その他の弟子、生徒達の前で舞を披露するという舞台を、義一が観にくることが決まった時に、私と絵里の間でそのような話を交わしたというのはご案内の通りだ。

有希がひょんな事から数奇屋について触れてくれたお陰で裕美にもバレるきっかけとなったが、いくらでも誤魔化せたのに開き直って自らバラした私は、そのまま滔々と裕美に数奇屋について簡単に説明をしていった。


「へぇー…ってか、アンタのおじさん、今テレビとラジオ番組を持っているというか、出演してるんだ?」

とまずそこに食いついた裕美は、そう聞いた直後に呆れ顔を浮かべて続けて言った。

「まったく…自分の親しい親類がテレビに毎週出ているってのに、私含む誰にも言わないんだからなぁ…ふふ、普通は話しちゃうものでしょ」

「…ふふ、だって別に…都内と周辺の県だけに放送している小さなテレビ局の番組だもの」

と私が微笑みながら返すと、「それにしてもよ!」と裕美はテンション高めに言った後で、「そっかぁ…」と今度は途端に落ち着いて見せたかと思うと、シミジミと言った。

「その局というか、チャンネルを開いてみた事が無かったけど…今度見てみるね?」

と最後に目をギュッと瞑って見せてくれたのを受けて、私は勿論一瞬は嬉しい気持ちになったのだが、すぐに番組の内容、主旨について思い出し「ふふ、ありがとう。でもねぇ…」と私が言いかけたその時、

「いやいや裕美ちゃん、アヤツの司会する番組とか、私は正直お勧めしないなぁ」と絵里が口を挟んできた。

声の調子だけではなく、表情も心底うんざりげだ。

「え?なんでー?」

と、まぁ当然の疑問だろう裕美が聞き返してくると、自分からそう言ったくせに「い、いやぁ…」と途端にタジタジになった絵里だったが、

「アヤツの番組はね、妙に小難しいし、そ、そのー…うん、琴音ちゃんみたいな特殊な例外は別にして、一般の女子学生が観るような番組では無いからね」

と、このような台詞を早口気味に、捲し立てるように言うのを聞いて、既に有希と百合子は初めの段階で笑みを浮かべていたのだが、続いて私、そして最後まで聞き終えた裕美も混じって笑みを浮かべた。


そしてそれからは、「なんでそこまで絵里さんが言うのー?」とニヤニヤしながら私と裕美とで質問攻めにして、それに対して何とかのらりくらりと口撃を交わす絵里というやり取りを何度か交わしていると、そろそろラチが開かない事に気づいた…というよりも単純に満足したのだろう、裕美は話の流れを元に戻していった。


「しっかし、そうだったんだねぇー。ふーん…そこで百合子さんとも出会っていたんだぁ」

「…?」

と私は初め、このように自分自身に納得させるように言う裕美の態度を疑問に思ったが、不意にこの時点で初めて、数奇屋の事を知られる以前に、もう一つ裕美に隠していた事があったのを今更ながら思い出した。


…そう、先ほどからチラチラと去年の観劇の話に触れているが、裕美を誘う中で、百合子は絵里の友人だと言って、その絵里に紹介された体を取っていたのだが、その”設定”を今の今まで放置したままで来てしまったのだ。

今のように開き直っている状態の私からすると、思い返せば別に素直に、むしろ本当は私繋がりで絵里と百合子が知り合って友人関係になったと話しても良かったと思うのだが、当時はまだ暫く隠すつもりだったので、そう設定をしてしまったのだった。

だがまぁ今や後の祭りというので、過去に話した事と今話した事との間に生じている矛盾に気付いてからというものの、恥ずかしさと似た心境の元でバツが悪い心持ちに頭が占められていたのだが、そんな私の様子をどう見たか、裕美はクスッと小さく笑うと冗談まじりに言った

「そんな所まで出入りしていたなんて…あんたは本当に私たちみたいな普通の女学生とは違うなぁ…。一体全体、本当にアンタは何者なの?」

「…ふふ」

と、久しぶりにこの言葉を貰った私は、以前にもこんなやり取りが何度かあったことを思い出し、そんな普段通りのコチラをからかってくる裕美の様子に、それまで覚えていた気まずさと緊張が同時に解けて自然と笑顔になってしまった。

そして、私が返した言葉は当然次のようなものだった。

「…ふふ、さぁ?…私自身にだって分からないわよ、そんな自分が何者かなんて」


「あはは、それもそうね」

と裕美が明るい口調で返した直後、「あはは、違いない」と有希も後から加わり、その後は絵里と百合子も混じって一緒になって微笑みあった。

と、そんな和やかな雰囲気の中、突然「…あ」と声を漏らしたかと思うと、視線が自分に集まるのに気付いた有希は、照れて見せつつ口を開いた。

「えぇー…っと…ふふ、これは既に百合子さんには話しているんだけれども…」

「…?」

話を聞いた私たちは、お互いに顔を見合わせた後で、隣り合って座る有希と百合子の二人の顔を交互に眺めていた。百合子はというと、「…あー…ふふ」と一人ですぐに察したらしく、しかし自分とは関係が無いと言わんばかりに、アイスティーを味わうように飲んでいた。

有希はというと、そんな呆気顔の私たち三人に対して、「ふっふっふ、実はね…」と口に出しながら、徐々にその中に誇らしげな笑みを覗かせていくと、勿体ぶるように先を続けた。

「…コホン、この度わたし澤村有希は、義一君がパーソナリティを務めているテレビ番組、オーソドックスのアシスタントを務める事になりましたー!よろしくねー?」

と途端に元気いっぱいテンション高く言うので、それにも勿論またしても呆気に取られてしまったのだが、勿論言った中身に対しての驚きの方が大きかった。

「…へ?」

とまず私と絵里がほぼ同時に声を漏らし、「へぇー」と感心した風に裕美が後から続いた。

有希は、自分としては狙い通りに事が運んだと満足げな笑顔を浮かべながら、そんな呆気に取られっぱなしの私と絵里を放っといて先を続ける。

「…ふふ、驚きすぎて質問されないから、私から経緯を話しちゃうとね?んー…ほら、以前にというか、私が初めて数奇屋に行ったのが先月末だったし、まだそんなに時間が経って無いけれど、あの時に連絡先を交換して、その後で色男から来てくれたお礼のメールを貰ったって話したでしょ?」

「え、えぇ…」

と、私と絵里が一度まだ躊躇いがちに相槌を打つと、ケラケラと笑いながら有希は話を続けた。

「それから、そうだなぁ…実はつい一週間前なんだけれど…ふふ、いきなりね、またもや義一くんから連絡を貰ったの」

「へ?」

「へぇー」

と、絵里と私がそれぞれ毛色の違うリアクションを返した。

有希は続ける。

「それだけでも驚いたのにね?一体なんだろうって思って読んでみたら、初めの方は、また前回の数奇屋の事でお礼が簡単に書かれていたんだけれど…ふふ、最後の文面を見て驚いちゃったわ。だって…『もし良ければ、今週のどこかでお時間をいただけませんか?』とね、それだけ書いてあったの」

「え…?」

と、これまた私と絵里とで同じように声を漏らしてしまったが、しかしその声色からして、すぐに私とは意味内容が微妙に違うのがすぐに分かった。

それは有希も同じだったらしく、これまでは基本ニヤケ顔だったというのに、ここで不意に珍しくというか、若干慌てる様子を見せつつ言った。

「あ、いやいやいやいや、…ふふ、先回りして言っちゃうと、実際は絵里、あなたが思ってるような事では無かったんだけれど…ね?」

と最後に間を一旦置いてから有希が悪戯っぽく言うと、

「わ、私は別になんとも…」

と絵里はシラをきって見せていたが、そんな態度をしても私含む他の皆からしたら分かりやすい事この上なく、どうやら皆の心は同じだったらしく一斉にニヤケ顔を向けると、絵里は何か言いたげだったが、ただ一人で肩を竦めるのみだった。

それにまた満足したらしい有希は先を続ける。

「あはは。んー…ふふ、でもね?期待って事では無いんだけれど…ふふ、百合子さんも同意してくれたけど、彼って面と向かってだと、これでもかというくらいに詳細に話してくる癖に、何故かメールだと妙に素っ気ないというか、簡潔に済ませちゃうでしょ?」

「あー…」

と私と絵里がすぐに納得の声を上げる中、「ふふ、そうなんだ」と裕美はクスリと一度吹き出すと、私に話しかけてきた。

「そんな所でも、アンタとおじさんってそっくりなのねー?アンタは絵文字なりスタンプなりを一切使わないし」

「あー、確かにー」

と、裕美の言葉に、百合子まで含めた”大人勢”全員が納得しつつこちらを眺めてきた。


まぁ…こんな情報は、蛇足中の蛇足だろうが、確かに義一にしろ、私にしろ、一切その手のものは文面に入れ込んだ事が無かった。

まぁ…義一はどうかは知らないが、私個人で言えば、別にするのは吝かでは無いのだが、しかしやはり”キャラ”では無いと自覚しているし、している自分を想像すると何だか”恥ずい”のでしないできていた。

因みにも因みになのだが、私一人だけ恥をかくのは嫌だと、酷い理由だが無理やり律を引っ張り出してくると、律もそれほど付き合いが深くない人からしたら、私と同じキャラに見られているのだろうが、何度も触れてきたように中身は私たちグループ内随一の”乙女乙女”趣味の持ち主なのもあってか、普段は物静かで凛としている姿だというのに、妙にメッセージなりメールの文面は可愛らしかった。

…ふふ、それらを打ち込んでいる無表情の律を想像するだけで、あまりにも可愛らしく微笑んでしまうのだが、これ以上は律にも悪いし、そろそろ雑談も長すぎるというので話に戻るとしよう。


「あ、いや…」と私は、どこかの絵里みたいにたじろいでしまったが、「い、いや、今は私の事なんか、どうでも良いでしょー?」と一同を見渡しつつ苦笑まじりに言った後で、有希に先を続けるように促すと、こちらへニコッと一度微笑んでから、私の頼みを聞き入れてくれて話に戻った。

「まぁ…でね?何だろうと思いはしたけれど、でも別に義一くんと会うのは構わないというか、また会って会話してみたかったのもあって、先週の…ふふ、いつだったか忘れちゃったけれど、空いてる日を言ってみたら、その日なら自分も大丈夫って返してきて、それからは会う時間とかを簡単に打ち合わせして、その日のやりとりは終わったの。

それで当日ね。ちょうどその日が例のテレビ番組の収録があったとかで、そのテレビ局がある近所の喫茶店で待ち合わせして落ち合ったんだけれど…ふふ、挨拶もそこそこに、一言二言の言葉を交わした後でね?彼ったら…ふふ、いきなり聞いてきたのよ。『有希さん、前置きなくいきなり聞きたいんだけれど…僕の番組に、アシスタントとして出てくれませんか?』ってね」

「…ふふ」

と、有希の言葉の直後に、思わずといった調子で小さく百合子が微笑を浮かべた。

そんな珍しい百合子の反応に対し、私は思わずジロジロと見つめてしまったのだが、有希はそんな私、それによく分かっていない様子の絵里と裕美に対して苦笑交じりに言った。

「いやぁ…ふふ、最初何を言われたんだろうって感じで、咄嗟に返せずに『へ?』って言っちゃったんだけれど、でも少ししたら『あー…これって、出演依頼なのね?』って気づいてね、私は多分今と同じ表情をしていただろうけど、義一くんにまず言ったんだよ。

『義一くん、君も知ってると思うけれど、私も一応百合子さんと同じ事務所に所属しているから…ふふ、そんな話はまず、事務所を通して貰えないかな?じゃないと…ふふ、いわゆる”中抜き”ってことになっちゃうから』ってね」

「”中抜き”…」

と私たち三人が同時に言葉を漏らすと、その後は簡単に有希が説明してくれた。

要は、事務所に所属する役者、タレントに出演してほしい時には、まず事務所を通さないとダメで、通さないと”中抜き”と呼ぶ違反行為になるとの事だった。


…と、ここで一つ、事務所がどうのという話が予期せずに出たので、もしかしたら微妙に気にかかっている方が居られるかもしれないと思い、ついでと触れてみたいと思う。

というのは、有希はフリーではなく事務所に所属している事が、ここで知られたわけだったが、加えて言うと、その有希が所属する事務所には、百合子も所属しているのだった。

…ふふ、まぁ大方予想通りの事実だろうが、私がこのladies dayで聞いた経緯を簡単にでも説明してみると、有希は自分が大学二年生の時に、大学生なりたての絵里に対して、演劇の世界に飛び込むので大学を辞めると言い残して姿を消したという話はしたと思うが、その後で有希が起こした行動はというと、伝手があったというのがあって、演劇の勉強にフランスに飛んだらしい。

別に芝居の勉強するのに必ずフランスに行かなければいけない理由は無いのだが、今述べた通り伝手があったというのと同時に、有希自身がモリエール、ラシーヌ、近代だとジロドゥやアヌイという面々が好きだったのが大きかったようだ。

どうでも良いことを付け加えさせて頂くと、私も有希があげた今の四人が好きだったので、この様な大きな共通項を見つけられたお陰から、私たち二人の距離は縮まった様に初対面に近い時は思えたものだった。

…って、私のことはともかく、絵里が初めて数奇屋に来た時にもチラッと話が出た様に、十代のうちまではバレリーナを目指していた百合子だったのだが、道を諦めた後に演劇一筋で行こうと志し始めた初期の頃に、有希と同じ様にフランスへ単身渡仏していたらしい。

この話をしてくれた時の有希は「百合子さんが私と同じ様にフランスに行っていた事を後で知ってね?驚いたのと同時に嬉しかったのを覚えているわー。私は間違っていなかったんだってね」とまるで好奇心旺盛な少女の様な笑顔を浮かべつつ話すので、演劇が好きなのは勿論のこと、百合子の事を心から尊敬しているのも知れて、とても微笑ましく思ったのを覚えている。

ただ残念なのは、この話を聞いたのもladies dayの場でだったのだが、この時は百合子が同席していなくて、これを側で聞いた百合子がどんな反応をするのかが見れなかった事だった。

…って、またもや話が逸れたので有希の過去について戻すと、暫くフランスで活動していたらしいが、元々その気持ちを持ってはいた様だが、やはり日本語で演劇がやりたいという気持ちが高まって溢れるのと同時に、思い切って日本に帰ってきたようだ。

帰国後すぐのうちは、フリーも考えたが自分で自分を売り込むのは面倒だと、どこか自分の考えと同じ所はないだろうかと様々な劇団の劇を観に行っていたらしいが、その流れで最後に観たのが、マサが脚本の百合子が主演の舞台、ソフォクレスが勿論一番有名なのだが、この時はジャン・アヌイの『アンティゴネー』だったようだ。

事前情報を何も調べずに観に行ったというので、まず高校生の頃に絵里と共に憧れていた百合子が出ていたのに驚いたのと同時に、深みが増したその演技に圧倒されて、また同時にマサの脚本にもシンパシーを感じたという有希は、その時点で絶対に百合子と同じ事務所に入る事を決意したとの事だ。

しかし、てっきりマサも同じ事務所にいるものだと思っていたらしいのだが、マサは話の中でも出た様に、個人事務所を構えていたので、百合子の所属する事務所とは厳密には別だった。

だが、マサと百合子の事務所というか、劇団がメインなのだがその代表が長いこと連んで様々な仕事をしてきたらしく、なので百合子とマサは違う事務所同士だというのに、しょっちゅう仕事を一緒にしてきてきたという経緯があった様だ。

さて、脱線し過ぎて何の話だか忘れられてそうだが、結論じみた事を言うと、有希は武者修行から帰ってからは、百合子の事務所、劇団に所属となり、その劇団の劇だけに拘らず、百合子と同じ様に他の劇団の劇に出たり、マサとの予定が合えばという前提は当然あっても、これまでに百合子を含む三人で色んな作品を作り上げてきたという事だった。

さて、長い補足はこの辺りで終える事にして、話を現在に戻すとしよう。



中抜きについての説明をしてくれた有希は、先ほどまでの苦笑をやんわりと緩めつつ続けて言った。

「…とまぁ、義一くんにも教えてあげたんだけれど、また再度ね、『そんな話だったら、まず事務所を通してくれないとなぁ…』って言うとね、『そんなルールがあるとは知らなかったよ。…ふふ、すまないね』って照れ笑い浮かべつつ彼は返してきたんだけれど、それもすぐに引っ込めると、代わりに目をキラキラさせながら聞いてきたのよ。『で…有希さん、実際あなた自身は、出演してくれって今僕に言われて…どう思ったのかな?』ってね」

「それで…どう返したんですか?」

と慎重に聞く絵里の後を、私は何も口に出しこそしなかったが、少し体勢を前のめり気味に頷いていると、有希はそんな私たち二人を微笑ましく眺めた直後、途端に無邪気に笑いながら答えた。

「…ふふ、この話は既にネタバレしちゃってるから、驚きも少ないだろうけど、実際はね…うん、自分でもビックリするくらいにね、彼が最初に口に出した時点で、私の方では既に答えが決まっていたのよ。『凄く良い提案だわ…面白そう!』ってね」

とますます有希は無邪気さを強めながら続けた。

「『あの数寄屋で聴かせて貰った、義一君や他の癖ありまくりだけど面白い私の知らない事を教えてくれる人たちと会話を毎週すぐ側で聞けるのは良いなぁ』ってね?でも…ふふ、そんな聞かれてすぐに答えるのもさぁ…ついさっき、そういう事は事務所を通してからにしてって言ったばっかりだったし、中々すぐには答え難かったんだけれど…ふふ、少し間を置いてから私が答えたのは、皆が今話を聞いてくれてきた通りで、『勿論、私は出てみたいなって思ったよ』って答えたんだ。『私なんかで良かったら、事務所に話が通って、スケジュール調整なりが済むなら喜んで引き受けさせて頂くよ』ってね」

「えー…」

と大袈裟に不満げな顔つきに合った声を漏らす絵里と同時に、「へぇー」と、私と裕美は妙に感心した風な声を漏らした。

「面白いって言えば、まぁ…面白いかもですけれどもねぇ…アヤツ程な理性の怪物くんは、ちょっとやそっとじゃ居ないですから」

と、不満げな表情を保つ事が出来ずに、結局は苦笑交じりに絵里は続けて口にしたが、そんな絵里と私、裕美、そして最後に百合子に顔を向けていった後で有希は口を開いた。

「それからはね、義一くんは私と別れた後ですぐに劇団事務所の方に連絡を入れたらしくて、彼は…ふふ、百合子さんや、マサさんとの繋がりが強かっただけじゃなくて、ウチの代表とも仲が良かったからねぇ…多分許可されるだろう事は想像出来たんだけど、思った以上にアレヨアレヨという間に話は進んで…うん、つい三日前に正式にね、義一君がパーソナリティを務める番組、オーソドックスのアシスタントに決定したって経緯があったの」

「なるほどー」

「毎週が一応基本だけど、もし仮に自分が出れない日が出ても、しょっちゅうじゃ困るけれどたまになら大丈夫と言う緩さも魅力的だったんだ」

と有希が付け加えたその時、それまで苦笑気味の顔を保っていた絵里が、不意に顔を普通に戻すと口を開いた。

「…あ、そういえば、ギーさんのラジオの方にもアシスタントの女性がいるけど…」

「そう、私が義一くんに紹介した同じ事務所の子ね」

と咄嗟の事だったのに、反射神経よろしく百合子が相槌を入れた。

「あ、そうでしたね。で、えぇっと…彼女がテレビも兼任って訳にはいかなかったんですか?」

と絵里が続けて質問をすると、「ちょっとー?私じゃ不満なのー?」と目を思いっきり細めてはいたが、しかし口元はゆるゆるの有希が口を挟んだ。

「ふふ、そんな訳では無いですけれど…」

とワザとなのだろう、含み笑いをしながら返した絵里は、すぐにまた顔を百合子に戻した。

百合子はというと、品の良い静かな微笑を浮かべていたが、その中にイタズラっぽい無邪気な成分を含ませつつ答えた。

「ふふ、今まで有希が話してきた事に、この場にいない義一くんの代わりに付け足すとね?ことの発端としては、義一くんが局のプロデューサーなりから提案されたことから始まってるの。『アシスタントでもいれませんか?』ってね。

要は、今も絵里ちゃんが言っていたけれど、確かに私個人の感想で言えば話自体は面白いのだけれど、ただ所謂”玄人”同士の会話を垂れ流しにしてる感じじゃない?まぁそれでも、内容が難しい割には視聴率は”あの手”の番組にしてはかなり良いらしいんだけれど、良ければ良いほど欲が出てくるらしくてね?…ふふ、もっと視聴率を稼ごうというので、義一くんだけじゃなく、所謂”素人”、何も難しい話なんか分からない様な、そんな大多数の視聴者を代表するようでいて、尚且つ臆すること無く色々と忌憚なく質問してくれるアシスタントが側にいてくれた方が、番組としても纏まりが出てというか、ますます良いだろう…って、提案されたらしいの」

「へぇ…なるほどですね」

と私は納得の声を漏らしたが、それは私だけではなく絵里や裕美もそうだった。

「ふふ、そう。私が視聴者代表ってわけ」

と有希が誇らしげに胸を張りつつ言う中、百合子が微笑みを強めつつ続けて言った。

「…とまぁ、そんな提案をされたと義一くんから聞いてね?それで誰か適任の方を知らないですかと聞かれたから、さっきの絵里ちゃんの様に、ラジオの相方として紹介した彼女で良いじゃないかって思ったんだけれど…ふふ、彼女も本業は女優だからね?週一収録のラジオの相方くらいなら時間が取れたんだけれど、それ以上はって予め聞いていたもので、それを義一くんも当然知っていたから、それで聞いてきたのかって気付いてね?それで誰かいないかって考えたんだけれど…」

と百合子はまだ話の途中だったが、ここでふと裕美が口を挟んだ。

「あ、すみません。前から疑問に思っていたんですけど…百合子さん自身が出ようとは思わなかったんですか?」

「あー…」


…そっか。私が初めにその質問を振った時に、裕美は側にいなかったのね


という意味で声を漏らしたのだが、途中で話を遮られたというのに、一切嫌な顔を出さずに百合子が笑顔で質問に答えた。

「ふふ、私もね?最初の最初の段階というか、義一くんがラジオをするという事になって、この時は初めからアシスタントが必要だって事で、まず真っ先に…ふふ、光栄な事にね、義一くんから私にオファーが来たんだけれど…結果を見れば分かる様に、丁重にお断りしたの」

「えー?何でですか?」

と裕美が遠慮なく質問を続ける。

「私は琴音のおじさんとも会話をした事ありますけど、声の落ち着いた感じとか、雰囲気とか…二人はとても似ていて、バッチリだと思うんですけど」


…ふふ、私と全く同じ感想を持っていたのね


と私が一人思い出し笑いをしている中、百合子は微笑を保ちつつ答えた。

「んー…ふふ、私もねぇ…自惚れるわけじゃないけれど、今裕美ちゃんが言ってくれた様なことは常日頃から思っていたの。私と義一くんが雰囲気的に似てるというのは、美保子さんだとかが昔から言ってくれていたしね?でもね…だからこそ、私たち二人がパーソナリティのラジオは駄目だと思ったのよ」

「え?それはまた何で…」

と裕美が聞き返すと、百合子は勿体ぶった笑みを浮かべつつ答えた。

「それはね…ふふ、聞いている感じだと、あなたはまだ義一くんのラジオなりテレビを視聴していない様だけれど、さっき有希が言った様にね、なるべく分かりやすく柔らかめに噛み砕いてくれているとはいえ、それでも中々に小難しい内容に触れる事が多くてね?ただでさえそんな難しいというのに、私と義一くんがボソボソと落ち着いた感じで会話していたら…ふふ、視聴者がただ眠たくなっちゃうでしょ?」

と最後に無邪気に笑いながら言うので、裕美含む私達全員が笑みを零した。

「なるほど…って言って良いのか分からないけど、ふふ、そうですね」

と裕美が中々小難しげな笑顔を作って返すと、「ふふふ」と百合子が大笑いしたいのを我慢するかの様な、そんな抑え気味に笑いながら言った。

「私も、こう見えても一応女優だからね?別にテンション上げて明るいキャラでいって欲しいと要望されればするけれど…ふふ、でもそれはどこまで行っても偽物だし、折角の義一くんの番組だというのに、義一くんが持つ数多くの長所の中で、最大だと私個人が思っている”誠実”さが、損なわれたら勿体無い…とも思ってね?」

「あー…」

と絵里は、我知らずといった調子で声を漏らしていた。

どの言葉でこの様な素直な反応を示してしまったのか、自分が初めて質問した時に今の様な説明を百合子はしてくれたのだが、今回も同じ言葉に対してのと全く同じリアクションを取ったのもあり、私はまた一人小さく思い出し笑いを浮かべてしまう中、百合子は先を続けた。

「流石に今言ったままの事は、私でも恥ずかしいから言わないでおいたけれど、まぁ大体においてこんな説明をしたら、義一くんもそれなりに納得してくれてね?それでラジオには元々明るいサバサバとした性格の後輩を紹介して、実際に聞いてみたら思った通り、義一くんと良いバランスを保っていて良かったと思ったんだ。

で、テレビだけれど、そのラジオの経験もあるというので、今回は初めから私には話が来なくてね?ラジオの子と似た様なタイプがいないかと聞かれて、そうだなぁ…って少しその場で考えたんだけれど…」

とここでふと、百合子は顔を真横に向けると続けて言った。

「『…あ、そういえば、こないだ数奇屋に来たし、面識が無いわけでも無いんだし、折角縁が出来たんだから…有希が良いんじゃないかしら?』って思いついたのよ」

「あー、確かに」

と私も同じ様に有希に顔を向けていたのだが、そのまま感心した風な声色で言った。

「有希さんなら適任ですね」

「ふふ、ありがとう琴音ちゃん」と有希が笑顔でお礼を返したその直後、「まぁ…先輩は、ラジオの彼女よりも輪をかけてサバサバと明るいですけれどねぇ」と絵里が薄目がちにだが、やはりニヤケつつ続くと、「あはは、そんなに褒めないでよぉ」と有希は大袈裟に照れて見せながらも、しかし同時に胸を張って見せた。

そんな私たちのやり取りを、裕美は隣でクスクス笑っていたが、百合子も小さくだが同じ様に笑いつつ最後に付け加えた。

「ふふふ…とまぁ、そういうわけでね、私からの提案に対して、またしてもというか、義一くんがすぐに良い案だと採用してくれてね?その日のうちに有希に連絡を入れて、後は…ふふ、私はその場にいなかったから知らないけれど、今有希が話してくれた様な流れのままに、アレヨアレヨという間に話が出来上がって、それで今に至るってわけね」




有希の突然の”告白”に話は盛り上がったわけだが、百合子がそうシメの言葉とでも言っていいセリフを言い終えると、この話題はここで一旦区切りがついたと一同に共通の認識が出来上がったらしく、それからまた簡単な雑談へと話は流れて行った。

絵里はその間に、あれ程たんまりとあったチョコチップクッキーも全て食べ終えてしまった後に残った空のお皿を下げてから、アイスティーのお代わりを入れてくれていた。

その度にそれぞれが絵里にお礼を返している中、不意に有希が裕美に話しかけた。

「あ、そういえば…って、何だかついでに思い出したみたいで悪いけど…ふふ、乾杯の時に絵里が言ってた様に、裕美ちゃんの大会もそろそろなんだね?」

「あ、はい…ふふ、そうです」

と、今まさにお代わりを貰ったばかりのアイスティーを飲もうとしていた所だった裕美は、一度ゴクッと飲んでから、銅製のカップを置きつつ答えた。

「その前に練習試合ね?」

と私がすかさず口を挟むと、「まぁねぇー」と裕美が返す中、作業を終えて戻ってきた絵里が、腰を椅子に下ろしつつ口を開いた。

「あー、練習試合ねぇ…あーあ、私も観に行きたかったのに」

「あはは、絵里さんってば、まだ言ってるー」

と裕美が呆れ笑いを浮かべつつ返していたが、どこかしら嬉しそうに見えた。

そのまま話は裕美の大会について、そしてその前哨戦と言っても構わないだろう、クラブ内の練習試合について話が盛り上がりを見せる中、ふと悪戯っぽい考えが浮かんでしまった私が、不意に話の脈絡を考える事なくポロッと口にした。

「…ふふ、その練習試合には、私だけじゃなくヒロも観戦に来るのよね?」

「え?ま、まぁ…ねぇ」

と、言われた直後は目を丸くしていた裕美だったが、徐々にその目を細めていくと、終いにはこちらにジト目気味な視線を送ってきたその時には、すっかり場の空気はからかいムードに変容していた。

「青春だねぇ」と有希が腕を組みながら頷くと、「そうですねぇ」と絵里がすかさず乗っかり、終いには「そうねぇ…」と百合子までニヤッと仄かに笑い、三人揃って意味ありげな笑顔を浮かべつつ一斉に向けると、すっかりタジタジとなってしまった裕美は、「え、えぇっと…ちょっと琴音ー?」とボヤきつつ最後の退避先と私に顔を向けてきた。

「あはは、ごめんね裕美?」

と私は一切誠意の無い謝罪の言葉を投げかけると、それに続いて他の三人も同様な言葉を口にした。

そんな私たちの反応に、参り顔がいき過ぎた為に苦笑いになりつつも「もーう…」と裕美が今度は冗談まじりに拗ねて見せたので、私たちは朗らかに笑いあい、その後から少し遅れて裕美も混じるのだった。


因みにこうしていた時の私は、話が裕美をからかうのに集中したので、自ら撒いた種とはいえ実は一人安心してもいた。

というのも、裕美がいない時のladies dayで、ヒロ、そして裕美の話題が出た時になると、ここ最近では特に毎回の様に言われた事があったからだ。

言う人や状況によって言い方や中身などは微妙に違っていたのだが、概ね「あなたは構わないのね?」といった言葉だった。

これは別に私が勿体ぶっているのではなく、何に対しての『構わない』なのかは、実際に本人達が具体的に口には出さなかったが、流石に恋愛偏差値が幼稚園か、遅くとも小学校低学年で止まっていると自覚している私ですら、ヒロと裕美に関連して何を言いたいのか分かっていたので、

「私?それは勿論構いません。…というか、構う構わない以前の問題ですよ」と苦笑まじりに返し、「私はむしろ二人…というか、裕美を応援してるんですから」と続けて言うのがテンプレート化した返答だったのだが、そう返すたびに、絵里含む他の面々が微妙としか言いようのない笑みを浮かべるのが常だった。

どうも話を聞いている限りでは、どうやら私とヒロが小学校入学時から今まで腐れ縁が途切れる事なく続いている点から、そんな勘繰りをしてしまうらしいのだが、その笑みを浮かべられる度に、自分では不思議と居た堪れないというと大袈裟だが、そんな居心地になりつつも、そんな事は私とヒロの間である訳がないと、また繰り返し否定するのだが、どうも暖簾に腕押し感は否めなかった。

だが、当たり前といえば当たり前だが、見ての通り”本当に”ヒロのことが好きな裕美がいる前では、私に対する様な話にはならないので、今は安心して一同の話に参加が出来、裕美には悪いが一緒になって楽しく過ごすのだった。





…とまぁ、長々と具体的に、どの様に今回のladies dayを過ごして来たのか触れてきたが、絵里のマンションを後にして、その中身について感想なりを言い合いながら歩いていると、ふと宿題を残しているのに気付いた私が、それを済ませようとしたのだが、中々どうキッカケを作って話すべきか迷っていると、「ん?琴音、どうかした?」と裕美に話しかけられてしまった。

「あ、いや、その…」

と何から言い始めたら良いのか皆目見当がつかなかったのだが、そう呟きつつ顔を裕美の方に向けると、いつの間にやら壁際を歩いていたはずの裕美の背後に緑がぎっしりと茂っているのに気付いた。

そして何気なく前方の方へ視線を流すと、お喋りに熱中するあまりに気付かなかったが、既に裕美の住むマンションの近所まで来てしまっており、さっき見えた新緑は、小学生の頃から中学三年生の今に至るまで、裕美と二人で特にこれといった目的なり理由も無いのにしょっちゅう立ち寄っている例の小さな公園のものだった。


と、それに気付いた次の瞬間、これも何かの縁だと深く考えるより先に口が走ってしまった。

「…ねぇ裕美、急な提案だけれど…少し公園に寄って行かない?」

「え?…」

と私からの突然の提案に、咄嗟には判断がつかない様子だったが、しかし私と同じ様に顔を前方に向けて入り口付近をチラッと見ると、小さくコクっと頷いた後でこちらに顔を戻した。

裕美は何やら呆れ顔は浮かべていたが、しかし同時に明るい笑顔を浮かべつつ言い放った。

「…もーう、しょうがないなぁ…姫様はいつも急で我儘なんだから…ふふ、良いよ!行こっか」

と最後にニカっと人懐っこく笑ったかと思うと、こちらからの返答を聞くまでもなく、途端に小走りで公園の入り口へと行ってしまった。

そんな無邪気な様子を見せられて、初めはポカンとしてしまったのだが、「はぁ…ふふ、姫じゃないってば」と聞こえないのを百も承知で一人で呟くと、「ちょっと待ってよー」と自分でも分かる程に苦笑を浮かべつつ後を追うのだった。


中に入ると、既に到着していた裕美は、これまた毎度私たちの定位置となっている、たった二つしかないベンチの内の一つに座って待機していた。

「おっそーい」と裕美は不満げな顔を見せていたが、しかしやはり口元はニヤけていて、パンパンと自分の座っていない空いているスペースを手で叩いて見せていた。

「ふふ、勝手に先に行くからでしょう?」

と私もやはりまだ苦笑い気味だったが、しかし自分も口元はニヤケつつ返しながら、促されるままに座った。


二人並んで同じ方向を眺める形となるわけだが、以前にも触れた通り、いつ頃からなのかは具には知らないが、幹の太さを見る限り中々に樹齢の経っていそうな桜の木が何本も植えられており、春には桜天井が頭上いっぱいに広がっているのだが、今見上げるとそこには、新緑に支配された緑天井とでも言うのか、密な枝葉のお陰で、すっかり茜色に染まっているはずの空の色がロクに見えない程だった。


「…ふふ、そんなに上を見上げているとさぁ…」

と隣に座る裕美が、じっと上を見上げたままの私の横顔にイタズラっぽく笑いながら声をかけてきた。

「…ふふ、顔に毛虫が落ちてくるかもよ?」

「へ?」

と私が顔を慌てて戻して見ると、裕美はそんな私の様子をケラケラと笑いながら見てきていた。

「…ふふ、そんなことも言ってたわねぇ」

と、別にいつも言われる事だったが、この時は初めて裕美とこの公園に来て、その時は二人で上を見上げたのだったが、同じ様な事を言われたのを思い出していた。

「あなたは実際に、顔に落ちてこられたんだっけ?」

と私が仕返しとばかりにニヤケつつ続けて言うと、

「違うってばー。私の場合は…ここに座っていた時に、すぐそこの辺りに上から落ちてきたんだよ…毛虫が」

と、自分が実際に体験したのだろう、ふと指を頭上に向けたかと思うと、それをゆっくりと下ろして行き、最終的には私たちの座るベンチから二メートルほど先あたりでピタッと止めた。

「…ふふ、そうだったかしら?」

と私がわざとらしく含み笑いを浮かべると、「『そうだった?』じゃなくて、そうだったから!」と、これまた大げさに語気強く裕美は返してきたのだが、それから私たちは顔を一瞬見合わせた後で、どちらからともなくクスッと吹き出すと、それからは二人揃って笑い合うのだった。


「…で?」

と、私たち二人の笑みが引き始めた頃を見計ったのか、裕美が不意に表情を落ち着けて言った。

「私を公園に誘ったのは…何か話したい事があったからでしょ?まさか…毛虫のことなんかじゃ無いよね?」

と、さっき自分が見た辺りにまた顔を向けたので、これが天然か気を遣ってくれてなのか、それは定かではなかったが、取り敢えず実際としてはその態度によって緊張の解れた私は、それでも一度心を今一度落ち着かせてから口を開いた。

「え、えぇ…あ、あのさ…」

「…うん」

と、裕美の方でも、何やら私の様子がいよいよ妙だと察したらしく、さっきまで明るい笑顔を見せていたというのに、今も別に笑顔には違いなかったが、それでも静かな顔つきに変化させていた。

そんな表情に少し怖気つきそうになりつつも、乗り掛かった船だとそのまま思いつくままに言う事にした。

「い、いやぁ…あのね?その…裕美、あなたに今更ながら謝りたいって思って…さ?」

「謝り…たい?って…私に?」

と、これは想定外だったのか、呆気に取られた顔に自分の指で差しつつ裕美は呟いたが、私は一度頷くと続けて言った。

「…えぇ、だって、その…去年の秋に、あなたをその…観劇に誘った…じゃない?百合子さん達の…イプセンの…」

「え?あ、うん…勿論覚えているよ。”人形の家”でしょ?」

「うん…ふふ、そう」

と、まぁまだ半年前くらいだから覚えていてもおかしくないのだが、何故かこの様に裕美が即答で返してくれたのが嬉しかったせいか、不意に我知らず笑みを零してしまったが、またすぐに顔を戻すと続けて言った。

「で、でさ?んー…その時に、確かあなたは私に聞いてきたと思うんだけれど…ね?その…『アンタに女優さんの友達がいるなんて』みたいな」

「え?んー…あ、あぁー」

と、何の前置きもなく急に振られたので、内容が細かいだけにすぐには思い出せない様子だったが、それでも思ったよりも早く答えてくれた。

「うんうん、何かそんな事言ったかも」

「ふふ、でね?その時私は、その…うん、こう返しちゃったと思うんだけれど…覚えてないかな?『いやいや、”私の”と言うよりも、”絵里さん”と私の友達だよ』って」

「え?ん、んー…あ、あぁ…」

と、ここに来て漸くというか、恐らく私が言った内容も思い出したのだろうが、同時に私がなんでこの様な話を振ったのかも分かった様な態度の様に見受けられた。

そんな裕美の様子に、私は少しまた、絵里のところでと同じ様なバツの悪さを覚えつつも、何とか抑え込みつつ先を続けた。

「実は…ね?そうは言ったんだけれど…さ?そ、その…うん、実はあの時点でというか、そのだいぶ前から既に…ね?私は…百合子さんの事を知っていてさ、だから…うん、ついついね、あなたに対して、『百合子さんの事は絵里さん程には知らない』って風な嘘をついちゃっていたから、その…それを謝りたかったの」

「…」

何とか最後まで顔を逸らさずに私が言い終えると、受けた裕美は少しの間は黙ってこちらを見つめ返していたのだが、不意にクスッと小さく笑みを零したと思うと、その直後には慌てて口元を隠した。

そして、その顔には何故かさっきまでの私と同じ様なバツ悪さげな笑みを浮かべると口を開いた。

「謝りたいって言うから、てっきり…ふふ、絵里さんの所でヒロくんの話を急に持ち出してきて、それを広げた事だと思っていたよ」

「…へ?」

と、こちらからすると想定外というか、まるで考えていなかった返答が来たために、この様な素っ頓狂な声を上げてしまったのだが、次第に状況を飲み込んでいくと同じくして、言っては何だがその”どうでも良いさ加減”に力負けした調子で、ついつい溜息交じりに返してしまった。

「…ふふ、そんなまさか。それに関しては…ふふ、別に何とも思っていないのだけれど」

と最後にニヤッと笑って見せると、「何とも思ってよー」と裕美がうんざりそうにツッコミを入れてきたが、すぐにあっけらかんと笑ったので、私もついつい釣られて笑ってしまった。


と、ついつい先程までどんな空気感で話していたのか自分で忘れかけていたその時、裕美が笑みを抑えつつも、しかし若干は保ったまま口を開いた。

「…はぁ…ふふ、しっかしアンタは本当に…”誠実”だよねぇ」

「…え?」

と、これまた今までの話の流れからは想像出来ない言葉が飛んで来たので思わず聞き返してしまったのだが、そんな私の反応が愉快でたまらないと言いたげな裕美は続けて言った。

「うん。まぁ…ふふ、アンタ自身がそう言ったんだし、そのまま乗っかって言わせて貰えば、嘘ついてたって告白したアンタに言うのは変かもしれないけれど…ふふ、こんな程度の事は、大体知らんぷりしちゃうもんだけれどねぇ…」

「う、うん…?」

『こんな程度』という言い回しに引っ掛からなかった訳ではなかったが、それ以上に今何を聞かされようとしているのか見極めようと忙しくて、それどころでは無かったのが実情だった。

そんな一人で頭の中をフル回転させている事など知る由もないであろう裕美は先を続ける。

「でもそっか…ふふ、それでようやく納得がいったわ。いやね、確かにアンタに言われる前から、何となくそんな気はしてたんだけどね?だって…ふふ、今アンタが言った通り、初めは絵里さんの友達っていうのを強調してたけど、でもそう言う割には、あの去年の秋の時点で、百合子さんとか、あと脚本家の…マサさんだっけ?その二人と楽屋で随分と打ち解けてる感じで話していたんだもん」


あー…前も劇の感想を紫たちに話していた時に言ってはいたけれど…ふふ、やっぱりあの時点でバレていたのねぇ


と、今の裕美の発言を聞いて、他の人がどう思うかは知らないが、こんな点に気付くなんてやはり裕美は人を見る目が鋭いと、この件に関して言えば前回に続いて二度目の感想を覚えたのと同時に、改めて自分が普段から抱いている裕美の人物評が正しいのだと意を強くするのだった。


「だからまぁ…」

とそんな能天気な感想を覚えている私を他所に、裕美は話を続けた。

「…ふふ、改めてそう言われれば、確かに嘘を吐かれていたのは間違い無いんだけれど、でも今さっきも言った通りさ?まぁ何となくそんな感じだろうし、それに…ふふ、アンタのおじさんが深く関わってそうな、そのお店の事と関連してそうだっていうのも、これは今日初めて知れたしね?…うん、だから尚更ね、アンタが自分のおじさん関連で色々と長い事悩んでいるのを、知ってる…っていうとオーバーというか、それは言い過ぎだけど…うん、何となくアンタにとっては重要な問題だって事くらいは、話を聞いた限りではそれなりに分かっている…うん、つもりだしね?だから…アンタが私に嘘というか隠したかったって気持ちは、それなりに分かっているから…さ?」

「裕美…」

まさしく私が思っている事を、辿々しくながらもここまで喝破されてしまうと、もうこれ以上何も言う事が無いと、ただ名前を呟く事しか出来なかったのだが、そんな私の反応から、自分の説があながち間違っていないと確信したらしい裕美は、笑みを強めつつ続けて言った。

「んー…だから、さ?さっきも言ったけれど…ふふ、アンタに謝られちゃったけれどもさぁ…別にそこまででは無いと言うか…あ、いや、別に謝ってもらった事に対して何か言いたい訳でも無いんだけど、あ、いや、これだとまた誤解があるのかな?ん、んー…」

「…ふふ」

と、こんな風に一言一言慎重に言葉を選んでいる様だが、頭の中で考えずに思考がそのまま口から出てしまっているという様子を見て、思わずクスッと自然と笑みを零してしまった私は、「うん…わかったよ」とただ短く、しかし自分なりにそれなりに情感を込めて言った。

その言葉を受けた裕美は、今度は途端に黙ってこちらをジッと眺めてきたのだが、私からも視線を外さずに見つめ返していたその時、裕美の方でも小さく笑みを溢すと、その延長線上にある様な笑みを見せつつ「そっか…」と呟いた。

「えぇ」とそれに対してまた私が呟き返すと、「んー…っん!」と突然ベンチに腰掛けたまま大きく両腕を天に向かって伸ばしたと思うと、ゆっくりと下ろして顔をまたこちらに向けたが、そこには普段通りの裕美調な明るい笑顔が広がっているのが見えた。

「じゃあこの話はもうお終い!」

と一方的に言い放たれてしまったので、すぐには反応を返せなかったのだが、「ふふ、そうね」と、今思い返すと私が返すべきセリフでも無いと思いつつも、当時はこの様に返した。

そんな返しに別に引っ掛からなかったらしい裕美は目をぎゅっと瞑る様な笑みをただ浮かべると、その後の私たちは、日の暮れた小さな公園内で、ただでさえ光度の弱めな照明の下、木々の枝葉に隠れてしまい益々薄暗さが際立つ中でも、それまでとは関係のない雑談を暫くの間、このまま別れるのをお互いに惜しむかの様に雑談を交わしながら過ごすのだった。

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