第5話 変化 師匠編 上

「んー…んっと!良い天気だなぁ」

と、朋子が両腕を青天井に向けて大きく伸ばしつつ言った。

「ふふ、そうね」と私が、そんな朋子の様子を微笑ましげに眺めつつ続くと、「ほんとほんと」と今度は裕美が明るい笑顔を浮かべつつまた続いた。


今日は少し時間が戻ってというのか、例の義一のテレビ番組を観るその前、宝箱に行った次の日である第三日曜日の午後一時に、こうして地元駅前にあるショッピングモールの、今回は外に設置されている、自由に使える様に解放された幾つかあるテーブルと椅子が繋がっている様なところで、皆で座っている。下は芝生だ。

細かい話だが、私は午前中はいつも通りに師匠からの課題曲を練習してから、お母さんは浅草橋にある実家の呉服店でお手伝いに行ってるというので、自分で昼食を料理し食べてから出てきた次第だ。

元々この日には、特にこれといった用事がお互いにあった訳ではなく、ただ会おうと裕美と朋子と約束をしていつつも、六月中というこの時期なのもあってハッキリとは事前に予定は組めなかったのだが、せっかく天気が良いならと、以前にも紹介したモール内の喫茶店でテイクアウトして、各々が飲み物を持って外に出てきたのだった。

…あ、あと実は私たち三人以外にもう一人…ふふ、いや、もう二人いた。


「確かに、やっと良い天気になってくれて助かったぜ」

とヒロが、ストローを咥えつつ口を開いた。

「一昨日まで雨が降ってたじゃんか?でも昨日は晴れてくれたお陰でよ、昨日はまだ乾いてなくてロクに練習が出来なかったけど、今日は練習出来たからな」

「そうだねぇ」

と、すかさず裕美が合いの手を入れるのを見て、咄嗟に私はクスッと一人で笑みを零すのだった。

んー…そう、実はヒロのことも、裕美は自分では中々誘えないというので、”仕方なく”私が誘っておいていた。

因みにというか、ヒロ自身が今言ったように、午前中は中学の方の野球部で練習があったらしく、家に一旦帰って、体洗うなり何なりして着替えてから来た…と、私からしたら聞いてもないのに教えてくれた。

本当は午後も練習したかったらしいが、『その時間帯はサッカー部がグランドを使うから出ていかなくちゃいけねぇんだよ』という愚痴も付け加えてだ。

と、この男の事はどうでも良いとして、ついでに触れれば、裕美は裕美で今日の予定というのは、ヒロと似た様なものだったらしい。要は大会に向けてのクラブでの練習だ。

と、もう一人というのは…


「ホント、グラウンド乾いて良かったよねぇー」

と、藤花ほどではないにしても、見るからに…ではなく”聞くからに”あざとい…というのは、裕美や朋子の表現だが、高めの猫撫で声と言って良い様な声音がヒロに続いた。

声の主は…まぁ、何だかんだこの場では久しぶりに紹介するかもだが…そう、ヒロの所属する野球部でマネージャーを務めている千華だった。

まぁこれも何度か軽く触れてきた様に、一々話に取り上げないだけで、何度もヒロを介してという限定付きだが、顔を合わせてお喋りしたりしていた。これは朋子のパターンと同じだ。

私以外は、裕美や朋子も同じ様に可愛い服装をしていたが、相変わらずその中でも、千華が一番”カワイイ”服装を身に付けていた。飲み物までそうだ。

「泥だらけになっちゃうもーん」

と、これまた一般女子からはあざすぎて引かれる様な反応を千華は…ふふ、裕美と朋子がチラッと視線を交わして苦笑を漏らすのが見えたからその感想は正しいのだろうが、私としては、そのリアクションが千華に自然と合ってる様に思えたので、これといった反応はせずに会話を見守っていた。

「でもお前も意外だよなぁ?」

とヒロは唐突な話のきっかけを作ると、時折薄目を千華に流しつつ、主に視線は私と裕美に向けたまま口元は緩めっぱなしで言った。

「こいつはこんなチャランポランなキャラなんだが、こう見えても意外や意外に、部活の時なんかは真面目に後片付けとか仕事をしっかりするんだぜ?…こう見えても」

「へぇー」

と私と朋子が素直に感心した風な声を漏らす中、千華は両側の頰をプクッと膨らませていた。

「『こう見えても』は余計だよー。それも二度も繰り返して」

「あははは。大事な事だから二回繰り返さなくちゃな?」

と、そんな千華のリアクションに対して、ヒロは人懐っこい子供らしい笑顔を浮かべるので、私たちは引っ張られるように笑顔を浮かべ合った。

途中から千華も、頬を膨らませていたのを引っ込めるのと同時に、笑いに加わるのだった。


「そういや琴音たちの学校って、こないだ修学旅行だったけどさ」

「えぇ」「うん」

と、これまた急な話題転換だなと思いつつも、それについて思わず微笑を浮かべながら裕美と二人して相槌を打つと、ヒロは続ける。

「梅雨前で良かったな。外出歩いたりすんのに、雨の中とかうんざりじゃんか」

「そうだねぇ」

と朋子が素早く反応をする中、ヒロは徐にスマホを手に持つと、ゆらゆらと意味深な笑みを浮かべつつ揺らし始めた。

そのスマホにはストラップが”二つ”ついており、一つは野球ボール、もう一つはグラブを象ったモノだった。


…ふふ、この時点で何となくでも分かるだろうが、これは私たち二人からの修学旅行土産だった。

広島を本拠地としている野球チームのものだ。実際に、ヒロのスマホについているストラップのボール表面には、その野球チームのロゴが入っていた。

別行動であったのにも関わらず、同じ考えだったらしい裕美とお土産物屋で一緒になり、そのままアレコレ言いながらストラップを選んだのだった。

細かい話だが、裕美がボールで私がグラブの方だ。ヒロが特定の野球チームファンでないのが幸いし、修学旅行から戻って数日後に会った時に二人同時に手渡すと、実際にヒロは喜んでくれて、早速私たちの見てる前で付けてくれたのだった。

因みに朋子、それに千華もその場にいて、二人にはお菓子をお土産に渡したのだが、結局は皆で一緒にそのお土産を食べつつその日は過ごした。


そのまま会話は、私と裕美の学園話に移って行った。

「あ、そっか、お前らの学校って中学生なのに卒論なんかあるんだっけな。それを聞くと、やっぱお前らの学校は何だかんだ進学校なんだなぁ」

とヒロが悪戯っぽく笑いながらも、シミジミと変に大袈裟に言うのを聞いて

「そうそう、何だかんだね」

と私も合わせてニヤケつつ合いの手を入れると、

「何だかんだじゃないってばぁ」と裕美一人が苦笑交じりに否定していた。

そんな裕美だけを除いた私たちは、一旦区切りとばかりに顔を見合わせて仄かに笑い合った。


そう、以前に軽く触れた通り、私と裕美の通う学園は幼稚園と小学生の部があるとか、そんな細かい話は今おいとくとして、一般に言われるところの中高一貫校なのだが、高校受験が無い代わりに、卒業論文と題された課題というものが出されていた。

まぁ代わりと言っても、出来が不出来だからといって高校にエスカレーター式に上がれない訳では無いのだけれど。

…っと、それはともかく、今まで話には触れてこなかったが、準備期間としては今年に入ってから、つまりまだ中学二年時から着々と準備は進められていた。もちろん本格的に取り組み始めるのは三年生からなのだが、何を題材に進めるのかは、二年生の三学期に決めなくてはいけなかったのだ。

なので、当然現時点では既に私含む全三年生の生徒たちの卒論テーマは決まっており、担当先生なんかもついて、それぞれのペースでバラツキはありつつも卒論を仕上げる作業を進めていた。

因みに、この卒論のテーマにはこれといった制限はなく、当事者の私たちが言うのは変なのだが、それなりに大人顔負けの題材が多い様に、少なくとも私の周辺で聞いた限りでは、そんな印象を覚えた。

ついでにこの場を借りて、私たちのグループ内に限って簡単にテーマに触れてみようか…と思いはしたが、ふふ、大体予想はつくことだろう。

一番わかりやすいところで、例えば藤花は『西洋の音楽史と、明治時代の日本にそれらが及ぼした影響』だし、律はスポーツ工学について…って、急に大雑把な紹介になってしまったが、こればかりはあまりにも門外漢すぎてこんな紹介になってしまうのを許して欲しい。まぁこんな紹介の仕方をしても、律なら起こらないはずだ…ふふ、多分。

…と、これだけ聞くと、じゃあ裕美も律と同じ様なテーマじゃないのかと思われた方もいるかも知れない。私自身そう思っていた。

のだが、実際には違っていて、しかも裕美が選んだ題材を聞いた瞬間、驚きと共に妙に嬉しく思った私がいた。

というのも、裕美が選んだ題材というのが、これまた大雑把だが『演劇について』だったからだ。もう少し具体的に言うと、その時代時代の演劇が如何にその時代を反映しているのかというものだった。

これは今までにも折りにつけて話してきたので、今更感も甚だしいだろうが、一応敢えて話すと、やはり去年の観劇以来、裕美の中の演劇熱というのが冷めるどころか、ジワジワとはいえ徐々に熱を帯びてきているのが、側から見てても分かるくらいであったので、それだからこそ、数多くある、しかも自分は水泳の都大会優勝経験もあるくらいの実力を持つ”運動馬鹿”だというのに選んだというのが、私がふと嬉しく…って、今思えば私は一体”誰目線なんだ”と思わないでも無いけれど、それでも事実としてそう感じたのだった。

これは私だけではなく他の皆も、それぞれがそれぞれなりに驚いた様子だったが、しかし普段の雑談の中でも、もちろん稀ではあったが、何かの拍子に自分たちをそっちのけに私と裕美がそんな話をしだすのを見てきてはいたので、すぐに納得してくれていた感じだった。

ついでと言っては何だが、せっかくなのでこのまま他の皆についても触れると、麻里はある意味分かり易いが『メディア論』、紫も同じく想像した通りに政治、特に官僚機構についてのものだった。

これを初めて聞いたのは今年の春休みの段階で、麻里と知り合う前にして、例の紫からの”告白”を聞く前というのもあり、『自分の親の仕事を卒論テーマに選ぶだなんて』と勿論冗談交じりに紫を他の皆が茶化す中、私と律は二人してただ微笑んで眺めていた。

さて…ふふ、何だかオチとして私が最後となってしまったが、我ことながら…テーマを決めるのが、私たちの中だけではなく、同学年の中でもかなり最後の方になってしまった事を告白しなくてはならない。

というのも、これを自分で言うのは恥だというのを承知の上で敢えて言わせていただくが、他の同年代の子達と違って、あまりにも色んな事に興味がある故に、その中から一つだけ選ぶというのが、とても骨の折れる作業だったのだ。私と同じ様に、テーマを決めたのが遅い生徒もいたのだが、彼らは大概が、そもそも自分が興味ある物事が何なのか分からない故に、何とか絞り出さなくてはいけないという点で、私とは違っていた。

『お前は別に音楽とかで良いだろう』と思われた方もおられるかも知れないが、これが持ったが病というか、それではあまりにも”ありきたり”、もっと言えば『あいつならどうせ音楽かピアノについてだろ?コンクールも活躍したし』と周囲に思われるのが嫌だったせいで、敢えてそれだけは初めの段階で除外していた。

がしかし、確かに一等一番地である音楽関連を除くと、繰り返し言う事になるせいで余計に恥ずかしいのだが、他の件については、所謂、世間一般で言うところの文系理系というジャンル問わず、それぞれ同程度に満遍なく、どこかの理性の怪物君のお陰もあり興味があるせいで、それ故に一つに絞るのが難航してしまった。

だが、それでも現時点では当然テーマは決まっており、それについての論文執筆も進んでいるのだが、結局迷いあぐね苦心した末絞りだしたテーマは…『明治以来続く、理系と文系という無意味な分け方と、それが社会に及ぼしてきた悪影響。こんな”悪習”をいつまで続けるのか?』というのに決まった。

…ふふ、そう、先ほども話したが、自分を悩ました事をむしろ逆手にとって、それ自体を卒論にしてみようと思い至ったのだ。

自分で言うのも何だが、これを思いついた瞬間、我ながらいいアイディアが浮かんだと喜んだ。今述べた様な理由もあり、それ以外にも様々な理由があるのだが、他の学校でもそうだろうが学園の高校の部では、三年に上がると大学受験に備えて、理系文系とクラスが分けられており、それに対するアンチテーゼにもなる…というのにも気付いて、それがネタとしても面白いと思ったのも大きい。

私が選んだテーマを聞いた裕美たちも、それにすぐに気付いて、私が普段から理系文系と言わずに『理数系、人文系』と言い直して言っているのを知っていた分、驚かれこそしなかったが、代わりに『琴音らしい』とそれぞれから呆れ笑いを頂いた。私はそれを称賛として受け取り、お礼の言葉で返したのは言うまでもない。

これに関連して続けて述べれば、やはりこのテーマにたどり着いたのも、ある種偶然ではなく必然と言えなくも無い。

というのも、もう大分昔…って、そりゃ小学生の頃まで遡ることになるのだが、覚えておられるだろうか、まだ義一と再会して間もない頃に、宝箱で義一から、何で古典を沢山読んだ方が良いのかを教えてもらった中で、今に限った事ではないが、それでも年を経るごとに益々教育制度の質が落ちていっているという話を聞いたのを。

明治に入り、西洋列強が植民地を次から次へと増やしていたあの時代に、明日は我が身と危機感を覚えた当時の政府が、付け焼き刃とはいえ何とか西洋の自然科学から人文社会科学から何からを、必死に取り入れようと躍起になっていた時、少しでも効率的に短期間で身につけさせようと、苦肉の策として”理系に特化した人間”と、”文系に特化した人間”を生み出した訳なのは、これまでの話を聞かれてきた、もしくは私なんかが話す前から当たり前の事としてご存知だった方もおられる事だと思う。だがまぁ、これは時間の制約があった当時だったからこそ、方法こそ間違っていたのだが仕方がなかったという意見、当時の人間は当時の人間なりに必死にやってきた、その事についての情状酌量の余地はありという意見があるのは知ってるし、それは私も受け入れないわけでは無いのだが、それをここまで成熟…というか、ずばり言えば『ありとあらゆる出てくる統計の、単純な分かり易い数値を見るだけでも”転落没落亡国先進国”である我が日本において、まだ明治に始まったこの欠陥だらけの教育体制、教育制度を続けているというのは、一体何なんだ…?』という感想は、あの小学生の頃の一度だけではなく、それ以降も何かにつけて義一と会話し、暫くしてからは加えて神谷さん率いるオーソドックスの面々と話したり書いた本を読んだりしていくうちに、それこそ先ほどの裕美ではないが、日に日にこの想いを強めていく一方だったので、最後に繰り返すが、私がこのテーマに辿り着くのも必然だったと言えるだろう。

…と、少しばかり卒論として、何を書こうとしているのか触れてしまったが、これについては一旦置いといて、ここでまた”因みに”な話に触れたいと思う。

先ほどもチラッと触れた様に、普通のというか、大学の卒論と同じ様に私たちにも書く上で担当の先生がつく事となっていた。

卒論のテーマを出すのがさっきも言った通り二年生の三学期が終わるまでなのだが、そのテーマを見た学園の先生たちが選んで担当になる仕組みとなっていた。その結果は三年生になって初めて知らされるのだが、私の担当となったのは、私としては意外だったのだがクラス担任の安野先生この人だった。

意外と思ったのは、自分でも言った通り、ある種学園も含む今の教育についてのアンチテーゼとしてテーマを出した面もあり、題名からしてそれは丸わかりだろうと思われたのに、それを学年主任も勤める安野先生が引き受けたからだった。

それからというものの、何かにつけて卒論の進捗具合などを含めて、報告なりアドバイスを貰いに先生の元を尋ねていたのだが、何故自分のテーマを見て担当となろうと思ったのか聞けずに現在まで来ていた。

アドバイスを貰いにとは言ったが、これは先生の言葉をそのまま借りれば『普通だったらアレコレと添削したり、生徒は生徒側で何を書けば良いのか、その書き方自体が分からないことが多いから聞いてきたりするものだけれど、望月さんは既に論文の書き方が分かっているし、何を書きたいのかも読んでいて伝わってくるから、細かいところを訂正する以外は何も言うことが無くて、少し寂しいのと同時に楽で良いわ』と、これまた自分で出しときながら照れてしまうが、まぁこんな風に声をかけてくれたりしていた。

…ふふ、これもまぁ小学生時代から、小難しい本を貸し続けてくれていた理性の怪物くんに感謝すべきことだろう。

話を軽く戻すと、それでもいつかは、何で私の担当を選んだのか、それについて質問してみようと思う今日この頃だった。



「まったく…ふふ、そういえば卒論かぁ…練習が忙しくて中々時間が無いなぁ」

とボヤく裕美に、私たちで労いの言葉をかけたりしていた。

その言葉に対して、裕美は如何にもお疲れな顔を作ってリアクションをとっていたが、それとは別に、やはりというか相変わらず時折腰に手を当てて、伸びをする一連の行動が常習化していたのを付け加えさせて頂こう。



「いやー、しっかし」

と、私たち学園話にもひと段落がついた頃、ヒロはおもむろにスマホを取り出すと、液晶を眺めつつ口を開いた。

「翔悟の野郎、一体いつまでグダグダしてるんだろうな」

…ふふ、そう、今たまたまというか、ヒロしては珍しく良いタイミングで話を出してくれたので、せっかくだし、もしかしたら大した事ではないにせよ、それなりに気になっておられる方もいるかも知れないので、軽くだけ触れておこうと思う。

それは二つ…いや、実質一つなのだが、要は、何故私たち女子ばかりのところに、男であるヒロが一人何食わぬ顔でしれっといるのかという疑問だ。

…ふふ、流石にヒロ相手とはいえ言い方がキツかったかも知れないが、それと同時に、何でこんな雑談を一々取り上げたのかという点も含まれる。

これらをまとめて答えると、簡単に言えば、実はヒロと同じ野球部にして、副部長のヒロとコンビを組んでいる部長兼キャプテンの翔悟が、何やら午前までの練習後に顧問の先生、つまりは監督…ふふ、そう、私の叔父さんである聡だが、打ち合わせがあるとかで、ヒロや千華を含む他の部員を除いて居残りをさせられてるらしい。

これは集合する前にヒロから連絡を貰っていたので、今こうして翔悟に待たされているとしても、疑問は当然持たないし、もっと言えば、梅雨にしては珍しく晴れた青天井の下で皆でおしゃべりしているこの状態が、とても居心地が良く、不満なども持つはずもなかった。


「まぁ翔悟はねぇ…」

と、ヒロがボヤいたその直後、普段の”キャピキャピ”…って、これは死語なのだろうが、こうとしか言いようが無いキャラの千華だというのに、これも素なのだろう、思いっきりうんざりげな表情を浮かべて、やれやれと溜息交じりに続けた。

「昔からそうなんだよ…よくみんなを待たせてたの」

「ふふ、そうなんだ」

と、私の相槌をきっかけに、またもや皆して、それぞれが千華に続けとばかりに、各人各様の苦笑を浮かべるのだった。

ついでだから触れると、現時点で既に軽くではあったが、何度か千華と翔悟の馴れ初め…って、これは違うか、まぁ腐れ縁の話を聞かされていたので、大まかなところは知っていた。

もちろん…ふふ、それを今と似たような場で率先して話してくれたのは翔悟で、その翔悟の言葉の一つ一つに水を差していったのが千華だったのは、言うまでも無いだろう。

それを簡潔にまとめると、大方ヒロと裕美の関係性に似ていた。二人は私たちとは違う小学校に通っていた訳だったが、小学校三年に上がった時に同じクラスになり、それからは卒業まで同じで、卒業後に通う事になった中学も同じ、そしてクラスも同じという、まぁ確かに腐れ縁としか言いようが無いのも分かるところだった。

…ふふ、今形容として使った”腐れ縁”という言葉だけを見れば、そこだけは私とヒロに近いと言えなくも無いかも知れない。

「まぁ…ふふ、そんな文句を言わなくても良いじゃない?ね、ヒロ?」

と、千華に返した直後、私は今度はニヤケ顔をヒロに向けた。

「は?何がだよ」

とヒロが返してきたので、「だって…」とますますニヤケ度合いを強めた私は、正面に座る朋子、斜め向かいに座る千華、視線の途中に入ってきたヒロを飛び越えて、私の隣に座る裕美と、一人一人に視線を飛ばしつつ言った。

「ふふ、あなたみたいな男が一人で、これかけの可愛いどころを侍らせられるんだから」

「…は?」

と、まさにこれぞキョトン顔って表情を見せるヒロだったが、それと同時に隣の裕美がニヤニヤしながら合いの手を入れてきた。

「あはは、琴音…それってなんか絵里さんっぽいー」

「絵里さん?…あ、あー琴音ちゃん達の文化祭の時の」

「あー」

と、私と裕美の文化祭に来てくれた朋子と千華が確認し合っている中、ようやくキョトン顔に変化を見せたヒロが、先ほどの私の様に、一同に視線を配ってから呆れ笑いを浮かべつつ返した。

「ったく…自分で言うか普通?」

「自分?…って、ふふ」

と、そう返された私は、敢えて無邪気そうな笑顔を浮かべた。

「もちろんそれは…ふふ、私を除いてよ」

「私を除いてって、アンタねぇ…」

と、すぐさまヒロが軽口を返してくるものとばかりに思い、実際にヒロが呆れ笑いを強めて口を開きかけていたのだが、その時、ヒロの顔を裕美が自分の顔で遮ってきた。

顔には企み顔が浮かんでいる。

「アンタ、私たちの前だから良いけれど、他の人には嫌味に聞こえるからやめときなさいよ」

「あはは、そうだよ琴音ちゃん」

と朋子が裕美に乗っかり、その後は二人してニヤニヤと笑い合っていた。

そんな二人を苦笑いで眺めていた私はふと、一人退屈そうなヒロを尻目に、何気なくその向かいにも視線を流すと、やはりというか、千華は千華で、ヒロとはまた違った意味合いのありそうな、そんなつまらなそうな愛想笑いが浮かんでいた。

ここで細かい話をする様だが、もう数え切れない程に会っていたお陰もあってか、千華にちょっとしたクセがあるのを発見していた。

というのは、千華は普段から…ふふ、翔悟が関係してこない話題以外という註釈はつくのだが、基本的に笑顔を絶やさない、いかにも男受けしそうなタイプなのだが、本人にとってツマラナイ状態が続いていくと、徐々に目元が細くなっていって、最終的には、ピクピクと、よく観察しないと気づけないレベルではあるのだが、目蓋が痙攣するクセがあった。

…で、何で今この話を取り上げたかというと、千華が実際にその様な反応を示しているのに気づいたからだ。

と、別にそれに気づいたからって、何か言いたいわけじゃない。ただの思いつきで触れただけなので、相変わらず身勝手で申し訳ないが、話に戻すとしよう。


…いや、千華のクセの話が出たので、折角だし、ここ最近というか、見た目に限ってではあるが、千華に微妙な変化が現れ始めていたので、それに触れてみようと思う。

以前にも話した通り、千華は今時の派手目な女子学生って感じで、制服も自分なりにアレンジする様な、そんな女子だったのだが、格好こそ変わらなくても、それでも微妙に変化していた。

というのも、千華はいわゆる”羊ヘアー”をしつつも、野球部のマネージャーらしく…って、これは偏見だろうが、私と同じ黒髪だったが、髪の色はそのままに、今に限らずここ最近は特に髪を弄らずに、素直にストンと下ろしていた。

それだけではなく、どうやら伸ばしているらしく、前髪も私と同じ様に作っていた。おそらくこのまま伸ばし続ければ、全く同じとは言わないまでも、それでも私と似通った髪型になるのだろう。

メイクもティーン紙で特集されてる様な…って、当然私は読まないから、これは勿論裕美の言葉なのだが、そんなガーリーなケバケバしいのから、ナチュラルメイクになっていた。


「あ、そういえばさ…」

と、相変わらず裕美と朋子が、私という”共通の敵”を肴にまだ盛り上がっていたのだが、ヒロと千華の愛想笑いも見飽きてきた私が、話題を変えるために口を開いた。

「千華ちゃんって、なんか最近メイク変わったよね?あと髪型も」

と私が何気ない風に声をかけると、「へ?」と、千華は何故か若干動揺を示してきた。

と同時に「あ…」と、ボソッと短い声が裕美から聞こえてきたので、なんだか引っかかった私は、その反応の訳を訊こうと思いこそすれ、結局は流して、それよりもポケーっとしている千華の様子をマジマジと眺めていると、「あはは、確かにねぇ」と、朋子が「あなたはそのメイクの方が良いよ」とニヤケ顔で突っ込んで、その場は無事通過となった。


ここで突然だが、何となく察しておられる方もいるだろう。そう、ご覧の通り、朋子と千華は二人でよく連むことが多くなっていた。

…ふふ、本当は仲良しだと表現したいのだが、一度そう朋子一人に言った時に「そんな恥ずいこと言わないで」と照れ笑いしつつ返されてしまったので、敢えてここでは言わないでおく。

まぁ朋子の言葉をそのまま借りれば、そうは言っても中学二年に入るまでは、それ程ではなかったらしいが、例の私と藤花が後夜祭に出た文化祭に来たのをきっかけに、それ以来狙った訳でも無いのに良く一緒に行動する事が多くなったとの事だ。

確かに、私が聞いたのは今年、中学三年生になった直後くらいだったのだが、ふとクリスマス会の時を思い出し、二人の息がよく合ってるなと感想を覚えた事を思い出していた。


私の発言をきっかけに、今度は朋子がニヤニヤしながら千華をからかっていたのだが、この時ふと真隣を見ると、穏やかな表情ではあったが、静かに黙々とストローで飲み物を吸う裕美の姿が印象的だった。


さて、そんなこんなで少し静かだった千華を中心に話が盛り上がっていたのだが、不意にここで雑談特有というか、これまた急な話題転換が起きた。

まぁルックスについての話題が出たからなのだろうが、裕美と朋子の口から義一の話題が出たのだ。

勿論…でも無いか、ふふ、まぁ具体的に言えば、例の義一が表紙となった某有名なビジネス雑誌についてだ。

これは以前に触れたのか記憶に無いが、構わずに話すと、私は誰から…あ、そうそう、武史からニヤケつつ聞かされたのを引き合いに出すと、例のビジネス誌が、義一が表紙になったその号に限って、異様な売れ行きを見せたというので、社会現象とまでは…ふふ、言わないまでも、その界隈では話題になっているとの事だった。

まぁ端的に言って、その売れた要因というのは、義一のルックスその一点だったと武史は話してくれた。

まぁ…ふふ、これは私自身、誤解を恐れずに言わせて貰えれば身に覚えのあることだが、私同様かそれ以上に、恐らくというか間違いなく武史から知らされているであろう義一も、そんな話を聞いた瞬間に、ここ数年でも一、二位を争うほどの苦笑いを浮かべたであろう事は想像に難くなかった。

それを想像するたびに、私は私で意地悪にも自分を棚に上げて、ついついほくそ笑んでしまうのだった。


「義一…さん?」

と、裕美と朋子を中心に盛り上がる中で、笑みは浮かべつつも、長年の付き合いである私だからこそ気付けたのだろうが、その理由までは分からなかったが、何処かつまらなさげな空気を周囲に醸し出しているヒロは置いとくとして、千華は千華で何の話か分からないのを隠そうともせずに、ただボソッと名前を呟いた。

そう、千華とも両手では数え切れない程に、勿論その場には朋子とヒロがいて、たまに翔悟もいたりという条件の下ではあったが、それでも、それだけ会っていたというのに、今日のこの日まで義一の話を彼女の前でしていなかった…のに、この時点で気付いた。

と同時に、ここでまた不思議な点があるのに気づかれた方もおられる事だろうと思う。というのも、それなら何故朋子は然も知ってる風に、裕美とワイワイ盛り上がっているのかという点だ。

まぁ隠すこともないのでサラッと話せば、見ての通りというかお聞きの通り、朋子も義一の存在について知っていた。キッカケとしてはそう、出演した例の全国ネットの討論番組に義一が出演した事だった。

その週に裕美と私と朋子含む小学校時代の友人たちで会った時に、何をきっかけか忘れたが、ふとその話になったのだ。

ここで慌てて付け加えなくてはいけないのだが、別に何も裕美が急に、その時点まで義一の事を知らなかった朋子含む他の子達に、ベラベラと口軽く話してしまった訳ではない。

んー…ふふ、まぁ正直記憶が定かではないのだが、恐らく私がポロッと何かの拍子に口をうっかり滑らせてしまったのが原因であるのだけは、間違いなさそうだった。

何故断言出来るのかというと、その日の晩か何処かで、裕美から心配するメッセージを貰ったからだった。

うん…ふふ、こうして思い返せば思い返すほど、普段はあれだけ自分なりにしっかり者を気取っている生意気な女だというのに、どっかの怪物くんに似てるのか、肝腎要のところで徹底出来ないのが玉に瑕と、自分で自分の浅はかさに呆れ笑いを浮かべずにはおれない。

と、それはともかく、とは言っても、裕美だけではなく朋子や他の子達にも、その場で他言無用の約束を、本当に自分本位で恥ずかしい事この上無いのだが、何故他人に話してはいけないのか、その理由を話もせずに、そんな身勝手なお願いをしたのにも関わらず、今現時点まで見るに、ありがたい事に朋子たちは約束を守ってくれてる様だ。

本当に…うん、これはもう何度も、初期の段階、つまり小学生の頃からという意味だが、私という人間は周囲の人間の”善意”に救われていると、他にも例を挙げればキリが無いが、特に義一関連を思うに、そういった感想を覚えずにはいられないのだった。


というわけで、裕美、朋子、そしてヒロの三人がこちらに視線を一斉に飛ばしてきたので、私は以前にも自分で話した通り、すっかり緊張の糸というのか、開き直りに近い心持ちでいたせいか、別に千華に知られても構わないという意思表示のために、コクっとただ一度頷いた。

それを見て確認した朋子が、率先して口火を切った。

「義一さんっていうのは、琴音ちゃんの叔父さんでね…」

と、朋子は自分のスマホで画像をネットで検索してる中、ジュースを啜りながら相変わらず何処か退屈そうな表情を浮かべつつヒロが口を開いた。

「しっかし琴音、お前のおじさん、いつの間にこんなに有名人になってんだよ?」

「ふふ、有名人かどうかは知らないけれど」

と私は、何故義一の話題が出てからというものの、そんな素っ気ない態度を取るのか、ヒロに理由を聞くのが何だかシャクに思い、それには軽くスルーを決め込む事にして、ただ淡々と返す中、

「…っと、ほら千華、この人が琴音ちゃんの叔父さんだよ」

と、検索が終わったらしい朋子が千華に自分のスマホごと手渡した。

「どれどれ…」

と千華は、パッと見では興味あるのか無いのか分かり辛い風な口調で声を漏らしつつ覗き込んでいたのだが、暫くすると、「あー…」と顔を上げると、斜め向かいの私に顔を向けつつ口を開いた。

「この人なんだ。なんか電車の広告とかなんかで見た事ある気がするー。イケメンだよねぇ…はい」

と千華は言い終えると、スマホを朋子に返した。

「本当にイケメンだよねー」

と同意する朋子。

「…ふふ、琴音ちゃんの両親もそうだけど、本当琴音ちゃん含めて全員が美形だよねぇ」

「あのねぇ…」

と、私は何か返そうと思ったが、結局ふさわしい反論が思い付かず、ただやれやれと苦笑する他に無いのだった。

学園組である紫たちの様に裏があるのが丸わかりなら、幾らでも返しようがあるのだが、朋子は昔から変わらず私に対して悪気なくこんな言葉をかけてくるから、言い方悪いが…ふふ、タチが悪い。


とそれはともかく、そんな朋子の言葉にやはりというか、”学園組”である裕美が悪意まみれで乗っかってきかけたその時、「でもよぉ…」と、ここまで野生児の割には大人しかったヒロが口を挟んできた。顔にはガキ大将なニヤケ顔が浮かんでいる。

「こいつのおじさんに、俺は何度か会った事あったけどさぁ…確かに、話す内容とか俺みたいなのに対する態度とか、全然周りにいないタイプの大人だってんで面白い人ではあるんだけどよぉ…ふふ、こんなイケメンだっていうのに、中身がなんか”へんちくりん”なんだよ…どっかの誰かみたいな」

と言い終えた瞬間、憎たらしい程に目をぎゅっと瞑って見せて笑ったヒロに対して、「へぇー、そうなんだぁー」と、さっきの朋子の話を聞いてた時とはまるで違う、心底興味津々な様子を見せる千華が相槌を打ち、それと同時に裕美と朋子が明るく笑う中、「ちょっとー、誰のことを言ってるのよー?」と私はすぐに一発でも叩いてやろうと思ったのだが、さっき言った様に、私の座る位置からヒロまでは、間に裕美が座っていたりと、一々立ち上がらないと叩けない位置関係だったので、咄嗟に飲み物を買った時についてきたストローの、包装紙の残骸を見つけると、瞬時にそれを丸めて、出来た紙の礫をヒロに投げつけた。

その紙屑は見事にヒロの胸あたりにぶつかり、当たった瞬間に下に落ちたというのに、

「何だよー、ゴミを投げつけてくるなよー?」

と不満げな口調で声を漏らしつつ、慌てて払うような動作をするのを見て、

「それだけで許してあげるんだから、むしろ感謝しなさいよ?」

と私が澄まし顔で淡々と返した次の瞬間、

「あはは、ひどい言い方ー」

「あはは、相変わらず琴音ちゃんは森田に対して塩対応なんだからなぁ」

と、裕美と朋子がほぼ同時に呆れた口調で言いつつも、顔つきは明るい笑顔だった。

千華も、これといって発言はしていなかったが、それなりに笑顔だったと思う。

「あーあ、ったく…っと」

と、私たちがそんな風に和気藹々としている中、ヒロは下に落ちた紙屑を拾うと、それを自分の飲み物の脇に置いた。

その様子を、何となく眺めていた私だったのだが、ふとここで視線が合うと、「しっかしお前、毎回思うがコントロール良いよなぁ?お前ひょっとして…野球できんじゃね?」

と、小さい頃から進歩しない、全く変わらない人懐っこい笑顔でヒロが言うので、悔しいながらも自然とニヤケてしまいながらも「何を意味不明なこと言ってるのよ?」と”塩対応”で返したつもりだったが、そんな対応にも慣れっこなヒロが豪快に笑うと、それに釣られるように…って、その前から笑ってはいたのだが、テンションも引っ張られる様に、裕美と朋子も明るくアレコレとヒロの戯言に沿ってこちらに言葉をかけてきた。

我ながら嫌な慣れだが軽くいなしている間、ふと何となくまた視線だけ斜めに向けて見ると、一応愛想笑いなのか浮かべつつも、いつの間に手に持っていたのか、これでもかとばかりに”デコった”スマホで何かを熱心に操作している千華の姿があった。

普段から、私たちが盛り上がっている中でも良くこうしてスマホを弄ったりしていたので、初めの頃は、これまでヒロや裕美、少なくとも朋子は間違いなく、そして学園の皆などが、こうした場で不意にそんな態度を取っているのを見たことがなかった私は、率直に言ってあまり良い気はしなかったのだが、それと同時に何故そんな態度を取るのか、その珍しさのあまりに関心が増したのも事実だった。

…って、それはともかく、なので別にこの時点では慣れていたので、それほど目を奪われる事は”それだけなら”無かっただろう。

だが、この時の千華は普段とは微妙に違っていた。というのも、主に顔は手元に落としながらも、時折何やらチラチラと私とヒロの顔を見比べていたからだった。

だが、当時はそこまで気にならなかった私は、一瞬だか湧いた疑問をそのまま頭の隅に追いやり、これまたいつの間に手にしていたのか、スマホを覗き込みながら、翔悟がもうすぐで着くというヒロの報告を耳に入れつつ、ただただ和やかな場の空気を楽しむのだった。


「さてと、じゃあ戴きまーす」

と向かいに座る師匠が、体の前で手を合わせて表情も柔らかく言ったので、

「ふふ、私も戴きます」

とポーズもそっくりそのまま同じに真似つつ続いた。

今日は六月の第三土曜日。外も暗くなった夕方の6時半といったところだ。午前中まで学園で過ごした私は、以前から予定だった師匠の家でのレッスンのために訪れていた。

ふふ、なんか今月の宝箱に行った時と似た様な事を言ってる様だが、事実なのだから仕方ない。

これも前と同じ様に、直でクラブに行くという裕美と地元の駅前で別れた私は、早足で自宅に帰り、自室に既に準備していた私服一式に着替えて、サッとすぐに毎度のレッスン道具の入ったトートバッグを肩に家を出て、一通り指導を受けての今だ。

ご覧の通りというか、私と師匠は二人揃って夕食を一緒にしている。


別に今日の様な土曜日という日の夕食に限った事ではなく、日曜日などの休日にて午前中からのレッスン日などでは昼食を二人で摂っていた。ふふ、そんなのは以前から知ってるとすぐに突っ込まれそうだが、内容が違う。

というのも、以前までは確かに昼食代わりに師匠に教えて貰いながらお菓子を作って食べていたのだったが、恐らくお母さんがチクったのだろう、いつからだったか…これも今年に入ってからだと記憶しているが、師匠にキチンとしたというと色んな語弊がありそうだが、何か作ってとリクエストされる様になっていたのだ。

初めて言われたときは驚いてしまったが、ピアノはいうまでもなく、お菓子作りを教えてくれた事にも感謝していた私としては、その師匠にそう頼まれれば、嫌どころか料理を振る舞えると緊張しつつも嬉しく思い、それでも表面上は謙虚な態度を取りつつも、台所を借りて作り出したのが始まりだった。

作るたびに、「美味しい」と私が言う資格も無いが単純なながらも感想を師匠がくれるので、そんな言葉に一々喜んでしまった私は、今ではレッスン日の前に事前に師匠に食材などを用意してくれる様に頼むほどになっていた。

という訳で、最近では私が主菜を作り、その脇で師匠は師匠でデザート代わりに菓子を作ってくれるのが定番となっていた。


今日はレッスンが6時に終わったので、片付けを終えると、早速二人してエプロンを身に付けて食事を各々が作り、そして食卓についた次第だ。

ついでだから私の作った献立に触れると、今日は旬であるアジを調理した、アジのたたき ゴマだれ仕立てだった。

まな板の上に新聞紙を敷いてアジを置き、鱗をこそげ取り、尾の方から包丁の先を入れて、アジの側面とでも言うのか、そこにある堅いぜいごを両側共に取り、頭を切り落とし、腹に包丁を入れて腹ワタを出し、一旦水洗いして水気を拭き取り、後は二枚おろし、三枚おろしと作業を進めていった。

その後は、最後の仕上げと包丁で腹骨を取り、小骨を器具で抜いて、最後に皮をきれいに剥ぎ取る…という作業をしている間ずっと、お菓子の下拵えをしていた師匠が興味津々に手元を見つめて来ながら、一つ一つの作業工程ごとに、様々な質問と共に称賛の言葉をくれていた。

因みに師匠の方は、定番中の定番であるチョコチップクッキーだった。

…ふふ、この私の作業工程、本当は別に刺身用に捌かれたアジを利用すれば簡単にすっ飛ばせるのだが、これが我ながら子供っぽいというのか成熟してないというか、自分の尊敬する師匠に対して、少しでも良いところを見せたいという欲望が出てきてしまい、一々師匠にアジ丸々を用意してもらった。

だがまぁ…ふふ、あくまで結果論なのは承知の上で言えば、こうして師匠も私が魚を捌けるのを喜んでくれてるのを見て、わざわざこうして良かったと思った。

後はもう簡単で、青じそ、ミョウガ、生姜を千切りに、青ネギは小口切りにして、先ほどのアジを細切りにしたのを其れ等と混ぜてお皿に盛り付けて、ごまだれをかけて完成となった。

…ふふ、しつこい様だが、このごまだれも私が自宅で予め作ったものだと付け加えさせて頂こう。

作業工程としては約二十五分といった辺りで、お喋りしながら夕食を摂っている今の時間は6時半といったところだった。


食事を済ませて、そのまますぐには師匠宅を後にはせず、淹れてもらった紅茶を飲みながらクッキーを摘むという、食後のティータイムを過ごしていた。これもここ最近の毎度の流れだ。

大体の会話の内容としては、相変わらず師匠が音楽関連だけではなく、古今東西問わない様々な芸能の本を貸してくれていたので、それ関連についてや、学園生活の中身というごく普通の雑談など、多岐に渡っていた。

因みに今日はというと、特にこれといったきっかけは無いのだが、私の修学旅行話が主な話題だった。

と、今日までの間で機会が無かったために触れられなかったが、勿論というか師弟関係の間柄としても当然ながら、きちんと師匠にもお土産は買っており、帰ってきてすぐに手渡していた。

内容は、例によって…っていうと、ご当地の人に対して少し失礼に当たるかも知れないが、広島名物のもみじ饅頭と、後は…百合子と少し被っているのだが、師匠にも宮島の張り子をお土産に買っていた。ここで少しと言ったのは、百合子には白を基調とした、所々模様の縁を朱色で描かれたフクロウだったのに対して、色合いこそ同じ日本的な色使いだったのだが、師匠には招き猫の張り子を選んだからだ。

んー…ふふ、まぁ師匠は猫が好きなので選んだのだが、それでも招き猫というのは何か違うだろうと、今の私の話を聞いて腑に落ちなかった人もおられた事だろう。それは正直自分で買っといて何だが、私自身で思わないでも無かったが、それでも言い訳チックに言わせて貰えれば、招き猫ではあっても、恐らく皆さんの想像ほどには招き猫ではなく、ただただ可愛い猫の置物って趣だったのでセーフだろう…っと、実物を見せないのを良い事に、勝手な事を言ってみる。

まぁ…ふふ、師匠にも招き猫だというのを白状しつつ渡したのだが、そんな私の妙ちくりんなセンスを含めて喜んでくれて、今ではその招き猫の張り子は、レッスン用のアップライトピアノの屋根に鎮座し、私たち二人を静かな目つきで見守り続けてくれている。


と、その招き猫の話も触れつつも、話の盛り上がりが程々の高さなまま続いていたその時、不意に玄関のチャイムが鳴らされたので、次の瞬間ピタッと会話が止まった。

「あれ?」と私は少し間を置いてから声を漏らしつつ、何となく玄関の方角に視線を流した。

「こんな時間に…誰ですかね?」と、ちょうどその視界の中に掛け時計も入っていたので、今現在の時刻が分かった。もう少しで七時半になろうという時間だった。

普段から、師匠の厚意でこんな遅めな時間まで長居する事が良くあった。

「えぇ…誰だろう?」

と、師匠も一度上体を捻って、私と同じ様に玄関の方を見たが、しかしすぐに元の体勢に戻ると、何も無かったかの様に紅茶を啜り始めた。


ふふ、覚えておいでの方もいるかも知れないが、一応触れると、少なくとも私の前では毎回ではないとは言え、それでもそれなりの確率で、師匠はインターホンを鳴らされても出ない事があった。予め予定されていない様な予期せぬ客はお断りな考えだったらしい。しかしこれも気分で場合によって違っており、長年観察してきた私としても、法則のようなものはまだ見つけられていない。

…とまぁ、ふふ、弟子である私がこう評するのは不敬かも知れないが、少なくとも小学二年生に入ったばかりからの付き合いである私見を述べさせてもらえれば、長きに渡って芸の世界のど真ん中に生きていた割には、師匠はいわゆる常識式的な面が目立つ方だと思うのだが、しかしこんなひょんなところで、一般的に見ても少し微妙にズレたというか、そんな面も持っている師匠に対して、私は何だか誇らしい気持ちに近い感想を持つのだった。


とまぁそんな訳なので、慣れっこだった私は、何故すぐに出ないのか理由を聞かずに、取り敢えず倣って自分も味わう様に紅茶を啜ったのだが、カップが口から離れたその時、また再度インターホンが鳴らされた。

「誰か来客の用事とかあったんですか?」

「いや…さっきも思い出そうとしてみたのだけれど、特に思い出せなかったのよねぇ。…瑠美さんって、今日ここに来るような事言ってた?」

と師匠が聞いてきたので、一応念のためと取り敢えず今日を浚ってみたが、やはり思い至らなかった私は「いえ特には」と返した。

そう、当然というか、私よりも時間的な意味合いでは一歩か二歩ほど師匠とは長い付き合いをしているお母さんだったので、勿論師匠の”奇癖”を知っていた。

と同時に、お母さんはそれをまた面白がっていたので、娘の私からしても、ああいった風に捉え所の無い人だが、突然急に押し掛ける様なことはした事が、少なくとも私の前ではなく、はっきりとは聞いた事がなかったが、しかし発言から汲み取るに、実際にも一度も無かった様だった。


何だろうと、私と師匠はほんの数瞬ばかり見つめあったが、この間はチャイムが鳴らされず静かなものだった。

だが、それも束の間、ふと玄関の方でガチャっと音がしたかと思うと、次の瞬間、よく通る、いかにも快活そうな声が、私たち二人がいる居間にまで聞こえてきた。

「沙恵ー?いるんでしょー?」

と第一声が聞こえた途端に、思わず私と師匠とで顔を見合わせてしまった。自分で見れないので断言は出来ないが、恐らくというか間違いなく、目の前の師匠と同じ様に目を真ん丸に見開いていた事だろう。

というのも、まだ姿を見ていないにも関わらず、その声には聞き覚えが”ありすぎていた”からだった。

少しの間、玄関あたりで何やら会話してるのか、その様な音が漏れ聞こえてきていたが、その音に加えて今度はスタスタと足音が大きくなってきたかと思うと、躊躇いもなく立ち止まらないままに主が居間に入ってきた。

その姿を見て、恐らく…というか間違い無いだろう、『やっぱりか』と二人揃って同時に苦笑いを浮かべてしまった。

居間のドア付近に立っていたのは…ふふ、案の定というか、やはり京子だったからだ。

上は白無地の、凹凸が大きめなワッフルTシャツで袖を軽く捲っており、下は黒のワイドパンツとシンプルな装いだったが、京子自身のキャラクターなり、師匠よりもほんの少し低く、私よりも気持ち高めの身長と、癖っ毛のロングヘアーを色っぽく流している…などなどから醸し出される雰囲気のせいかよく似合っていた。

そんな京子だったが、仁王立ちになって一瞬満面の笑みを浮かべたかと思うと、すぐに目元を細めると口を尖らせた。

「もーう、やっぱいたわ…。灯りが漏れているのが外から見えたから、いるとは思っていたけれど…いるなら出なさいよー」

と声を掛けられた師匠は、それに対して苦笑を続けるのに終始していたが、そんな師匠から何気なく視線を外すと、ここで不意にこちらの存在に気付いたらしい京子は、先ほどまでのジト目とは打って変わって、一瞬だが、垂れ目の師匠とは違い吊り目気味のその目を大きく見開いた。

その百面相ぶりにこちらとしても理由が分からないだけに軽く驚いていたのだが、しかしまぁ、これも神出鬼没…って、ふふ、自分で言ってるので私も言いやすいが、そんな性格の京子だというのを思い出した私は、特にそれについて触れるのは置いておく事にして、「今晩は」と自然な笑顔と共に挨拶をかけた。

その私の言葉が作用してくれたのか、受けた瞬間、京子は普段通りの表情に戻すと、今度は明るい笑顔を浮かべた。

「あー、今日は琴音ちゃんがいたのかー。ふふ、今晩は。久しぶりだねぇー」

と手を振りつつ声をかけてくれたが、それに振り返す様な習性は無かった私は、それでも何もしないのも陰険だと思い、座ったまま軽く会釈をしてから「ふふ、久しぶりです」と返した。

実際京子と会うのは久しぶりだった。最後にあったのは、以前に話した通り、去年の年末から今年の年始にかけて、お父さんが参加しない点では通例から外れていたが、冬の欧州旅行に行った時に、京子の厚意でフランスのプロヴァンという都市にある自宅に何泊か泊まらせて貰い、新年を迎えたのだった。それ以来の再会だ。


と、久しぶりの再会を喜び合っていた私たちだったが、ふとここで、ずっと苦笑いしっぱなしだった師匠が京子に声を掛けかけた次の瞬間、ヌッと京子の後ろに人影が見えたかと思うと、別の聞き慣れない声が聞こえてきた。

「ふぅ…って、ふふ、矢野くん、お喋りを邪魔して悪いけど、そろそろ私を通してくれないかな?」

「え?」

と、途端に私は声を漏らしてしまった。何故なら、急に別の人影が見えただけでも驚きだったというのに、それに加えて、その声というのが老人男性特有の声色だったからだ。

しかし…ふふ、今さっき聞き慣れないと言ったばかりだが、何故かどこか懐かしい気がしないでもなかったせいで、短い間だったが軽く頭が混乱していた。

と、当然そんな私の内情などは誰も知る由はなく、声をかけられた京子は振り返ると、「あ、すみませーん」と戯けた間延び気味に答えて、サッと横に一人分ズレた。

それによって、漸く全身が見えたのだが、「ありがとう」と笑顔で言いつつ居間に入ってくるその男性の顔を見て、ここでやっとその男性が誰で、何故に懐かしい感想を持ったのか分かった。

というのも、そこに現れた男性というのが、去年、コンクール決勝の表彰式で、審査委員長として賞を贈呈する役割を演じていた御仁その人だったからだ。

んー…ふふ、まるで姿を見た瞬間に思い出した風に聞こえるだろうが、まぁ実際にそうで、何せ表彰式の事は当時にも話した通り頭が真っ白になっていたのもあり良く覚えていないのだが、それでもその後での後夜祭にて、男性が指揮を振るう、フルではないにしてもオーケストラと共演したのは、小さい頃からの夢だったのもあって、その時のことは事細やかに覚えていたのだ。


「あ…」

と私は京子に対してとは別の意味合いで、声をまた漏らしてしまったが、今回は私だけではなく、師匠まで同じ様に声を漏らした。

なので、それに気付いた私がスッと視線を男性からズラしたその時、「あら斎藤先生まで…」と口にしながら徐に立ち上がるので、何となく訳も分からずではあったが、私も動きを合わせた。

「わざわざ来られたんですね?…ふふ、京子に連れられて」

と、私の立ち位置は師匠の斜め後ろだったので詳しくは分からないが、顔の向きは男性に向けたまま、視線はどうやら脇の京子に向けている様だ。それを証拠に、自分の名前が出た瞬間に、京子は悪戯がバレた子供の様な笑みを浮かべていた。

「ふふ、まぁねぇ…って、おや?」

と、男性は師匠の体を避ける様に軽く体を横に傾けて、こちらを見てきた。と同時に、ニコッと人懐っこい笑顔を浮かべると口を開いた。

「おやおや、どこのお嬢さんかと思ったら…ふふ、望月さんじゃないかね。君塚くん唯一の弟子の」

「え、あ、その…」

と、まだ少し戸惑いが消えてなかった私が、すぐには返せない中、チラッとこちらを見て、クスッと小さく微笑んだ師匠が「そうで…」と口を開きかけたその時、

「そうですよ」

と快活に答える京子の声に遮られてしまった。

「…あ、ごめーん」

と、ジト目を向けられてるのに気付いた京子が、言葉とは裏腹にニヤニヤしつつ謝っているのを見て、それによってようやく緊張が解れたらしい私は、ニコッと笑顔を作りつつやっと応えた。

「ふふ、お久しぶりです」

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