朽ち果つ廃墟の片隅で 四巻
遮那
第1話 ケリドウェンの燈油
前回までの夢の続きから
「まぁ、偉そうに知ったかぶって色々と話しちゃったけど…」
と前回言い終えてから少しばかり間を置くと、男は不意に照れ笑いを浮かべたかと思うと、頭をポリポリと掻くという、これまた義一さんと同じ癖を見せながら口にした。
「『以前は…』って見てきた様に言ったけど、僕自身も耳学問というか、他の人が言ってた事を同じ様に話しただけなんだけど…ね?」
と最後に悪戯っぽく笑うと、男は前触れもなく百八十度くるっと回ると、そのまま先ほどまで立っていた定位置にまで戻って行った。
見慣れた男の笑みを見て、自然と頬を緩めていた私も、その後を何も言わずに付いて行った。
到着してからは、何も言わずとも、隣からナニカからのニヤついてるであろう視線を横にヒシヒシと感じていたのだが、私が戻ったのを確認すると、男は両腰に手を当てて、気持ち胸を張って見せつつ口を開いた。
「…さて、一つの質問には答えた訳だけど…ふふ、まだ他にもある様だから、遠慮なく言ってみてよ?」
「え?…ふふ、そうねぇ…」
と、妙に誇らしげというのか、その堂々とした様子と言い方にまた笑みを零しつつ、勧められるままに、また私は一度室内を見渡した。
と、その様にまた一つ一つを眺めていったのだが、それより何よりも先に、”当然として”目の前についてまず真っ先に興味がいった私は、それをそのまま聞いてみる事にした。
「まぁ…色々あるんだけれど…まずさ?」
と私はここで一旦区切ると、狙ったわけでもないのだが、自然と悪戯含みの笑みを浮かべつつ続けて聞いた。
「…ふふ、まず貴方が何者なのか、それから教えて貰っても…良い?」
「…え?僕?」
と男は想定外だったのか、意外とでも言いたげなキョトン顔を晒して、自分自身の顔に向けて指を指して見せたが、私がそれに対しコクっと笑顔で頷くと、「…あ、そっか」とここにきて漸く気付いたらしく、またもや照れ笑いを浮かべながら答えた。
「あはは、そっかそっか。まだそういえば、自己紹介すらまだしていなかったね?…コホン」
と男は、途中まで自分自身にウケてたのか笑みを絶やさずに話していたのだが、区切りを付ける意味でか一旦咳払いを入れると、今度は柔和な微笑を浮かべつつ続けて言った。
「自己紹介…って言っても、実は中々難しいんだけれど…うん、まぁ先代から受け継がれてきた、僕の一代前の人から貰い受けた名前で言えば…僕の名前は『ケリドウェン 』。覚えづらい名前だろうけれど、名を名乗れと言われたら、僕にはこれしか言いようがないから、まぁ…ふふ、よろしくね?」
と、少し自嘲気味に笑いながら自己紹介を終えたのを聞いて、私はふと、その名前に覚えがあるのに気づいた。
…って、自分の夢なのだから、覚えがあるのは当たり前なのだが、夢の中での私は純粋にそう思い至ったので、そのままに我知らずと口に出した。
「ケリドウェン…って、あのケルト神話に登場する魔女の名前じゃ…あぁー」
と私はそう言いながら、ふと男の背後にズラッと並ぶ大量の甕と、そして竈門の上に置かれた大釜に目がふと言った瞬間、納得の声を漏らした。
というのも、男が自分の名前だと言った『ケリドウェン』というのは、今さっきも私自身がポロッと漏らしたのだが、ケルト神話に出てくる有名な魔女の一人で、時には月の女神とも冥界の女神ともされているのだが、それと同時に、私の知るケリドウェンには、それとは別に大きな特色とでもいうのか、目立った特徴を持っていっており、それは男を含む目に入るもの全てに関連している事に気付いたからだった。
というのは、私の知るケリドウェンは、『魔力を有する、知識と霊感の大釜』を所持しており、その大釜で一年と一日材料を煮立てて調剤すると、世界最高の「智恵」「霊感」「学問」の三つを得ることが出来る3滴の魔法薬を作ることが出来る…という、設定と言ってはあまりにも味気が無いが、まぁそのような魔女だった。
…ふふ、今こうして軽くでも特徴を述べてみたのだが、これだけでも私が納得いった理由が分かるというものだろう。
んー…ふふ、これは別に補足するまでも無いとは思うが、『男なのに”魔女”の名前なのには疑問に思わなかったのか?』という疑問があるとして、現実世界の中世ヨーロッパを引き合いに出して返せば、詳しくは諸々の制約上において触れないが、当時は魔女裁判というものが盛んであったのは周知の事実として、その裁判にかけられていたのは、女性ばかりではなく、男性も多くかけられていた…という事だけ言い残しておけば十分だろうと判断し、話に戻ろうと思う。
…なので、自分をケリドウェンだと名乗った男に対して、すんなりと納得したのだが、リアクションとしては実際には中途半端に区切ったまま口を止めてしまった私に対して、これといった言葉をかける事もなく、男はただ微笑み交じりの視線をこちらに向けてきていた。
”慣れてる”と言いたげだ。
しばらくはそうして視線を交わし合っていたのだが、
「…ねぇー?」と、出し抜けに横からナニカに話しかけられたので、私は少し驚きつつ顔を向けた。
「な、何?」
と私が聞くと、ナニカは顔の暗闇部分に細長い三日月を浮かべながら続けて言った。
「何?じゃないよー。…ふふ、ほら、自己紹介をされたんだから、言い出しっぺのあなたも返さないとでしょー?」
「あ、あぁ…ふふ、それもそうね」
と、今更にして当たり前のことを指摘された私は、クスッと一度笑みを零すと、そのまま表情を保ちつつ、顔を男に向けると自己紹介をした。
「え、えぇっと…私は琴音…って言います。…ふふ、よろしくね」
名字を入れたフルネームで言うべきか、これも今更だが、いくら義一にそっくりとはいえ初対面の相手に、馴れ馴れしくタメ口で行くべきかどうか、それらなどをアレコレと考えあぐねた結果、こんな風なチグハグな紹介となってしまったが、それを聞いた男はというと、「うん、よろしくね」と訝る事もなく笑顔で答えてくれた。
「えぇ…あっ」
と、男との自己紹介が漸く済んだのも束の間、その直後に、先ほど出た話の内容が不意に頭に過ぎった私は、いくらでも質問しても良いと許可を貰っているというので、早速それを口にしてみる事にした。
「あ、あの…さ?さっきそのケリドウェン って名前を引き継いだって話してたけれど、それって…?」
…なのだが、それをどう言葉にして聞けば良いのかで変に考え迷ってしまい、こうして具体的には、またもや言葉の尻が切れた形となってしまった。
…だが、これが私自身の夢の中という都合の聞く世界…って、いや別に今までも、それほど思い通りになってるとも思えないのだが、まぁしかし、”男”…と、そうまだ呼ばせて頂くが、見た目だけではなく、こうした私の態度に対しての察しの良さまで義一に似ているらしく、男はすぐさまニコッと明るく笑みを浮かべると、
「ふふ、うん、えぇっとねぇ…」
と顎に手を当てつつ頭の中を整理しているのか、中空を眺めつつ考えていたが、考えがまだ纏まらないらしく、顔の表情は苦笑いだったが、しかしふと、先ほどの様に前触れなくツカツカと踵を返して歩き出した。
そんな男の様子を私はただ眺めていただけだったが、男はふと、入り口付近…階段を上がり切った所の所謂踊り場付近、つまりは甕の仕舞われている棚の一番端あたりで立ち止まると、こちらに振り返った。
「またで悪いけど、ちょっとこっちに来てもらえるかな?」
と、先ほどの窓辺りの時の様に、こちらへ手を振ってきたのを見た私は、「あ、うん…」と言われるままに、男が歩いた後をそのまま自分も進んで行った。
…あ、ここはさっき、ナニカが私を見下ろしてきた場所ね
と到着するなり、これといって重要ではない、そんな感想を覚えつつ、チラッとナニカの方を眺めながら感想を持った。
名前が出たので、ついでにと、ナニカがこの間どうしていたのかを話してみよう。
”珍しく”静かに私たち二人を静観してはいたのだが、実際に表情は伺えずとも、ニヤニヤしてるかはともかく、少なくとも好奇心に満ちた顔つきでいるのは”感じられた”。
「はい、ご苦労様」
と男がニコッと目を細めつつ言うので、
「あ、いや、別に…」
と、自分でも可愛くないと思う態度で返していたが、スッと視線だけ横に逸らして、その視界に入ってくる物をそのまま口に出した。
「これって…甕だよね?」
と、見たままの事実確認…とも言えないほどに幼稚な言葉を投げかけると、それでも男は少々愉快げな笑みにギアを変えつつ答えた。
「うん、その通り。で…ね?ちょっと見て欲しいんだけれど…」
と口にしながら、男が一つの甕に広げた手を触れてみせたので、言われた通りに、手の当たるその付近に目を凝らしてみた。
以前にも触れたように、それなりに篝火や竈門などの光源のお陰で真っ暗ではなかったのだが、それでもやはり薄暗さは否めない様な照度だった。
だが、これも不思議な事に、そんな中でも目を凝らしてみると、まるで光の満ちた屋外や明るい部屋にいるのと変わらないほどに、目の前の物が徐々に見える様になっていった。
と、同時に「…あ」と私は、その甕の側面を見て思わず声をあげてしまった。
というのも、初めてこの塔の中に来てから、それなりに自分で甕についても観察してきたと自負していたのだが、甕の一つ一つに木製の板で蓋がしてあるのにも初めて気付いたのと同時に、それよりも、焦げ茶色一色の無地だと思っていたのが、何やら言葉らしき物が側面に薄っすらと書かれていたのに気付いたからだった。
因みに、今見ている甕に限って言うと、『Σόλων』と書かれている。
んー…ふふ、いや、今の私なら、これが何の言語で何の意味なのかは説明出来るのだが、しかし当時の私は、自分の夢の内容であるにも関わらず、
…『Σόλων』?これって…文字だよね?なんて書いてあるんだろう…?どっかで見た事ある気もするんだけど…
と、大袈裟に言えば、穴が開くんじゃないかって程に、甕の側面を見つめて眺めていた。
と、そうしている時、クスッと小さな微笑みが聞こえたので、我に帰ってと言うのか、私はハッとしたのと同時に横に顔を向けた。
そこには、ますます微笑度合いを強める男の顔があった。
それから少しの間顔を見合わせていたのだが、男が中々口火を切ろうとしないので、仕方なく私から話しかける事にした。
「これって…何か書かれて…いるね?何か文字みたいだけれど…?」
と私が聞くと、「ふふ、そうだね」と男はすぐに間を空ける事なく微笑みつつ口にすると、文字の書かれた辺りを手のひらで何度か摩りつつ続けて言った。
「うん、ここに書かれているのは実は…名前なんだ。この甕の中身を作った、数え切れないほどに昔の、僕からしたら”偉人”である人達のね」
「へぇ…って、あ、じゃあ」
と私はある事に不意に思い至ったので、頭に浮かんだその考えをそのまま、また視線を甕に移して続けて聞いた。
「私には、ここに書かれている文字が読めないんだけれど、これってケリドウェンって書いてあるの?」
「え?」
と私の言葉を受けた瞬間、男はキョトン顔を浮かべていたのだが、それもほんの一瞬のことで、すぐに明るく笑ってから答えた。
「あー、あはは。まぁ僕の今の説明を聞いたらそう思うよね?…ふふ、僕の説明不足が悪かったけど、実はね、この”ケリドウェン”って名前を引き継ぐ前には、勿論というか元の名前があってね?その名前がここに書かれているんだよ…」
と男はそう言い終えると、甕から手を離し、そして徐にゆったりとした足取りで歩いて行ったので、私も後をついて行った。
「これも…これも…これも…ね」
と、一つ一つの甕の表面を労わる様に、愛おしげに手で軽く触れつつ撫でながら歩いて行くのを、着いて行きながら後ろから見ていた私も、それらに目を向けてみると、全ての甕の側面に文字が書かれていた。
初めのうちは、先ほど具体的に触れたのと同様に読めない字が続いていたのだが、しかし段々と進んでいくに従って、見慣れたアルファベットが出てきたり、これまた日本人の私には馴染み深い漢字で書かれていたりした。
男は、それからこれといって暫くは口を聞かなかったが、しかしそれでも私としては興味深げに、勿論歩きながらだったので精査は無理だったが、目につくものを片っ端から眺め回していたので、気まずさなどとは無縁だった。
…ふふ、そう眺めていく中で、本当は、甕については後で別口に訊こうと思っていたのだったが、まぁ結果オーライという事で、そのまま流れに任せる事にした。
と、そんな風に、実際には数分間くらいのものだろうが、上から見ると円形の壁伝いを、曲線に沿って歩いていたのだが、ふと棚の端に辿り着いたのか、男が漸く足を止めたので、目測で約五歩ほど後ろで私も止まった。
棚の端のすぐ脇には竈門があり、下の穴からは炎の光が漏れ出ており、その上には例のファンタジーな大釜が乗っかっているのが見えた。
「…で、”完成品”としては、これが今のところ一番最後の物だね」
と、男はまたしても甕の表面を何度か撫でて見せていたのだが、ふとこの時、私の思い違いかも知れないが、何だかその様子が他の甕に対する時よりも、何と言えば良いのだろうか…うん、若干その手付きから思い入れの強さが分かる様だった。
甕を見下ろす男の顔を私は横から見ていたのだが、その目元がやんわりと細くなっていたせいもあるのだろう。
「完成…品…?」
と私はそんな感想を覚えつつも、実際の行動としてはそう口にしつつ、三歩ほど男に近寄り同じ様に甕を見下ろしたのだが、ふとその時、他の甕とは違う点があるのに気付いた。
というのも、先程もチラッと触れたが、これらの甕の上部には木製と思われる板を蓋がわりに閉じられていたのだが、この甕だけは蓋が外されており、中身がしっかり見えていたのだ。
それから私は、男が何も言わないことを良いことに、また一、二歩ほど前に踏み出すと、真上から目を落として見た。
中には、薄暗さのせいもあるのだろうが、真っ黒に見える液体が、ざっと見た感じでは甕の九割に近いほどに入っているのが確認出来た。
…のだが、もっとその見た目について観察しようとしたその時、ふとまた違う強烈な感覚に思考を阻害されてしまった。
何故なら、覗き込んだ瞬間、恐らくこの液体が発する匂いだろう、それが鼻に一気に飛び込んできたのだが、それと同時に、どこか懐かしさにも似た感情に胸を占められてしまったからだった。
簡単に言えば、既に触れた様に、今いるこの室内には油の匂いで立ち込めていたのだが、今ある目の前の液体は、それらとは微妙にだが違う匂いを発しており、その油の様な匂いがどこかで”嗅ぎ覚え”があるのに気付いたのだ。
「…あれ?」
と声を漏らしつつ顔を上げると、私はそのまま後ろに数歩離れて、甕の側面をこの時になって漸く見てみる事にした。
さっきは、蓋が外されているのに先に気付いたせいで失念してしまい、この様な順となってしまった。
そんな事はともかく、私は早速見てみたのだが、「…あ」とまたしても、思わずそう声を漏らしてしまった。
この甕にも他のと同じ様に名前が書かれていたのだが、そこに書かれていた字というのが、『神』だったからだった。
「神…あっ」
と私は、そうは言ってもすぐに思い至った訳ではなく、ただ直感的に何か奥深くに埋まっていた記憶に触れた感じがしたから声を漏らしたのだが、しかしそう自分で字を読み上げた瞬間に、この時に初めて、何故そういった反応を示してしまったのか、漸く合点がいった。
…ふふ、もう大分前なので覚えておられないかも知れないが、この『神』という字、それに加えて独特の油の匂いから連想したのは、そう…この夢を見始めた初期の頃にいた、例の独房の様な五畳ほどの小部屋の中に、今も腰に付けているカンテラと同時に突然現れた、『神』と表面に書かれていた金属製の油差しを思い出したからだった。
…あぁ、そっか…この匂いって、あの部屋で嗅いだものだったわ
と、確認する様に心の中で独り言ちた私は、ふとこの時になって初めて、ずっと一人で勝手にアレコレとしているのに気付き、若干気まずさを覚えつつ、そっと顔を横に流して見た。
するとそこには、恐らく私が見ていなかっただけで、今までずっとそうしていたのだろう、男は見守るかの様な慈愛に満ちた視線をこちらに飛ばしてきていた。
口元も薄っすらと緩んでいた。
その表情も何度か現実の世界で見た事があったのだが、しかしその現実の方でも、この類の表情にはまだ耐性が出来ていなかった私は、少しドギマギしつつも、これ以上の静寂にも耐えられないと、話しかけてみる事にした。
「これって…もしかして…?」
と、何とか動揺を誤魔化そうと自然に振る舞おうとしたのだが、結局は、先程来ずっと続けている、こういった中途半端なセリフに終わってしまった。
だが、それを含めてお見通しとでも言いたげな笑みを浮かべると、男はニコッと笑いながら口を開いた。
「ふふ…そうだよ。さっき君が話してくれたよね?…そのカンテラについて」
と私の腰元に指を差してきたので、釣られて視線を腰のカンテラに顔を向けると、
「んー…ふふ、後ででも良いかと思ってたから、さっきは敢えて話さなかったんだけれど…」
と男は悪戯っぽい笑顔を浮かべつつ、しかしどこか恥ずかしげに続けて言った。
「君から、突然目の前に現れたっていう、そのカンテラと油差しの話を聞いた途端に、実はすぐに気付いたんだけれどね…ふふ、そう、察している通りというか、君が見たっていう、この甕にある字そのものが書かれていたという油差しの中身は…うん、これだよ」
と男が今度は、名前の書いてある甕の部分を上から手で摩るので、それを眺めつつ「やっぱり、そうなんだ…」と呟く様に言ったのだが、今度は顔をまた男に戻すと、私は続けて話しかけた。
「…って事は、この中身って…油?」
と、何だか今更感満載のすっとぼけた問い掛けをしてしまったのだが、しかし男は、私のよく知る容姿も同じ人の様に一度明るい笑みを見せると、その笑顔を保ったまま口を開いた。
「ふふ、そう、その通り。まぁ…油は油なんだけれど、少し具体的に言えばね、中身は…”燈油”なんだよ。君のその腰にぶら下げている…カンテラ用のね」
「これね」
と私は一度視線を落としたが、すぐにまた顔を男に戻した。
「そうなんだよ。だからまぁ…さっき自己紹介する中で言いそびれてしまっていたけれど、僕はこのパルチザンで、そのカンテラ用の燈油を作り続けているんだ」
「へぇー」
と、内容としては勿論想定内だったのだが、そう声を漏らしつつ、顔を『神』と書かれた甕に向けた。
そんな私の横顔に、クスッと微笑みを漏らした男は、甕に半歩ほど近づくと、優しげな口調で続けて話した。
「ふふ、この甕は、さっきも言った通り、僕の一つ前の人が完成させた燈油なんだけどね?…ふふ」
と男は一人でクスッと思い出し笑いをしたかと思うと、また私の腰元に視線を落として言った。
「流石僕に色々と教えてくれた先任者だなぁ…ふふ、綺麗な色を発して燃えている」
「…?」
…また出たこの”先任者”…。そもそも現実で私自身そんな頻繁に使う単語じゃ無いのに、良く出るな
と特に相槌を打つ事もなくそう私は思考を巡らせていたのだが、そんな私を他所に、男はくるっと半回転したかと思うと、ちょうど背後にあった竈門に向かって歩いて行ったので、私もすかさず後をついて行った。
竈門もこの時になって初めてスグ側に近寄れたのだが、さっきまでも遠目からでも見えたはずなのに気付けなかった”とある文字”が、竈門の正面に立つ私の向かいの壁に書かれているのが見えた。
そこには、『燈油』とだけシンプルに書かれていた。
…そう、この時点でようやく、男が言うのが”灯油”と書く方ではなく、”燈油”の方だというのが分かった次第だ。
それに続いてというのか、とある事実に気付いた。それは、これだけ勢いよく炎が燃えているというのに、思ったほどの熱を感じないのだ。
と、同時に、またふと頭によぎった考えがあったので、顔は竈門に向けたまま、チラッと腰元に視線を落とした。
というのも、以前に少しだけ触れたと思うが、今はこうして腰にぶら下げていたカンテラ、これだって現実であれば、耐熱性とはいえすぐその向こうには燃えている炎がある訳で、熱くて仕方ないだろう…と、ふふ、もしかしたら折につけて疑問を持たれた方もおられるかも知れない。
だが、その当時にも話した通り、このカンテラに限って言えば、まるで羽毛布団を頭から被った時に顔に感じる、心地よい程々の温かみを覚えるくらいなのだった。
と、その感覚をずっと覚えたままこれまで過ごしてきたのだが、これもこの塔内に来たばかりの時に触れた感想通りに、パッと見た感じで得た感覚的なものでしか無いとは言え、カンテラの炎の色と、竈門から漏れて見える炎の色が全く同じに見えるのも相まって、竈門を見て温度も体感したのと同時に、こうしてカンテラを連想したのだった。
ついでに触れると、上に乗っかっている大釜の口からは、この位置に来てようやく薄っすらと湯気のような物が立ち上っているのが分かったのだが、やはりと言うか、これもパッと見た感じでは相当茹っていそうな様相を呈しているというのに、やはりそれほどの熱は感じず、ただここに来て、この室内に充満する油の匂いの元が、実はこの大釜の中身だというのを知れたのだった。
…っと、なんだかどうでも良い事で時間を割き過ぎたようだ。話を戻そう。
私がこんな考えを巡らせていると、男もここで一旦話を区切り、ふと私の背後にズラッと並ぶ甕達に視線を配りつつ話を続けた。
「まずね、僕ら油作りはまず先任から、中身空っぽの甕を貰ってね、それから今竈門の上に乗っかっている大釜の作り方から教わるんだ」
と男はまた竈門に体を正面に向けると、話を続ける。
「教わりながらもね、中々教えてくれる先任者の様には上手く作れないんだけれど、それでも歪ながらもこうして出来上がったらね、そこから漸く”燈油”作りを教わるんだよ」
「へぇー」
と私は感心した風な声を漏らしつつ、男の手作りだという大釜を繁々と眺めていた。
しかし見ても、本人が謙遜するほど、どこが歪なのか分からなかったが、それと同時に、
…ふふ、まだ私は油の作り方を聞いていないというのに、いつの間にかそんな話になってたのかしら…?
と思ったのと同時にクスッと一人小さく笑ってしまったのだが、しかしこの事についても後に質問しようと思っていた事では当然あったので、ツッコミを入れるような、このまま話を折るような真似をせずに、男の話すままに任せる事にした。
「燈油を作るにあたって、まずやる事はね?それは…ふふ、ここに何百と数え切れない程にある、先代達が残した油を精査する事から始めるんだ」
「…え?あの甕って、何百も数があるの?」
と、字面からは分かり辛いだろうが、それなりにギョッとした私は、素早い動きでくるっと回ると、甕の置かれた棚の全体像を眺めた。
へぇ…いや、確かに多いとは思うけれど、そんな何百ってほどには見えないわね。…って、あ、そっか、これは…ふふ、ご都合主義、何でもありな夢だったんだわ
と、疑問に思いつつも、今自分がいるのが夢だという、ある種何でもありな世界にいるのに今更のように再確認をしていると、男は私の言葉に明るく笑い声を上げてから答えた。
「あはは、そうだよ。でね、精査ってどんな事をするのかと言うと…ふふ、精査って言うと大袈裟かも知れないね。一つ一つの甕から油を汲み取って、それに火をつけてみたり、匂いを嗅いでみたり、グラスに入れて光に透かしてみたりとか、まぁ様々な方法自体はあるんだけれど、それによって何を調べたいのかと言うとね?それは…その時に調べた油と、それよりも以前に作られた油との違いがどこにあるのかって事なんだ」
「違い?」
「そう。って、違いって言うとまた語弊があるかな?何処がどう違うのか…?ってのを調べるのには違いないんだけれど、もっと厳密に言うとね、それは…今調べている油を作った人が、数多くいる先代からどんな影響を受けているのか、そしてそれをどう自分の糧にしたのかを知るためなんだ」
ふーん…先代…燈油…って、あっ!これって、もしかして…
と私は、ふと電撃でも食らったかのように”とある”考えが浮かんだのだったが、「へぇー」と実際は何の変化もなく面白みのない反応を示しつつ、確認するかのようにチラッと一旦後ろを振り返り見た。
そんな私のリアクションを他所に、男は話を続ける。
「そうして作業を進めていく訳だけど、そのやり方から分かるようにね、要は自分に大釜や油の作り方を教えてくれた人の作った油からの順、要は新しい物から古い物へと順々に調べていくんだ。でね、その先任者の作った油の中から良いと思った…ふふ、そう、思いっきり僕自身の主観の元になんだけど、これも代々受け継がれてきた方法らしいから、自分勝手なやつだと思わないでね?…ふふ、あ、でね、話を戻すと、良いと思った部分をその甕から掬い取ったら、その油を…あの自分で作った大釜の中に注ぎ入れるんだ」
と男は顔だけを、真横にある竈門の上に鎮座する大釜に向けたので、私も顔を向けた。
「あとはその順を繰り返していくだけ。まとめというか、繰り返し言えば、甕の中身を新しい方から順に調べていって、良いと思った物を掬い取ったら、大釜の中に入れる。初めは言うまでもなく中身は空だったんだけれど、徐々に付け足していった結果増えた油を、今みたいに常時煮立たせてね、そして…」
と男は徐に、甕の棚の側面に掛けていた、見た目的には杖にも見えなくも無い木製の棒を手に取った。
「これまた言い付け通りに自分で作った、この攪拌棒でね、後は混じり気の無いほどに辛抱強く、根気よく掻き回せ続ける。そして出来上がった物を…」
と男がここで不意に数歩後ろに下がると、今まで男の影になっていて見えていたかったが、竈門と壁の間に挟まれるように、一つの甕が置かれているのが見えた。
「で、出来た物を、先代から貰ったこの甕に後から後から注ぎ足していくんだ」
「ふーん」
と、私は特に足は踏み出さずに、今いる位置からでも見えたので、上体を少し屈めつつ遠目から眺めた。
そこまで話し終えた男は、また二、三歩こちらに戻ってくると話を続けた。
「…とまぁ、分かりにくい説明だったかも知れないけど、これが燈油の作り方にして、僕が生涯かけてする仕事って訳さ」
『生涯かけてする』…という単語耳にした途端に、ついつい気を取られてしまいながらも、本人はなんでも無い調子でサラッと言ったせいか、なんだかそれに深く踏み込む気力が起きなかった私は、
「んーん、教えてくれてありがとう」
と代わりに、質問に答えるだけでなく、自ら進んでそれ以外の内容についても説明してくれた事に対して感謝を述べた。
「いーえー」
と男は間延び気味に、しかし人懐っこい笑顔を浮かべつつ、手に取ったばかりの攪拌棒を元の位置に戻していた。
その間、ほんの少しばかりの間だが、手持ち無沙汰を覚えた私は、何気なくすぐ脇の『神』甕を眺めていたのだが、ふとこの時に、とある新たな疑問が湧いたのと同時に、今度は甕と竈門以外の室内の様子を眺め回した。
その途中で、いつの間にそこに座ったのか、大きな方の窓の縁に腰掛けている、退屈凌ぎにか、足をプラプラとさせているナニカの姿を確認したりしたのだが、しかしそれでも、いくら見回しても、お目当ての物を見つけられなかった。
「…ん?どうかした?」
と、まぁ当然だろう、男が不思議だと言いたげな声のトーンで話しかけてきた。
私が顔を向けると、しかしその男の顔には、怪訝な表情とは縁遠い、むしろ好奇心に満ち溢れた笑みを浮かべていた。
そんなまたもや慣れ親しんだ笑顔に向かって、私は早速新たに湧いた疑問をぶつけてみる事にした。
「そういえば、さっきから何度も出ているその先任の人って、それって要は…あなたに師匠に当たるって事?」
「え?…ん、んー…」
と男は、どっかの誰かさんみたいに頭を照れ臭そうに掻いて見せた。
「まぁ…ふふ、口幅ったいけれど、僕の師匠に…うん、なるんだろうね」
と辿々しく照れ笑い交じりに言う男を微笑ましげに眺めていた私だったが、「…って、あれ?」と、すぐに本当に聞きたかった事を思い出し、表情を戻して続けて聞いた。
「でもさ、あなたの先代であるケリドウェンの姿が…どこにも見えないけれど?」
そう、今いるこのパルティザンは二階建てらしく、どこを見ても上がってきた階段以外に見えなかったので、今いるこのフロアが最上階となるはずだが、しかし前に触れたように、この塔の中に足を踏み入れた時も、一階部分とでも言うのか、入った瞬間に上に上がる階段しか見えなかった点からも、ここ以外にこの塔内に別の部屋らしき物が無いように思えたからでの質問だった。
「…」
私がそう聞きつつ、最後の確認にと周囲を見渡していたのだが、「うん…」と声が漏れたのが聞こえたので振り返ると、そこには、満面の苦笑を浮かべる男の表情があった。
と、視線が合ってから少し間を置くと、男は少し言い難げに口を開いた。
「まぁそうだね…ふふ、今君は、僕の師匠に当たる先代のケリドウェンの姿が見えないって言ったけれど…それは半分正しくて、半分は厳密には正しく無いんだよ」
「…え?どういう事?」
と、しつこいようだが、こんな妙に意味ありげな意味深な言い回しをする点も、どっかの理性の怪物君らしいと思えたのだが、当然というか、まるで目の前に垂らされた、餌が付いていないという、罠だとバレバレなその特大の釣り針に自ら喜んで食らいつく事にした。
そう私が問い掛けると、男は今度はその苦笑の中に、一抹の寂しげな影を滲ませて答えた。
「うん…それを説明する前に…さっきの油作りの話に続きがあるから、君の質問にも深く関連してるし、そこから話しても…良いかな?」
「…え、えぇ…勿論」
と、男のそんな影含みの静かな物言いに押されるように私が返すと、「ふふ、ありがとう」と男は一度小さく笑い、そして少し表情が緩んだまま話し始めた。
「僕の一つ前の先任者…ふふ、君が言うところの師匠だね、うん、実際に目の前で自分の大釜を使って油の作り方を教えてくれたんだけれど…何かに気付かないかな?」
と男は途中から竈門の方に顔を向けつつ話していたので、その男からの問い掛けにもすぐに答えが思い至った。
「…あれ?そういえば、あなたの師匠の分の大釜も見当たらないわね」
と、一応思い違いの無いように、一度ぐるっと立ち位置はそのままに見渡して確認してから答えた。
そう、これだけ多くの甕がある空間とはいえ、もう何度目になるかって話だが、竈門の上に置かれた大釜の形状は、それらとは全く趣が違っていたので、仮に混ざっていても、あればすぐに気づきそうな物なのだった。
私の答えを聞いた男は、スッと仄かに笑みを一瞬強めたが、しかしすぐに元に戻して話を続けた。
「そう、今はもう…ふふ、言い慣れてないから恥ずかしいけれど、僕の師匠の使っていた大釜は…大釜って形では無くなっているんだ」
「え?それってどういう意味?」
と合いの手代わりの質問をまたぶつけると、男はゆっくりとした動作で右腕を上げて伸ばし、人差し指をある物に向けた。
私も同じように動作をゆっくりと顔を向けると、その先には男の師匠の甕が置かれていた。
と、私が見るまで待っていたのか、向いたのと同時に男は声のトーンはそのままに口を開いた。
「師匠の大釜はね…あの甕の中に溶けているんだ」
「…へ?溶けて…いる?」
と、私からすると意外な言葉が飛んできたので、今度は素早い動きで顔を向けたのだが、その先にあったのは、そんな私の様子を微笑ましげに眺める男の笑顔だった。
「そう、溶けているんだ。というのもね」
と男はその笑みを保ったまま話を続ける。
「これも油職人である僕たちケリドウェンの代々の仕来りらしいんだけど、自分に後続の者が現れて、その者に対して受け継がれてきた技術や、自分の培ってきた経験などを教え込み終えたらね、全てを後の者に任せて、今まで油作りに使ってきた大釜は、自らの手で細かく割っちゃうんだ。それで…最後の仕上げの”一つ”として、自分の名前の入った甕の中に入れるんだよ。…で、僕の師匠も例外なくそうしたって訳」
最後の仕上げの…”一つ”?
と、私はこの時、男の話す内容にまた引き込まれながらも、何故か自分でも不思議と、男の吐いたこの部分がヤケに引っ掛かった。
なので、それに関して早速質問でもしようかと思ったのだが、男の発する雰囲気から、まだ話に続きがあるのを察した私は、
「へぇ…その…大釜が溶けて、この中に入ってるのねぇ」と結局はそう相槌を入れつつ、何となしにまた甕に顔を向けたのだった。
「でも…」
と、先ほど湧いた疑問は後で聞こうと決心しつつも、それとは別に、細かい点でツッコミを入れたくなった私は、若干悪戯っぽく笑いつつ続けて言った。
「どんなに大釜を割って出来た破片を粉々にしたからって、この油の中に入れて溶ける物なの?」
と言い終えてから、なんとなく挑戦的な生意気な表情を向けたのだが、男はそれに対してただ微笑むのみだった。
そんな反応は少し想定していなかったので、私はすぐに生意気な表情を引っ込めたのだが、男は別に悪い気など微塵も起きてる様子もなく、柔らかな笑顔のまま口を開いた。
「まぁ…ふふ、君には何か疑問というか引っ掛かったらしいけれど、現実は事実として受け入れてね?実際そうなんだし、僕としても、今まで不思議に思ってこなかった分、個人的に思う仮説すら持っていないから、”テキトー”な返答をする訳にもいかないし、それに…」
…ふふ、こんな私に対して過剰なほどに真摯な所も、義一さんにそっくりね
と男の話…というのか、言い訳とでも…ふふ、いうのか、これを聞きつつこんな感想を持った次の瞬間、クスッと自然と笑みを溢してしまった私は、ここは敢えてした方が良いだろうと、まだ途中だというのに話に割り込んだ。
「…ふふ、もう分かったてば。さっきの話の続きを話して?」
と私が半分ニヤケつつ、そしてもう半分は微笑を湛えつつ言うと、「そ、そうかい?」と男は戸惑いげながらも、心なしかホッとしたような表情も見せるのだった。
それから二人して軽く笑い合ったのだが、ふとここで、男は笑みを止めた途端、突如として真顔に近いような…いや、実際は笑みは残っていたのだが、これまでの中で一番寂しげな表情を見せた。
その変貌ぶりに、私も自分で分かるほどに笑みが引っ込んでしまい、そのままじっと何も言わず次のアクションに注目していたのだが、男は一度小さく息を吐くと、その諦観にも見える笑みを保ったまま口を開いた。
「…でね、さっきの君の質問、僕の師匠が今どこにいるのかって事だけれど…ふふ、さっき僕はそれに対してこんな風に言ったよね?『僕の師匠が見えないというのは、それは半分正しくて、半分は厳密には正しく無いんだよ』と」
「え、えぇ…」
と私が思い返しつつ呟くように返すと、男は見るからに力なく微笑んでから続けて言った。
「うん…でまぁ、正直そんな変に勿体ぶって話すと誤解されそうだから、サッと結論だけ言うとね、僕の師匠は今…その中にいるよ」
と男がまた指を差した先を見て、私は思わずギョッとしてしまった。
何せその先にあったのは…
「その中って…この甕の…中?」
と、慎重に言葉を選ぼうとしたのだが、何しろ単純明快すぎて言葉を濁す部分が皆無だったのもあり、辿々しく言った割には、額面通りになってしまった。
「…あ、あぁ、だからさっき、半分正しくて半分は正しく無いみたいな事を言ったのね?確かに私は…さっきから何度か、この中の油を、そのー…見てるもの」
「ふふ…うん、そういう事だね」
と、私は話しながらまた一度、確認するように甕に視線を流していたのだが、その横顔に向かって男が声色も柔らかく返すのだった。
「…でも、…でも、それって…一体…」
と、視線を戻しつつ、当然の如く疑問がふつふつと湧いてきたのだったが、しかし、内容が内容だけに、軽はずみに口にするのが、流石の私でも躊躇われてしまった。
だが、そんな私の心境を瞬時に汲み取ったのか、男はニコッと目を細めながら微笑むと、表情も柔らかくゆっくりと口を開いた。
「うん…これでようやくというか、君の質問に答えられる…と同時に、さっきまでの話に付け加えるとね、さっき最後の仕上げの一つとして、割って砕いた大釜を本人が甕に入れて溶かす…って話をしたよね?」
「う、うん…」
とこの時点…って、もう大分前から粗方の予想はついていたのだが、それを念頭に入れつつ、そう短く合いの手を入れるのみで先を待った。
男は続ける。
「…でね、もう一つというのは…」
と、ついさっき自分で『サッと結論だけ言う』と言いつつも、やはりそうすんなりとはいかなかったらしく、一旦ここで口籠っていたが、しかしそれでもほんの数瞬だけで、また男はゆっくりと先を話した。
「自分が丹念に作り続けて足してきた油の入った甕にね、後任者、つまりこの場合は僕な訳だけれど、僕が先代のケリドウェンの亡骸を入れて、形が一切残らなくなるまで油に溶けていくのを見届ける…それでようやく燈油の完成となるんだ」
「…」
咄嗟には声が出なかった。予想通りの内容ではあったのだが、流石に直接言われてのインパクトは絶大だったからだ。
しかし何も返さない訳にもいかないと思い、
「ケリドウェンの…な、亡骸…」
と私が消え入りそうな声で繰り返すと、男も小さく口角の端を少しだけ上げつつ返した。
「うん…。でもまぁ、多分だけれど、君が思っているような亡骸では無いと思うよ?」
「…え?」
「えぇっと…何て言えば良いのかな?んー…っと」
と男は数歩ほど下がり竈門の正面に立つと、おもむろにしゃがみ込み、炎の見える口周辺に見えている灰をサッと手で掬うと、また立ち上がり、それを持ったまま戻ってきた。
「うん、まぁ…ふふ、師匠も事前にそう説明してくれたから、僕も倣って使えばね、実は僕らケリドウェンは死ぬとね、このようにサラサラな灰みたいになってしまうんだ」
「…」
と、男が両手でお椀を作った中に灰を持っていたので、私は何も言わないまま、ただ繁々とそれを眺めた。
「灰…」
と、それでも何も言わないでいるというのが、性格上違和感を覚える性質であった私は、取り敢えずまた見たままの言葉を漏らすと、顔を手から男の顔に移した。
視線が合うと、男はまた小さくニコッと笑うと、何も言わないまま、手に持った灰を元あった竈門の口付近に戻した。
それから戻って来た男に対して、私はまだ口が重く感じながらも、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「その…灰のようになった師匠を、その…あなたは、この甕の中に注ぎ入れたって…訳ね?」
「…」
と、男はすぐには答えなかったが、しかし沈黙の間も微笑が消える事はなかった。
が、それもほんの少しばかりの事で、男はシミジミといった風にコクっとゆったりとした動作で一度頷いた。
「うん、そうなんだ。僕らケリドウェンというのはね、精気とでも言うのかな、生命力と言ったほうが分かりやすいかもだけど、大釜を自らの手で割ったと同時に凄い勢いで抜けていって、見る見るうちに体が弱っていく…らしいんだ。…ふふ、僕はまだ体験してないから分からないけれど、前々から聞かされていた話や、実際にその目に遭っている師匠が教えてくれたし、その通りなんだろうとは思うんだけれどね?」
と、聞いてる相手に深刻さを植え付けないようにという配慮の為か、男は途端にオチャラケ風味を口調に織り交ぜた。
実際に聞き手である私には、そんな魂胆が見え見えだったので、そういう意味では功を奏してはいなかったのだが、その心遣いだけで嬉しかった私は、結果的に苦笑になってしまったが、それでも笑みを浮かべる事が出来たのだった。
「…とまぁ、話が色んな方向に脱線させたりしちゃったから、長くなったけれど、これまで話したのが大まかな、代々なされてきた僕らケリドウェンに課せられた掟…だし、宿命(さだめ)なんだ。…ふふ、これで良いかな?」
と、男はここまで先程来、努めてだろう明るい飄々とした調子で最後まで言い終えたのを聞いていた私は、繰り返しになるが、その様な心遣い自体がありがたく思っていたので、同じ類のは無理だったが、しかしそれでも、私は私で努めて笑顔を作るとお礼を返すのだった。
「いーえー」
と男は今までの笑顔をやんわりと緩めた微笑で応えてくれたのだが、その直後、急に照れ笑いを浮かべて、頭を掻きつつ言った。
「いやー、しっかし、なんでこんなに僕は饒舌に話してるのかな?こんな話、今まで誰にも話した事なかったのに」
「…っぷ、あはは!私も初めて聞いたわ、あなたのそんな話」
と、ここまで本人なりに空気を読んで自重してくれていたらしく、静観に徹していたナニカが、先ほどから同じく腰掛けている大きな窓の縁に腰かけたまま、明るく笑い飛ばしつつ言った。
「それに…ふふ、そんなに上機嫌に表情豊かに話す姿もね」
と、ナニカが上体だけ前に倒して、相変わらず目は見えなかったが、もし見えていれば上目遣いをして見せていたであろう体勢を取ると、ますます男が照れて見せるので、私は先程まで覚えていた軽い緊張も徐々に解れていき、仕舞いには二人と一緒になって笑い合うのだった。
と、そんな中、「なんで急にこんなことを誰かに話そうって気になったのかな…?」と男が一人で真顔に戻ったかと思うと、少し俯きつつボソッと呟いた。
それが聞こえた私が思わず顔を向けると、それと同時に男は、ハッとした表情を浮かべつつ顔を上げた。
「…あ、そっか…ふふ、そう…なんだなぁ」
と、私達をそっちのけで一人何かに納得しているのか、ボソボソ言うのを見ていたので、「ふふ、何?どうかしたの?」と私が声をかけると、男は急に声を掛けられたというので、一瞬驚いた顔を見せていたが、すぐに冷静を取り戻して答えた。
「んーん、なんでもないよ。…”今”はね」
「…え?”今”…は?」
と、その内容もそうだが、そう話した男が如何にも何か意味ありげだと言いたげな含み笑いを浮かべていたので、尚更私はその理由について早速質問を試みようとした…のだが、それは予期せぬ男の言葉によって遮られる事となった。
私が声を掛けようとした次の瞬間、男はまたもやハッとした顔つきになったかと思うと、顔を上げて天井のあちこちに目を配り始めた。
「な、何?」
と、急にそんな行動をとられたせいで、先ほどの質問よりも、まずコレについて聞かなくてはと、臨機応変…ってほどの事ではないが、同じように顔を上げたその時、男は顔をこちらに向けると、どこか悪戯小僧っぽい無邪気な笑顔を浮かべたかと思うと、口調もそのままに声をかけてきた。
「あ、そろそろ時間か…。ふふ、この続きは、また次に君がここに来た時にでも話そう。だからそろそろ起きなさい」
「…とね、そ…そ…お…なさい…琴音…ふふ、琴音ってば」
「…え?」
と、何だか身体を揺さぶられる感覚と同時に、初めの内はどこか遠くから声を掛けられてるのが、徐々にその声が近づいてくる、そんな感覚も同時に覚えていたのだが、最後の最後に自分の名前を呼ばれているのをはっきりと聞き取れた瞬間、目をガバッと開けたと同時に声を漏らした。
私は仰向けに横たわっているらしく、目の前には天井が見えていたのだが、それは物心がついた頃から馴染みの光景だった。
そう、言うまでもないが私の部屋の天井だった。
「ふふ、やっと起きたわね」
と右の方から声が聞こえたので見ると、そこには、エプロン姿のお母さんが、片手だけ腰に手を当てつつ、ベッド脇に立っていた。
表情はパッと見では呆れ寄りの苦笑いだったが、しかしどこか企み笑顔でもあった。
「あ、お母さん…おはよう」
と、頭がはっきりして来たかと自分では思っていたのだが、下半身を布団に入れたまま、上体だけ起こしつつ声を出してみると、自分でも分かるほどの寝惚け声だった。
「えぇ、おはよう」
とお母さんは普段の笑顔に戻って挨拶を返してきたが、またさっきまでの笑みに戻して続けて言った。
「ふふ、琴音、あなたにしては、今日は珍しくお寝坊さんね」
「…え?」
と、そう言われたので、私は咄嗟に自室の壁に掛けられた時計に目を向けたのだが、まだ起きたばかりというのもあったのだろうが、しかしまだ眼鏡を掛けていなかったのもあり、咄嗟には時刻を読み取れないでいた。
なので、私は取り敢えず時刻だけでもと、眼鏡を掛ける前に、枕元近くのサイドテーブル上に置いていたスマホを手に取ると、電源ボタンを押して見た。
すぐに反応を示したスマホが表示させた時刻は、いつも起きる時間を二十分ほど過ぎたものだった。
「あ、あぁ…ふふ、確かに、ちょっと寝坊しちゃった」
と、私はスマホを手にしたまま、そう言いつつ苦笑いを向けると、「あはは、そうでしょ?」と、お母さんは今度こそ正真正銘の呆れ笑いを浮かべた。
だが、すぐに普段の笑顔に戻ると、くるっと身軽に体を回してドアの方に足を踏み出して行った。
「ふふ、じゃあ早く朝の支度を済ませて下に降りて来なさいね?もう朝ご飯の支度は出来てるんだから」
「はーい」
と、お母さんの言葉に対して、ベッドに座ったまま、両腕を天井に向けて大きく伸ばしつつ返した。
と同時に、部屋を出て行こうとするお母さんの背中を何となしに眺めつつ、頭の中では、ついさっきまで見ていた、例の如く、実際に経験したかのように鮮明に覚えている夢の内容を、何度も繰り返し思い返すのだった。
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