【2-63】いつか心を取り戻すまで

「殺した、って、そんな……」

「いえ、本当に殺したも同然なのです。現在、その男は心が完全に死んでしまっています。何も見ようともせず、誰と向き合おうともせず、誰の声も聞かず、彼自身も何も言おうとはしない。食事をとろうともしない、どこへも行こうともしない、常に寝台か車椅子の上にいる、──そんな、生きているのか死んでいるのかも分からないような状態が続いているとのことです。そして、彼をそこまで追い詰めてしまったのは、自分であります」


 エレノアは努めて淡々と語っているようだったが、テーブルの上に載っている彼女の手は微かに震えている。必死に抑えようとしても抑えきれない感情が、そこに滲んでいた。

 キリエとしては、語るのが辛いような内容を無理に話してほしいとは思わない。しかし、今のエレノアは、打ち明けたがっているようにも見受けられた。実際、普段では考えられないほど、自発的に身の上話をしているのだ。

 少し様子を見て、彼女が口を閉ざしたがっている気配を見せたらすぐに止めることにしよう。──キリエは、そう思った。


「自分は、とても男勝りな人間です。繊細な女性らしさなど露ほどもありませんし、スカート類の着用は御免被りたいと考えておりますし、楽器や絵画などを習うよりも武術の習得を望みました。……しかし、この人のためならば人生に一度きりの花嫁衣裳に袖を通してもいいかもしれない、と感じた男がいたのです」

「……それが、その、心を閉ざされている方ですか?」

「はい」


 肯定したエレノアは、どこか懐かしそうな眼差しで宙を見つめる。


「このお屋敷で働く以前にお世話になっていた、故郷の名士の子息でした。そこでの自分は、メイドではなく雑用係として置いていただく代わりに、男装で働くことへ許可をいただいていました。他のメイドが敬遠するような、臭くて汚い雑用ばかりをこなしておりましたが、素の自分のままでいられる気楽さがあったので嫌ではありませんでした。……男装といっても、このように立派な燕尾服が支給されていたわけではなく、つぎはぎばかりのシャツとズボンでしたし、何の魅力も無かったと思うのですが、何故か御子息に気に入られました」

「ノアには、ノアにしかない魅力があります。その御子息は、それに気がついて好ましいと思われたのでしょうね」

「そうでしょうか……?」


 当時を振り返るエレノアは不思議そうに首を傾げているが、彼女の飾らない素朴な美しさは魅力的だとキリエも感じている。そして、たとえスカートを着用していなくても、彼女の細やかな気配りなどに女性らしさは垣間見えた。


「いずれにせよ、自分を何故か気に入ってくれた子息のことを、いつしか自分も愛しく思うようになりました。しかし、その家は貴族ではないものの有力な商家で、自分などが嫁入りできるはずもなかったのです。──彼は言いました。全てを捨てて君を選ぶ、だから君も僕の手を取ってくれ、と」

「つまり、駆け落ちしようと……?」

「はい。日時と、落ち合う場所を決めました。そのまま街を出て、どこか遠くで細々と生きていく計画でした。……しかし、自分は待ち合わせ場所へ行きませんでした」


 窓から射す朝陽は眩しいほどになったが、エレノアの瞳には逆に影が落ちてゆく。


「彼には、婚約者がいました。美しく、教養もあり、優しくて、何の欠点も見つからないような素晴らしい女性でした。──待ち合わせ場所へ向かう途中、彼女の存在を改めて思い出し、彼の人生に必要なのは自分ではなく彼女だろうと考えました。彼はきっと自分のことなど忘れて、彼女と幸せに生きてゆけるのだろうと。ならば、より豊かな幸福を得られる道を彼に選んでもらうことが、自分からの最大の愛情だろうと思ったのです。心の底から彼の幸せを望み、待ち合わせ場所へ向かっていた足を引き返しました」

「……」

「──結果、自分に捨てられたと思ったらしい彼は、生きる屍となってしまいました。当時の旦那様は事情を把握され、『責任を取って息子の心を回復させてみろ』とお怒りになって、自分も何度か面会をして語り掛けてみたのですが……、無のまま涙だけを流す状態で、彼の心は戻って来なかった。……自分が、彼の心を殺したのです」


 きつく握られているエレノアの拳を、キリエはそっと手を伸ばして静かに撫でた。ハッと我に返ったらしいメイドは、遠慮がちに手を引いてしまう。


「……キリエ様、このような罪人の手に触れられないほうがよろしいかと」

「そんなことありません。ノアは、僕の大切な家族のひとりです」

「それは、畏れ多いにも程があります」

「いいえ。一緒に暮らしている、大事な家族です。……だから、そんな君のことをきちんと知ることが出来て良かった。辛いことでしょうに、話してくれてありがとうございました」


 キリエの言葉を受け、黒い瞳が微かに潤んだ。

 もしかしたら、彼女が無表情気味なのは、かつて愛した人の心が失われてしまったことと関係があるのかもしれない。彼女も、そして件の彼も、心の傷が癒えて本来の自分を取り戻せますように、とキリエは内心で願った。


「……自分は、彼の愛情を甘く見ていたのかもしれません。自分のほうが彼を愛しているのだと、そんな傲慢さが彼の心を殺してしまったのかもしれません」

「ノアの愛情は本物だと、僕にも伝わってきました。自分を責める言葉を口にするのなら、そのぶん、彼の心が快復することを願って祈りましょう。……いつか、笑顔でこのお茶を故郷で彼と一緒に飲めるように、そんな日を祈りましょう」


 そう言ってキリエが両手を組んで祈り始めると、その姿をじっと見つめて深々と頭を下げてから、エレノアも同じように祈りを捧げ始めるのだった。

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