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「葉流さん、これを」


 ファミレスを後にした私たちが病院に向かって歩いていると、ジャンが鞄から一冊のノートを取り出した。「先ほどは言い出すのをすっかり忘れて話し込んでしまいました」


「はぁ」


 彼から受け取った赤いキャンパスノートは角の方がやや痛み、ひどく使い古された印象を受けた。試しにぱらぱらページを捲ると、中には端正な文字がびっしりと記入されていた。


 所々に日付の記載が見られたので、日記のようだとすぐに分かった。ページの途中には一枚の写真が挟まれている。これもまたフィルムが色褪せ、随分と前からそこにあるのでないかと思われた。


 写真に写っていたのは、幼い二人の少女だった。手を繋いで並ぶ彼女らは片方が赤い色のワンピースを、もう片方が白いワンピースを纏い、ぷっくらとした頬がまるで紅白饅頭のようだった。


 公園のような場所を背景に佇む二人は、どちらも屈託のない笑みを浮かべている。斜め下に印字された日付を見ると、その写真が撮られたのは今からおよそ十七年前だった。その頃だと私は確か四歳か、五歳か……。


「雪希が自宅で倒れているのを発見した際に、すぐ近くに落ちていたものです。恐らく日記のようですが、私も中身までは詳しく確認していません」


「はぁ。そうですか」


 私はひとまずそれを預かり、ぺこりと頭を下げた。ジャンはそんな私の頭の上にポンと手を置き、優しく撫でながら、「早く元気になると良いですね」と言った。


 病院のロビーで待機しているとやがて自動ドアが開き、私とそっくりの顔をした母が姿を現した。


「お父さんはね、車停めに行ったから」


「うん」


 私の隣に並んで立っていたジャンは、母に向かって礼儀正しく挨拶をした。普段から気さくな性格をした母は突然現れた謎の西洋人にも怪訝な表情を見せず、事情を聞くと姉を助けてくれたことに対して丁寧にお礼の言葉を述べた。


 そう言えば、私は彼に出会ってから一度でもお礼を言えただろうか。


 続いて父が現れると、目に映ったジャンに一瞬強ばった表情を浮かべたが、母が手短に彼の紹介を済ますと納得したように頷き、「雪希は?」と言った。


「ご案内します」


 まさに看護師張りに気の利く男性である。私たちはジャンに続き、廊下を歩き進んだ。時おり母が私に、「あんた髪短すぎじゃない?」などと呑気な質問を投げかける辺り、相変わらずだなと思った。


 病室で姉の様子を見た両親はその足で担当医に話を聞きに行き、母はあれやこれやと質問を投げかけたが、ひとまず彼女が覚めるのを待つしかないということで合意したようだ。


「こちらの病室はあくまでも救急用ですので、なるべく早く別の病室を手配した方が良いかと思われます」


 医師にそう言われ、母はすぐにでも手続きがしたいと申し出た。そして、医師や看護師が席を外すと、「あんたは、今日はもう帰りなさい」と言われた。


 ……戦力外通告。というやつかもしれない。


「葉流は、元気でやってるのか?」


 ジャンを車で自宅まで送り届けた父は不器用にお礼の挨拶を交わした後、未だネオンサインが飛び交う都会の繁華街を走りながら、助手席に腰かけた私に向けてそう尋ねた。運転席に座る父の横顔を眺めると、最近は少し白髪が出てきたものの、まだまだ二枚目なのは変わらない。


「うん」


「何かあったら、すぐに言いなさい」


「分かった」


 口数の少ない父なりの、最大限の気遣いなのだろう。それ以降は父も特に何も言わず、都会の喧騒を眺めながら車を走らせた。


 自宅に到着したのは、すでに夜中の三時を回った頃だった。


「上がってく?」


 まるで付き合って間もない彼氏に向けて言うような台詞だが、私にとっては以前の彼氏との短い付き合いもかなり昔の記憶だった。


「いや、母さんが待ってるから」と答えた父は、付け足すように、「たまには掃除するんだぞ」と言い残してその場を去っていった。


 もっと他に言うべき台詞があるようにも思えたが、我が父は私に似て感情の表現が得意ではない。スピードに乗って揺れる赤いテールランプは、まるで光り輝く父の魂がゆらゆらと浮遊しながらこちらに手を振っているように思えた。私は遠ざかるそれに片手を上げて応え、数時間ぶりに部屋に戻った。


 すぐには寝付けなかった。午前中には企業説明会がある。今すぐ眠っても数時間は眠れるが、それでも目が冴えてしまって身体が妙に落ち着かない。暗闇の中でベッドに腰掛けた私は、流れでそのまま持ち帰ってしまった姉の日記を手に項垂れていた。


「…………」


 電気のスイッチをつけると、眩しくて瞳が痛かった。光に慣れてきたところでゆっくり目を開くと、私は机に向かって姉の日記を開き、写真を取り出して眺めた。


 仲睦まじく並ぶ少女たち。その幸せそうな表情は、今の私には電灯の光よりも遥かに眩しく感じられた。写真の挟まっていたページを何気なく眺めると、そこには詩のように短い文章があった。


 五月十三日。


 それは私にとって、最も幸福を感じる日。

 もしあなたに出会えなければ……。と、ふと考えることがあります。

 運命的な出会い。といえば、聞こえは良いかもしれません。


 あなたと心を通わすことが、今では自らの四肢を動かすがごとく自然なことのように感じられます。あなたにとってもそうであると、私には確信が持てる。


 これを「恋」と呼ぶのなら、私の初恋はあなたということになります。

 これを「運命」と呼ぶのなら、私の定めは恵まれたものであったのでしょう。


 私は決して、信心深い者ではありません。神も仏も、イエスも仏陀も、何一つとして崇めたことはありません。救いを求めるべき対象など、私には存在しません。それは自らの心の強靭さゆえではなく、むしろその脆さ、弱さゆえに前進しか許されない立場にあるのだと自覚しています。


 これもまた、自らの強欲や傲慢と呼べるのでしょうか。


 あなたは私の本性を知り、驚きましたか? 幻滅しましたか? 我が儘で、醜悪で、恐ろしく子供じみた怪物のようであったでしょう。


「少しだけ、肩を貸そうか」


 その言葉は私の胸に留まり、未だ色褪せることはありません。


 運命というものを、私は一切信じていませんでした。けれどあなたに出会い、その気持ちはどうしようもなく揺れ動いています。


 私に居場所を与えてくれた、あなた。二人の時間が少しだけ、色鮮やかになれるように、私は――。


 と、そこまで読んだ私は、素早くページを閉じた。


 ここに書かれていることは、どういうことなのか。具体的なことは何一つ描かれていないが、あの人の心の中を不用意に覗き見たようで、私は何だか後ろめたい気持ちになった。


 まるで激しい水流のように、何かが流れ込んでくるように思えた。


 私は電気を消して再び布団に潜り込むと、頭まですっぽりと覆いかぶさるように掛け布団を被った。暗闇に覆われた狭苦しい空間は、姉の眠る夜の病室を思わせた。彼女もこんな風に息苦しい気分を味わっているのだろうか。


 読まなければ良かった……。


 しばらくして布団から顔の上半分を出した私が机の上に視線を遣ると、そこには先ほど投げ捨てるように置いた赤いノートが転がっていた。


 幻ではない。そこにある赤いノートも、姉が薬を飲んで自殺未遂を図り、暗闇の中で横たわるあの光景も、紛れもない現実だ。


 できれば夢であってほしかった。気の利かない冗談であってほしかった。

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