『あたしが主役なんだから。』

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 あっという間に時が経ち、寒さも少しずつ和らぎ始めていた。


 いつまでこの生活が続くのかという思いが時おり頭をよぎるものの、心穏やかな日常はとても居心地が良かった。


 現実世界に戻ろうと懸命に思案していた頃の私は、すっかり置き去りにされたように思われる。それと同時に私が抱える問題もまた、箱の中に固く封じられ、今では引き出しの奥深くにしまわれている。


 このまま時が流れて問題の風化が進めば、私の気も晴れるだろうか。


 正直な所、私はもう一度その箱を開くのが怖いと感じていた。その瞬間から根の深い闇を帯びたままの問題は私の影として付きまとい、いずれは地の底へと誘われる。その隠れ蓑として、この森は存在しているのかもしれない。


 何者も寄せ付けず、隔離された彼女の森。そこは私にとって魅力的なもので溢れていた。熊が言葉を話し、毎晩のように心躍る家族の団欒があり、そのうえ自由気まま少女の姿で過ごす姉を見ることができる。


 療養という名の逃避をするには、もってこいの場所だった。


 時間が経つにつれてお隣の美少女魔女もすっかり私の相棒となり、些細な事にも二人で協力して臨んだ。ある時の夕食では、私にとって天敵とも言える食材が献立に上がった。表面がブツブツで、緑色をしたスティック状の水っぽい野菜。――まぁ、胡瓜きゅうりだ。


 彼女は母に内緒でこっそりと私の皿からそれを摘むと、「今度はあたしのナスを食べてよね」と耳打ちしながら残らず食べてくれた。


 それからは互いの苦手な食べ物を順に挙げていき、困った時には相手の役に立つことを約束した。


「お野菜って、どうして苦いものが多いのかしら」


 風呂場で身体を泡だらけにした彼女は、ため息交じりにそう話した。


「身体に良いから食べなさいってママは言うけど、美味しくないものばかりでうんざりだわ」


「そうよねぇ」


 湯船に浸かった私は淵に肘をつき、頬を赤らめている。自動給湯ではないため日によって湯船の温度が大きく異なり、今夜は相当に熱い日だった。


「あたし、ケーキだったら飽きずに食べられる気がするの」


 どうやら彼女は、お決まりの妄想タイムに突入したようだ。


「食卓に毎日ケーキが並んでいたらどんなに幸せかしら。おうちがケーキだったりしても素敵よね。お庭にはお菓子で作ったおうちがいくつも並んでて、日替わりでそれを食べ歩くの!」


「甘いものばかりだと虫歯になるよ」


 熱気に耐えかねた私は湯船から身体を持ち上げ、「それに自宅がお菓子だと、ベタベタしそうで嫌だ」と現実的な意見を返した。


 すると彼女は、「なによ! ママみたいなこと言って!」と突然声を荒げ、湯船に浸かっていた私よりも真っ赤な頬を膨らませながら機嫌を損ねてしまった。


 少女というものは、この上なく気持ちが移ろいやすい。


 彼女は就寝前に必ず本を朗読してくれた。とても優しくて、妹想いの女の子だった。よく物語を脱線して意味不明な妄想に耽るが、それもご愛嬌である。


「お星さまって、なんであんなにきれいなのかしら?」


「それは確か、水素か何かのガスが核融合反応を起こして――」


「あたしね、いつかあの中のどれかに乗ってみたいって思ってるの」


「え、乗るの?」


「一つくらい乗れるのがあっても良いじゃない」と答えた彼女は、派手にベッドを揺らしながらこちらに身体を向けた。


「月に一度だけね、地面にお星さまが降りそそぐの。それを見つけた人は夜の間だけ星に乗ってどこでも好きな場所に出かけていける。とっても素敵じゃない?」


「それで、あなたはどこに行くつもりなの?」


「そんなの決まってるじゃない!」と目を輝かせた彼女は、「もし番が回ってきたらね、あたしはぜったい王子さまに会いにいくの!」と興奮したように言った。


「王子ねぇ」


 少女趣味の行き着く先は、世界が違っても似たようなものか。


「あたしたちの知らない森のなか、うんとうーんと離れたところにね、大きなお城があって、金色の髪をした美少年が住んでいるの。彼は毎晩窓から星を見上げて神様にお祈りをささげている」


「お祈りって、どんな?」


「――素敵な出会いに」


 彼女はうっとりした表情で瞳を潤ませ、「王子さまだって、運命の人に出会いたいと思っているはずだもの」


「それが、あなたってわけだ」


 いかにも彼女が喜びそうな言葉を私が返すと、べにばらは照れたように頬を赤らめ、「そうとも限らないんだけど……」と頭を掻いた後、「でも、星を拾った日はあたしが主役なんだから、そう言えなくもないよね!」と拳を握った。


「主役……」


 その言葉を使う彼女には、べにばら役を選んだ姉の姿が重なって見えた。目をキラキラさせて、どこまでも輝かしい日々が続くと信じて疑わない彼女の後ろ姿を追うのが、あの頃の私は本当に楽しかった。


「きっと素敵な出会いになるわ。なんせあたしが星に乗って、空から舞い降りてくるんだもの!」


「たいそう驚くでしょうね」


「それでそれで!」と彼女は私の肩を掴むと、「あたしたちはいつか王子さまと結婚して、みんなそろってお城で楽しく暮らすの」と言った。


「当然、ママもくまさんも一緒だからね」

 それから夢見る少女はお祈りのポーズを取ると、宙を見上げ始めた。


「でも、王子様って一人でしょ? 結婚するならどっちかだよね?」


 そんな私の言葉に彼女はなぜか自信満々な様子で胸を張ると、「王子さまにはね、必ず仲良しの兄弟がいるものなの」と答えた。


「だから、どっちかは王子さまの弟と結婚することになるわね。でもお互い王子さまにはこだわらず、相性がいい人をえらびましょう。それが結婚生活を長く続けるヒケツだって、ケインズおじさんが前に言ってた」


「ケインズ、おじさん……?」


「たまに屋根の修理に来てくれるじゃない。奥さんとすっごい仲良しなんだって。あこがれちゃうわ!」


 そういう所で余計な語彙を仕入れてくるわけだ。


「叶うといいね」


「うん!」と彼女は勢いよく答えたが、不意に表情を曇らせ、「でもね、あたしには心配なことがあるの」と小さく漏らした。


「心配なこと?」


「あたし、ちゃんと大人の女性になれるかしら……。しらゆきみたいにおしとやかで落ち着いてもいないし。それに、あとどれくらいで大人の女性になれるのかな?」


 その質問については、正直頭を悩ませた。大人と子供の明確な違いなど、私にもまだ分からないのだから。


「まぁ、十年くらい?」と私が答えると、べにばらはすかさず顔を寄せ、「十年? 十年たったら、大人って言ってもいいの?」と尋ねた。


「たぶんね」


 そう答える私もまだ、自分を大人とは認識できないのだけれど……。


「十年後のあたしって、どんなかなぁ? 王子さまがびっくりするくらい素敵になれてるかしら」


「あなたは、素敵な女性に成長するよ」


 私は微笑みながらそう答えると、電話口で耳に届いた姉の明るい声や、私を思いやる言葉を思い出した。


「十年後も、二十年後も。きっと」


「わぁ! しらゆきが言うならぜったいね。楽しみだわ」


 そう言って無邪気にはしゃぐ彼女の表情には一切の淀みがなく、澄み切った湖のようだった。

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