第5話 海の怪

 芙蓉は朝方になって帰ってきた。

 ベッドでぐったりしていた紅倉は目を覚まし、訊いた。

「どう? 女の子は大丈夫?」

「大丈夫とは言えませんね」

 芙蓉は憤然と言った。

「先生のおっしゃったことがよく分かりました。右腕が肩までそっくり日のたった死体みたいになっていて、医者も何が起こったのか首をひねっていました。おかげでわたしの方の治療はわりとすんなり認められましたが。

 霊体の毒素は抜いたつもりですが、右腕一本ごっそり無くしていますから、時間が掛かれば肉体の回復にも深刻な影響があるでしょう。相当ショックを受けていますしね、早く怨霊を退治して霊体を取り戻してあげましょう」

 芙蓉は実際に「霊体治療」を行ってみて、霊体の感触を学習したようだ。

 紅倉は弟子の飲み込みの早さに満足しつつ、すっかり怒っている芙蓉を眺め、言った。

「かわいい子だったでしょう?」

 芙蓉はムッと紅倉を睨んだ。紅倉はすごすごとタオルケットを被った。

 紅倉がタオルケットの中で芙蓉の怒りが収まるのを待っていると、歩み寄った芙蓉がタオルケットの上から紅倉の頭を撫でてきた。

「先生も大丈夫ですか? 相当無理したんでしょう?」

 紅倉は気持ちよく頭を撫でてもらいながら言った。

「うん…。疲れた」

 芙蓉の手が離れ、じきにシャワーの水音が聞こえてきた。紅倉はその音を聞きながら、一緒に生活する人がいるのっていいな、と思っていた。

 シャワーが止まって、芙蓉は戻ってくると、ベッドに潜り込んできた。

「こらこら美貴ちゃん、昼間から夜ばい?」

「わたしも疲れたんです。昼間は大丈夫なんでしょう? だったらゆっくり眠らせてください」

 芙蓉は紅倉を背中から抱き、素肌の脚をすり寄せると、

「お休みなさい」

 と、スースー、本当に眠ってしまった。

 紅倉は首筋に芙蓉の寝息を感じながら、

「癒されるなあ」

 と、くすぐったそうに笑い、目を閉じ、安心したように自分もまた眠りについた。




 午後。

 そろそろ日の陰ってきた、沖合の海。

 小型漁船が最後の網を巻き上げ、帰港の途に付こうとしていた。

 網から跳ね出した魚をいけすに放り込み、または雑魚を海に放り返して、若い漁師はふと、ぱちゃぱちゃ音のする鉛色の海面を眺めた。波は穏やかとは言え水深200メートルの海であるから、ざざあん、ざざあんと一見静かに、しかし実は大きく海面が起伏し、暗い大きな陰を作っている。

 ぱちゃ、ぱちゃぱちゃ、ぱちゃ、

 その暗い表面を、小さな物がしきりと叩いている音がする。

 羽を痛めたカモメでも浮いているのかと漁師は目を細め、よく見ようと全身を大きく曲げ伸ばしして眺めた。

 ぱちゃ、ぱちゃ。

 盛り上がる山の陰から白い物が覗き、漁師はギョッとした。小さなか弱い力がぱちゃぱちゃと必死に海面を叩き、大きなうねりに上下に揺られている。

 人だ、

 と、薄暗い中はっきり見えたわけではないが漁師は直感した。

「おおーい! おおーい!」

 漁師は海上の白いお面を見失わないように凝視し、口を斜め後ろに向け大声を上げた。

「ああん? なんだあー?」

 操舵室で何やら話し込んでいた船長と先輩漁師が顔を出して叫び返した。

「おおい! 来てくれ! 人だ! 人が浮いてるぞ!」

「なんだとお!?」

 二人も驚いて慌てて後部甲板に出てきた。

「どこだあ!?」

「ほらっ、あそこ! 白い顔が浮いてるだろう!?」

 二人はやはり目を細めて指さされる波間を凝視し、

「あっ! ほんとだ!」

 と驚いた。

「暗えな、ライトで照らせ! えい何いつまでも見てる! 浮き輪投げてやれ! おおーい、あんたあー、頑張れえー! 今助けてやるぞおー!」

 船長は叫んで操舵室に戻り、エンジンを掛け、ゆっくり慎重に船を進め、舵を操り遭難者に船体を寄せていった。

 操舵室の屋上に上がった先輩漁師が備え付けの投光器を灯し、海面を照らした。

「頑張れーっ!」

 声を掛けロープの結ばれた浮き輪を握りしめ凝視する若い漁師はライトで照らし出された白い顔を見て、

『女だ!』

 とギョッとした。若い女だ。なんでこんな岸から離れた沖を若い女が漂っているのか分からないが、若い彼は興奮した。

 女は黄色く顔を照らされて、半死半生と言った感じで目を半ば閉じかけ、力ない指で、ぱちゃ、ぱちゃ、と海面を掻いていた。

 船体が斜めに寄せられていき、それっと若い漁師は浮き輪を女の手前に投げた。

「掴まれ! 引っぱってやる」

 しかし女の顔は波を被りながら漂うばかりで、浮き輪はむなしく女の前で漂うだけだった。

 若い漁師は、もしかしてもう死んでいるのか?と怪しんだ。

 その疑問に答えるように、女の口が、パク、と動いた。

 若い漁師は服を脱ぎ捨てた。投光器の先輩が叱りつけた。

「馬鹿! むやみと海に飛び込むもんじゃねえっ!」

 若い漁師はキッと睨み返した。

「浮き輪に捕まる力がねえんだよ!」

「船を完全に寄せるまで待て!」

「でも…、あっ!」

 漂っていた女の顔が、トポン、と沈んだ。

「どこだ? どこに行った?」

 投光器が女を捜して忙しく動いた。

 ボッボッボッ、とエンジン音が昼の色を失っていく空に静かに響く。

 ざざあん、ざざあん、と静かな波の音。

 海面を必死と凝視する若い漁師は、

「あっ」

 と叫ぶと、躊躇無く頭から海に飛び込んだ。

「馬鹿野郎!」

 先輩漁師は後輩の飛び込んだ先を見当を付けて照らした。

 波が揺れ、しかし若い漁師はなかなか浮いてこない。

「ちっくしょう、ばっかやろう、さっさと面出しやがれ……」

 内心焦りながら目は冷静に海面を見つめ続けた。

 船長はエンジンを停止し、甲板に出てきた。

「いねえか?」

「あの馬鹿も浮かんできやがらねえ」

 ベテランの船長はじっと暗い鉛色の海面を見つめ、つぶやくように言った。

「舟幽霊じゃったかいなあ……」

 突然、

 グラアッと船が大きく傾げ、

「うわあっ」

 突然の大きな揺れに、屋根の先輩漁師が投光器の握りから手を滑らせて宙に放り出され、ドッボーンと海中に落下した。

「シゲえ!!」

 船長は必死に縁の手すりにしがみついて耐え、揺れはグラングランと大きく続いた。船長は必死となりながら恐ろしさに体の芯が震えた。自然の波ではあり得ない揺れ方だ。

「うおおっ、本当に舟幽霊の仕業かあっ!?」

 船はグラングランとひっくり返りそうに揺れ続け、うおおと叫ぶ船長の視界に黒々した海面が迫り、遠のき、また迫った。

「うおおおおっ」

 数度海面にくっつきそうに迫ったとき、海中からびゅっと何か太い物が飛び出し、ブンと船長の背後に回り込み、肩をさらって海中に引っぱり落とした。

「うわ………ぐぼぼぼぼぼ」

 耳腔をプクプク泡の踊る重い水が圧し、海中に没した船長は必死に海面に泳ぎ上がろうともがいたが、腰を太い物に巻き付かれ、浮き上がるのを妨げられた。

 船長はもがき、腰の周りの物を掴んで振りほどこうとした。太くて、丸くて、柔らかい手触りのくせに、中身がずっしりしこって硬い。

 何か分からないが、漁師の彼はそれを海の生物と直感した。この硬くてぬめりのある皮膚は………

 努めて冷静に対処を考える船長は、周りに目をやり、海中をぼうっと漂う影にギョッとした。

 二人の漁師仲間が、まるで抵抗無く、ぼうっと水中に立っている。

 やはり魔物妖怪の仕業か!?と船長はカアッと怒りと恐怖と同時に感じた。

 ぬうっと黒い大きな影が目の前に浮き上がってきた。

 丸い大きな影は、カッと、ビールジョッキの底のようなまん丸の目を光らせて船長を見た。

 船長は再びもがき、もはや息が続かず、意識が遠のいてきた。

 くっそおー……、く、苦しい……………

 体から力が抜け芯から冷たくなっていく。

 苦しみから死を受け入れようとした船長に、巨大な目がぐわあっと迫ってきて、最後の抵抗で睨みつける船長の意識を、飲み込んでいった。



 しばらくして、

 海上で不思議なことが起きた。

 ざばあっ、ざばあっ、ざばあっ、と、

 三人が揃って顔を突き出したのだ。

 三人は泳いで船に取り付き、側面に掛けられた浮き輪に捕まり、船上に這い上がった。先に上がった若い二人がベテラン船長を助け上げ、船長は無言のまま操舵室に入り、エンジンをスタートし、梶を切り、港向けて進んでいった。

 甲板の先輩漁師も若い漁師もまっすぐ前を見るばかりで、一言も口をきかなかった。

 船はドッドッドッドッドッと音をさせて、黒くなっていく海から、ポツポツ光の灯り始めた港向けて帰還していく。

 しかしその港は、自分たちの漁港とは別なのだった……

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