探索者は悪夢以外の夢を見るのか?

這撫広行

第1話 地獄は最初に見せるもの

 オレンジ色の陽の光が、窓から差し込んで廊下を照らしている。

 壁や廊下には年季の入ったひび割れがあちこちに入っている。

 ふと窓から外を見下ろせば、グラウンドではユニホームに身を包んだ男女が声をそろえて走ったり飛んだりしている。

 ここは、なんてことはないただの高校だ。

 そんななんてことはない高校のとある廊下に、ペタペタと上靴の足音が廊下に響いた。

 この廊下を歩いているのは『私』だけ。今はもうとっくに放課後の部活動の開始時間を過ぎている。ならば『私』は何をしているのか……実は部活動をしに来ているわけではない。

『私』は小さく口元に笑みをのせた。目的地が近づくにつれ心臓がドキドキと鼓動する。『私』はとても今興奮している。そう、『彼氏』に会いに来たから。


 段々と気分が高揚して、体が勝手に跳ねてスキップしていた。そのまま構わず目的地まで足を止めずに向かった。チラリと教室名が記されたプレートを見ながら、ここじゃない、もっと先、隣……と脳内でカウントダウンを始める。脳内カウントダウンが0になったあたりでやっと目的地にたどり着いた。

 教室名のプレートを見ると『美術室』と書かれている。

『私』は深呼吸をしてから教室の扉をノックした。


「…【優里奈ゆりな】? 」


 一拍置いて、室内から声がする。その声は紛れもない『私』を呼ぶ『彼氏』の声だ。

 今日もちゃんと部活に励んでいるのだなと、関心と会える嬉しさに胸を躍らせ、私は扉を開いた。


 扉を開くと、絵の具の匂いがした。その後に数枚のキャンバスと教室中央に置かれた一体の女性の石灰像が視界に飛び込んでくる。その石灰像を囲うようにして、二名の男子生徒が椅子に座ってそれぞれがキャンバスに向かって筆を走らせていた。

 奥に一名と手前に一名。

 急に扉が開いて驚いたのか、奥に座った男子生徒は私に目線だけよこすと、私が【優里奈】であることが確認出来て満足したのか、何も言わず目線を再びキャンバスに戻した。

 それに関して私も特には何もなく、視線を一番手前の人物へと移した。手前の人物は完全に筆を止めて私をじっと見ている。赤毛に無造作に跳ねた髪、そして大きくて猫目な美しい瞳。色素が薄く優しい色合いのその瞳は私を映している。私は嬉しくなって思わず顔を赤らめた。そう、この人が私の彼氏……人生で初めてできた大切な人だ。


「【健斗けんと】、今日もここにいたんだね」

「そりゃまあ、部員だしな」


 健斗はキャンバスに視線を移して再び絵を描き始めた。

 あれ……? 彼女が会いに来たのにもう再開?


「あの……健斗、その、えっと……」


 確かに今は部活動の時間だし、その時間に私がこの教室に来ているのはあまりいいとはいえない。限られた時間を自分の為に割けとは言えない。確かに、私は迷惑なのかもしれない。そう思うと「構って」とはとても言えなかった。さっきまでスキップしていたけれど、いざこういう場面になるとなかなか素直になれないものである。いままで彼氏がいなかったのだってこの極端な内気な性格のせいでもあるのだ。


 なかなか言い出せず、私はしぶしぶ余っていた椅子を自分の所に寄せて、ちょこんと座った。

 健斗は黙々と絵を描き続けている。描いているのは真ん中に置かれた石灰像。じっと後ろから健斗のキャンバスを眺めていると、握っていたのは筆ではなく木炭であったことに気が付いた。木炭を握った指は真黒くなっていて、その指でそのまま健斗は自らの頭を掻いた。


「ああ! だめ汚い‼ 」


 私は見ていられなくてとっさに健斗の真っ黒な手を掴んだ。健斗は肩を大きく振るわせた後、手を掴んだ私に初めて気が付いたかのようにびっくりした顔で振り向いた。


「……あ、ご、ごめ……」


 健斗の驚いた表情を見て、気が弱くなる。また邪魔をしてしまった。


「いや、ごめんな……その、あ、ありが、とう? 」


 なぜか健斗の語尾が疑問形になっている理由を私は遅れて察した。まだ手を掴んだままだったのだ。慌てて健斗の手を離して、わたわたと一人でキョロキョロする。ああどうしようどうしたものか、ああそうだ手が汚れているからハンカチを渡そうと単純な思考回路でハンカチをその健斗の手に挟んだ。


「……ふふ」


 健斗はなにやら腹を抑えながらハンカチを握って私から顔を逸らした。そのまま丸くなって必死に笑いを抑えている。


「な、なんで、何がおかしいの? 」

「ごめんごめん。可愛くて」

「ああそう……えっ」


 聞き流しそうになって必死にその流しそうになった言葉を塞き止めた。今健斗が……


「か、かわ……かわいい⁉ 」


 確かに私の事を可愛いと言った。今のどこに可愛い要素があったのだろうか? 本当に彼の作業を邪魔してしまっただけだと思うのだが。

 なにも思い当たる節がなく、頭を抱えて座り込む。どうしようどうしようと思考回路をパンクさせていると、私の頭にぬくもりが乗せられた。

 おっかなびっくり私は顔をあげる。そのぬくもりの正体は、健斗の手だった。勿論、汚れていない方の手である。


「うん。優里奈は可愛いよ」

「ど、どうして……」


 健斗は私の頭を優しく撫でる。


「優しいから。ほら、こうやってハンカチ渡してくれたりさ……俺結構鈍感だから助かるわ」


 優しい、助かる、なんてことはない言葉だ。別に特別な言葉じゃない。それなのに、私の中でその言葉はふわりと溶け込んで、じんわり私の心を温かく満たした。


「健斗……私、あなたの邪魔ばかりしちゃって……あなたの彼女なのに、ごめ……」

「邪魔? まさか、むしろお前が来るの待ってたんだぜ」

「……え? でも……」


 さっきすぐに絵を描くのを再開していたじゃないか、そう続けようとすると、健斗はハンカチを握ったままの真っ黒な手で、照れくさそうに頭を掻いて視線を大きく逸らす。


「……て、照れくさくて……いざお前が来ると……」


 何だそういう事だったのか……私は心からため息をこぼして、にっこりと笑った。私は健斗のこういうところが好きになったのだ。


 バタン


 教室の奥の方から扉が閉まる音がした。

 奥には『美術準備室』がある。

 もう一人の部員の男子生徒がそちらへ移動したのだろうか? 唐突過ぎて全く気が付かなかった。

 視線を美術準備室の扉に奪われていると、健斗がゴホンっと咳払いした。


「二人きりだな」


 ――二人きり……

 その言葉の意味に気が付いて、はっとした。

 そうだ、今私たちは二人きりだ。


「……ね、ねえ……さっき、健斗……私の事待ってたって……」


 また心臓がドキドキと鼓動し始めた。

 未だ頭に乗せられたままの彼の手を視線で追って、彼の表情を見る。

 彼はじっと私を見下ろしている。心なしか彼の手の体温は先ほどより上がっていた。


「……ああ、優里奈……俺はお前を――」


 ガシャン‼


 突然、大きな物音が美術室に響いた。

 私と健斗の肩が同時に跳ね上がる。

 音がした方向は美術準備室だった。


 私たちはそれぞれ手を離したり立ち上がったりして、一旦場の空気を鎮める。

 美術準備室からは、それ以降音はしなかった。


「……なにか、落としたのかな? 」

「わからない……ちょっと見てくる」

「あ、私もいく」


 私たちは教室の奥にある美術準備室の扉の前まで移動した。健斗は扉をノックする。


「おい、何かあったか? 」


 返事はなかった。


「……そういえば、あのいつもここに居るあの人……だれ? 」

「そういえば……名前知らないな……」

「え、同じ部員でしょ? 」

「いや、全然会話がなくて……」


 じゃあなんと呼びかけたらいいのか……迷った末私たちはとりあえず扉を開くことにした。


 キイ……金属が軋む。

 少し重い鉄製の扉。

 扉を開くと、死臭が漂った。



 俺の名前は【健斗】。どうして改めて名乗る必要があるのか、理由は簡単だ。

 ここから視点が俺に変わるからである。

 物語の中でいきなり視点を変えるだなんて良くないって? でも仕方ないんだ。どうして仕方ないのかは、この先を読んでいけば嫌でも分かるよ。



「な、なにこれどうなってるの‼ 」

「そんなの知らない‼ とにかく離れ……」


 すぐに引き返そうとした。だが後ろを振り返るとそこには壁しかなかった。

 自分たちは美術準備室の扉を開いたはずだ、それなのに、目の前には血が染みついた木造の廊下が続いていた。廊下が放つ死臭は、言葉なくその廊下の先には大変なものがあると警告していた。


「ねえどうしよう私怖い‼ 助けて‼ 」

「こんな所で騒いだって仕方ないだろ落ち着け優里奈‼ 」


 優里奈は動揺して大きな声で助けてと俺の服の裾を掴んだ。

 もうこちらの話もろくに聞こえていないのか、落ち着く気配もない。

 当たり前か、突然こんな血だらけのよくわからない廊下に放り出されたのだ。この夢なのか現実なのか分からない異常現象を受け入れろという方がおかしい。


「おかしいよな、ここは確か普通に画材とかガラクタ置き場の部屋だったんだけどな、いつからお化け屋敷に改装工事してたんだろうな? 」

「うう……死にたくない、怖いよ」

「死ぬ? まさか、ほらとにかく進もう……先に『アイツ』がいるかも……」


 名前も分からない男子生徒と再会して何になるのかと思うのだが、とりあえず今は前に進む理由が欲しかった。理由がないとこの場から一生動けない気がしたから。


「ほら、俺がいるから大丈夫だ、行くぞ、優里奈」

「健斗……いやだ、いやだよ」


 ガタガタと震える優里奈を引きずって、俺は前に進んだ。

 進むにつれ死臭はどんどん強まってくる。

 ペタペタと響く上靴の音はなんと頼りないことか。革靴で歩きたい。

 やがて先の見えない廊下に窓が現れ始めた。俺は窓へ駆け寄り外をのぞく。

 外はどうやら『森』のようだ。どちらにしても全く知らない『森』だ。森の奥でなにか四つん這いの動物のようなものが歩いていった気がしたが、なにが歩いて行ったのかよく見えなかった。


「なんだここ、何で突然知らない場所にいるん――」

「いやああああああああ‼ 」


 突然優里奈が悲鳴を上げた。耳を劈くほど大きな悲鳴だ。思わず顔が歪む。

 優里奈はガタガタと震えている。何事かと優里奈の視線の先を探ると、それは俺が見ていた『森』だった。なぜこんなに怯える必要があるのだろうか、確かに知らない『森』だが怖いものなんて見えない。


「もう嫌ああああ‼ 」


 優里奈はとうとう一人で走り出した。ばたばたとバランスを崩してがむしゃらに廊下の先へと走り去ってしまう。


「優里奈‼ 一人じゃ危ないぞ‼ 優里奈‼ 」


 俺は優里奈の後を必死に追いかけた。

 だが予想以上に足の速かった優里奈を俺は見失ってしまった。そう、なぜか一本道の廊下で見失ってしまった。


「なんだよ……どうなってんだよここ‼ これは夢だよな? そうだよな? 」


 独りになった途端に急に現実を実感して、恐怖が体の奥底から這い出てきた。

 見渡せど木製の壁、染みついた血痕、床は心なしかベトベトとしている。

 先ほどまでペタペタとなっていた上靴は、ギシギシと床に張り付いては離れ、不気味な足音を作り出していた。


 優里奈を見失ってからどれくらい歩いただろうか。部屋らしき部屋も無ければ扉もない。あるのは窓と壁と床。ずっと同じ光景がループしているかのように思えてくる。

 さっきから床に張り付く上靴が重くなってきて、ついに俺は足を止めた。ふらふらとそのまま壁にもたれてずるずると床に崩れた。体をすべて壁に預けたからか、壁にこびり付いた血が俺の服や頬についた。ベトベト、くちゅくちゅと生々しくその血液は俺にこびり付き、血の跡を俺に刻み込んだ。


 もうどうしよう、どうしたらいいんだ、今の俺には先に進む以外やることが思いつかない。でもその足もう動かせない、何かやらないと、何かやらなければ、それなのに何も思いつかない、何もできない。

 もうどうしよう、不安だ、不安だ、イライラする、何もかもイライラする、どうして俺がこんな目に、ふざけんな、俺は何もやってない、それなのになんでいつも俺ばっかり『こんな目』に合わなきゃいけない。


「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけてんじゃねぇよ‼ 」


 込み上げてきた怒りを拳に込めて床にたたきつけた。ジクジクと痛みが拳に響く。それに加え床は相変わらずベタベタだった。

 手を見ると、木炭の汚れに加えて赤の汚れが加わっている。ああ、汚いな。

『汚い』という言葉で、優里奈からハンカチを渡されていたことを思い出した。ああ、あれで拭けば……ハンカチをポケットから取り出して広げる。可愛らしい兎の形の刺繍が端にしてあった。とても可愛らしい。愛らしい。

 俺はハンカチをたたみなおして再びポケットへ仕舞った。こんなに綺麗で可愛らしいハンカチでは、木炭と血を拭けない。


 思い出す優里奈の顔。頭を撫でた時の髪の柔らかさ、体温。上から見ると耳が赤くなっているのが丸見えだった。優里奈は内気で控えめだが、本当は活発で素直な子だと思っている。彼女は知らないだろうが、今日だって美術室に来るまでの道のりをスキップで楽しみながら来ていたのだろう。廊下の足音で丸わかりだった。

 俺はそんな彼女が好きだ。顔も勿論かわいいし、スタイルだっていい肉付きでフワフワと柔らかそうで好きだ。足も長くて身長は小さめで、胸だって大きくて……胸?何言ってるこんな時に。か、髪はふわふわで、目も大きくて輝いていて……とても優しくていい子だ。


「……優里奈」


 頭を掻きながらうつむいた。

 彼女は俺にとっては実に勿体ない、本当にいい子だ。

 俺はすぐ状況に苛立って、不貞腐れ周りにあたる癖がある。感情が上手くコントロールできないのだ。その癖は他人にとって良いものではない。実際、つい先月まで俺はバスケットボール部でバリバリスタメンはっていたのにも関わらず、この癖のせいでチームにいられなくなって、美術部に籍を移したのだ。

 絵を描くのはそんなにうまくないし、興味もさほどない。だが、俺以外に部員が一人しかいない静かな美術部は、余計な情報も少なく俺の苛立ちも抑えてくれた。時間が経つにつれ絵を描くことそのものが楽しくなって、部活の時間が楽しくなった。


 そんな楽しい日々を送っていると、突然告白された。

 優里奈本人じゃない、優里奈のおせっかいなお友達にだ。

 本人の前で本人の代わりに告白してあげるとは、おせっかいを通り越して不気味に思えてくる話なのだが、お友達はともかく、その場にいた優里奈の顔は真剣で、俺はその告白に同意した。

 優里奈はよくしてくれた。時間があれば様子を見に来てくれて、差し入れもたまに持ってきてくれる。当時はバスケットボール部から離れて、同級生の中では腫れもののような扱いを受けていた俺にとっては、本当に贅沢な時間だった。


 どうして彼女を見失ってしまったのか、何処に居る、早く会いたい。早く……。


「け、けん……ト」


 はっとして顔をあげた。


「ゆ、優里奈? 」


 優里奈の声だった。優里奈の声だ。

 俺は立ち上がって左右を見渡した。先の見えない廊下の風景は変わっていない。そこに彼女の姿は見えなかった。


「優里奈! ここだ! 俺はここだ! 優里奈‼ 」


 片方の暗闇から、ペタペタと上靴の足音が鳴った。

 優里奈がこちらに近づいてきている。


「けん、ケ、けん…ト」


 ゆっくりと響く足音。やがて暗闇から優里奈が現れた。

 少しうつむいてふらふらとしているが、それは確かに優里奈だった。


「優里奈! よかった……無事で……」


 俺は両手を広げて優里奈を抱きしめた。


「ケ……んと、け……ント……ケ……」


 ぎゅっと抱きしめる。もう二度と離さないように……。


「優里奈、なんか、濡れてるな……どこに行ってたんだ? 」


 俺は抱きしめたまま優里奈の顔を覗き込んだ。

 フワフワの髪の毛の隙間から、優里奈の顔が見える。

 優里奈の綺麗な目、そう、綺麗な目。



 目はどこにもなかった。

 本来眼球が収まっているはずの目には、暗闇だけがあった。


「……ゆり、な」

「けん、と、ケ、ケン、ゲンドオオオオオオオオオオオ‼ 」


 目のない優里奈は、喉がつぶれたような声をあげて口を大きく開いた。その大きく開けた口は人間の限界を超え、バキバキと音を立て、顎の筋肉が露出する。


「うわああああああああああ‼ 」


 豹変した彼女だった何かは、俺の肩に深く噛みつきそのまま肩を食いちぎっていった。

 俺はそのまま床に倒れこんで這いつくばった。肉がごっそり無くなった肩を抑えて、必死に這いつくばる。


―――こんな事ってあるのか……‼ 優里奈が、優里奈が化け物に……


 優里奈のかわいらしい顔が俺の頭の中で崩壊していく。

 俺のせいだ、俺がこんな得体のしれない場所で優里奈を一人にしたから、俺があの時優里奈を見失わなければ……俺が、歩くのを辞めなければ、俺が、俺が……‼

目頭が熱くなってくる。涙が溜まって、ついにぼたりぼたりと頬を伝って雫が落ちていった。

 これは恐怖の涙か、痛みの涙か、それとも優里奈を守れなかった後悔の涙か。

 どちらにしたってもう遅い、時間は巻き戻せないし一度行った選択をやり直す事なんてできない。今はただ、これが現実ではなく夢であることを祈る事しかできない。

ああ、俺はなんて無力なんだろう、なんて情けないんだろう、心の底から感じる。


 涙で歪んだ視界の端に、肉を食いちぎられた肩が映りこむ。痛みよりも焼かれるような熱さを感じるその肩は、俺の意思のとおりには動いてくれなくなっていた。だらんと投げ出された俺の片腕、それに優里奈はまるで骨付きの肉をほおばるかのようにガブリと噛みついた。

 その光景が視界に入ってやっと俺は今食われていると認識する。かぶりつかれた腕を取り戻そうとうつ伏せだった体を捻る。だが体を捻じったと同時に優里奈が俺の上に馬乗りになった。完全に床に固定され、その光景は肉食獣に狩られた草食動物のようだ。


「ゆ、ゆり……ゆり、なっ‼ 頼む、優里奈っ、しょ、正気に――」


 正気に戻ってくれ、そんな言葉が喉から流れでそうになり、俺は飲み込んだ。

 正気? 目も無ければ顎の筋肉が見えるくらいに口を開け、俺を貪る優里奈が果たして正気などに戻るだろうか。いや、今の優里奈は正気なのだ、化け物として正気なのだ。ということはどういうことか、俺は優里奈を見失って、その間に優里奈は化け物になって帰ってきた、帰ってきた? 帰って来ていない、今日俺にハンカチを渡してくれた優里奈は、この手に触れた優里奈は――もう居ない。


 そう考え付くと、あんなに熱かった目頭が急に冷えた。零していた涙も止まり、乾ききっていない涙が伝った痕が頬に残っている。涙で歪んでいた視界も腫れ、視線を腕へ移すと、もうだいぶ肉が喰われて骨が見えていた。


 大きく息を吸って吐いた。体に入れていた力を抜いた。抑えていた肩から手を離した。俺は大の字になって、優里奈にされるがままになる。

 そうしたら楽になった。喰われている部位は熱いけれど、痛みは感じないのだ。馬乗りになった優里奈からは体温は感じない、それでも、一生懸命に俺の腕の肉にかぶりつく優里奈の姿が――


 愛おしく思えた。


「……ゆっくり食べろよ、俺は逃げないから」


 優里奈は構わず腕に食らいついている。ぐちゃぐちゃという咀嚼音。でも心なしかペースが落ちた気がする。一気に食らって喉にでも詰まらせたのだろうか、そう思うと少し笑えてくる。


 やがて咀嚼音は、骨を砕くような、重い音に変わる。ボリボリ、バキバキと俺の腕の骨を優里奈は食べている。骨の髄真まで召し上がってくれるようだ。

 熱さで分からなかったが、俺は大分出血をしていたらしい。ぽやぽやと視界が曇ってきて、頭がボーっとしてきた。そろそろ意識を失って、そのまま優里奈に命まで頂かれるだろう。ならば意識を失う前にと、俺は無事な方の腕を動かして、優里奈の頭に触れた。

ああ、まだちゃんと優里奈の髪はふわふわで、頭の形も変わっていなかった。


「……ごめん」


 意識がもうろうとして、声がはっきりと出せない。息が漏れている音がする。

 それでもきちんと言わなければならない、優里奈に、ちゃんと伝えなければならない。


「俺が情けないせいで、お前のこと、化け物に、しちまった。俺がお前を……」


 死なせてしまったんだ。


 乾いたはずの涙がまたあふれた。優里奈はきっともう死んでいるんだ、いま俺を食っている優里奈は、優里奈の体を乗っ取った化け物なんだ、だから、俺はもう優里奈にはこの言葉は伝えられない。お前のいない体にしか伝えられないことを、どうか許して欲しい。

 涙がまた頬を伝って、雫が床に落ちていく。喉が震えて息が苦しくなってくる。朦朧とした意識の中、俺は息を吸った。


「優里奈、俺の最初で最後の彼女になってくれてありがとう」

「……俺、俺さ……俺は、お前を――」


 お前の綺麗な瞳を、そのフワフワとした髪を、温かいお前の笑顔を――


「描きたかったなぁ……」





「け、ケン……けん、と、す」


コツン――


 床に倒れた俺の頭のてっぺんに、何か重いものが置かれたような振動が床を通して伝わってきた。

 俺は頭を、振動が伝わってきた方向へ無意識に向けていた。視界に映ったのは何か金属…いや、刃物…? きらりと光りが通りそうなくらいに鋭いそれは、刃だ。もう少し視線を上にやると、それには木製の長い取っ手が付いていて、『誰か』が握っている。ああ、コレは『斧』という道具だ……そう脳内で認識ができたタイミングで、その斧は床から離れた。


ブンッ


風を切る音。


ぐちゃり


肉を斬る音。


「アアアアアアアアア!!」


 これは……優里奈の悲鳴。


 離しかけていた意識が一気に戻ってくる。気が付くと、俺にのしかかっていたはずの優里奈が俺から離れて、床でのたうち回っていた。

 訳も分からず、俺はただ茫然とのたうち回る優里奈を見つめる。すると俺の横を『誰か』が通り抜けて優里奈の方へと近づいて行った。その『誰か』は『斧』を手に提げている。

 『誰か』は斧を振り上げ、優里奈の頭目掛けて振り下ろした。「ぎゃ」という優里奈の短い悲鳴、だがまだ生きている…優里奈はガクガクと体を痙攣させながらも立ち上がろうとした。そこへ容赦なく脳天へ斧は振り下ろされる。優里奈は頭から床に叩きつけられた。そのまま間をあけず『誰か』は優里奈の背中を踏みつけ、床に固定する。先ほどから何度も刃を打ち付けられた優里奈の頭は割れて、ボコボコになっている。そこへ、とどめだと言わんばかりに『誰か』は斧を振り下ろした――


 完全に動かなくなった優里奈から、『誰か』は足をどけ、しゃがみ込む。そして、無言で手のひらを合わせてしばらくそのまま動かなかった。やがて『誰か』は合わせていた手を離して立ち上がり、斧を拾ってこちらに振り返った。


「お前……」


 『誰か』は学生服を着ていた。俺と同じ学生服だ。

 『誰か』は眼鏡をかけていた。そう、俺が初めて会ったときからメガネはすでにかけていた。

 『誰か』はさらさらとした黒髪をしている。俺とは違ってさっぱりとした印象だ。

 『誰か』は眼鏡と少し長い前髪の奥に、光のない深紅の瞳を隠していた。


「彼女さんを救えず申し訳ありませんでした。でも、あなたは無事でよかったですね」


 『誰か』は、眼鏡をクイっとあげてひどく落ち着いた声でそう言った。








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