第2話 縄張

 帰りの電車は、戦い疲れたサラリーマンの匂いが蔓延していた。誰もが目的を失い、毎日を生きることに疲れている。



 それにしても、知らないうちに歳をとったもんだ……。電車の窓ガラスに映る自分の姿をみて、花城はそう思った。


 もう、今年で厄年。童顔と言われた顔にはその面影はなく、かわりに深いシワが刻み込まれている。幸いにも、ハゲてはないが、髪は白髪が目立つようになった。


 これは、本当に俺の顔なのだろうか…。


 これまでに何度も訪れた転職の機会を逃した結果、良くも悪くも今の会社では中途半端なポジションに居座っている。それでも、世間一般では一流企業の部類には滑り込み、社会的な地位はそれなりにあるという自負はある。


 しかし、毎日、同じ時間、同じ電車に乗るという決められた人生。私はそのレールを降りることも許されず、昔に夢描いた成長曲線は、急停車してしまった。


 自宅の最寄り駅まで、あと10駅。背伸びをして郊外に買ったマンションまでの道のりはまだまだ遠い。もともとは、田舎の出身で、何年たっても満員電車には慣れない。ましてや、電車が数分毎にくるにもかかわらず、猛ダッシュする都会人の気持ちはわからない。


 そんなつまらない人生で終えるはずだったが、一筋の光明が差した。昨年、こんなつまらない私にも息子が生まれたのだ。


 名前は、光り輝く人生を歩んでほしいと願い、「光輝」と名付けた。


 妻とは大学の同窓会で再会し、なんやかんやと勢いで結婚した。結婚生活10年間、なかなか子供に恵まれなかった。夫婦のなかで、そろそろ子供を諦めようとした時に、第一子が生まれた。


 もうすぐ、光輝は1歳になる。歳をとった時の我が子はかわいいというが、不妊治療で苦労した分、子供への愛情がとめどなく溢れてくる。冷え切った私の身体から、そのような温かい感情が湧き上がってくることに、自分自身が一番驚いている。その子に会うために、帰るようなもんだ。



 電車内の無機質に流れる電子広告が、発毛を促す育毛剤を宣伝するものから、パステルカラーのキャラクター達がダンスする華やかなものへと変わった。


 リーダー格であるキャラクターが、「赤ちゃんから始める英会話」を懸命にセールスしている。リーダー格は、今も昔もレッド。ノルマ達成に必死だ。


 隣の乗客にぶつからないよう気遣いをしながら、ポケットからスマホを取り出した。スマホで検索した画面のなかでも、リーダー格であるレッドが「体験無料だよーー!!」という甘い口説き文句で囁いている。さすが、レッド、見事な営業力。


 息子には、自分が不甲斐ないぶん、英才教育をすることに決めている。詰めこみでもスパルタ教育でもなんでもやってやる。


 よし! 家に帰ったら、勇気を出して、妻に相談しよう。それが、一番の障害なのだが…


 停車したターミナル駅で、さらに乗客が乗り込んできた。接続する路線で人身事故があったらしい。あっという間に、人間の大洪水によって電車内の中央部分まで押し出された。


 最近は、真面目なものがバカを見る時代である。綺麗なお姉さんが近くにいたため、痴漢に間違われると困るので、両手をとっさに上げると、我ながら変な格好になってしまった……。


「おっさん、ふざんけんな!!」


 大洪水のなかで、怒鳴り声が聞こえた。その大きな声の標的が自分かと思い、咄嗟に身構える。どうやら、違ったようだ。


 最初から電車に乗っていたのは、サファリハットを深くかぶった年齢不詳のおっさん。その顔は、輪郭が四角くて、眉が太くて目はぱっちりとした二重まぶた、唇が厚い。

 いまの駅から乗り込んできたのが、金髪の若者。その顔は、輪郭が丸く、眉は細くて目は切れ長の一重まぶた、鼻は細く、唇も薄いのが特徴的だ。こいつが、混乱の元凶だ。


 そんな対照的なビジュアルの二人が、満員電車という狭い世界でもめ始めた。


「おっさん、ぶつかっておいて、謝れよ。こんなに混んでいるのに邪魔なんだよ!! お前、顔も気持ち悪いんだよ」


「すみません。すみません。やめてください……」


 おっさんの何が入ってるかわからない大きなリュックが邪魔だったらしい。おっさんは、下をむいて嵐がやむのを待ってる。

 カマキリは、後方から大きな鎌をフックし、獲物を身動き出来なくさせてから体節の継ぎ目に噛み付いてゆっくり仕留めるという。


 周りの乗客は、まるで二人がいないものとして存在を消して放置している。それよりも、この息苦しいところから、早く脱出したいと考えているのだろう。私もその一人だ。静寂の電車のなかで、カマキリの鳴き声が響き渡る。


「次の駅で降りろ。キモい顔殴ってやる!!」


 しかし、おっさんは降りようとはしなかった。はやく、降りてくれ……と乗客は全員思った。


 おっさんは、恐怖で怯えているのだろうか……。身体が小刻みに揺れている。おっさんから絞り出すかのように、震えた声がもれる。


「イ・・・マハヤミ イマニモロケセ・・・」


 まわりの乗客どころか、狩りの最中であるカマキリにも聞こえていないだろう。私には、おっさんが放ったその呪文のようなものがはっきり聞こえた。このおっさん、大丈夫か。それとも、オタクなのか? 気持ちわる……。


「なに、ブツブツ言ってんだ!!ほんと、気持ち悪いやつだな。ぶっ殺すぞ……」


 それはカマキリに同意する。はっきりとは聞こえなくなったが、おっさんはブツブツとなにかを呟いている。下をむいているため、彫りの深い顔色、表情は、こちらからは見えなかった。

 カマキリは、頭が弱くボキャブラリーが足りないのか、ずっと、「ぶっ殺すぞ…」としか言わなくなった。


 そんな不毛な膠着状態が続く中、二駅が続いた。2人の目的地は、一体どこなんだろうか? この不毛な闘いのゴール地点も含めて。


 痺れをきらしたカマキリが、おっさんをつかんで、駅から降りようとした。


「しかとしやがって、この駅で降りろ!! 思いっきり、ぶん殴ってやる!!」

とカマキリがいった。


「イマハヤミ ……イマハヤミ……」


 また、おっさんがなにかをブツクサとつぶやいた。おっさんは、最初は降りるのを嫌がり、体を横に振って抵抗していたが、最終的にはカマキリに従い、駅を降りようとした。

 最後の抵抗の反動で、私の肩におっさんのリュックがぶつかった。なにか硬いものが入ってたようで、私に肩の痛みという余韻を残して、おっさんとカマキリは消えていった。


 関心がない素振りを見せていた周りの乗客もどうなることかと固唾を飲んで、二人の様子をみていた。もちろん、助ける人も声をかけるような物好きは誰もいない。


 ホームの人混みの隙間から、二人の様子がちょっとだけ見えた。カマキリが殴りかかろうと鎌を振り上げたまさにそのとき、電車が走り出した。エンジ色のサファリハットが飛ぶ。カマキリが鎌を切りつけたのだ。


「あっ………」


 山手線5号車の乗客全員が、流れ行く景色のなか、昆虫の戦いを目線で追っていた。


 昔の正義感があった自分ならば、それとも絡まれているのが若い綺麗な女性ならば、助けに行ったのだろうか。

 いや、今も昔もなにもしなかっただろう。そもそも、私は、おっさんのような狩られる部類なのか、カマキリの狩る部類なのだろうかと。  


 そんなことをぼんやり考えていたら、緊急停車した。となりの白いマスクをした新たなおっさんが、ぶつかってきた。携帯のゲームに夢中で、謝りもしない。


「お客様に連絡します。先程の停車した駅で緊急停止ボタンが押されました。安全の確認が取れるまでお待ちください」


 いきなりの急停車にもかかわらず、誰も文句も言わずに、静かに待っている。さすがに、規律の正しい国民性だ。待っている間、電車の外にあるビルの壁面広告がふいに目に入った。ライトアップをされて、文字が浮き出でいる。


 どこか、神々しい光に包まれて、柔らかい誘い文句が浮かび上がる。


「将来のリスクを発見。あなたの設計図を教えます。遺伝子検査へようこそ!!」


 遺伝子検査……なにがわかるのだろうか?



 先程の駅で、かなりの乗客が降りたので、自分の縄張りはなんとか確保できた。しばらく電車も動きそうになかったので、スマホで遺伝子検査会社のHPを開いてみる。


★ 遺伝子検査でわかること ★

① 将来、起こり得る疾患リスク

② 美容やダイエットに関する項目

③ 祖先のルーツも判定


 最先端技術とはいえ、こんなこともわかるのかと感心した。HPの最後にこう示されていた。


「太古からの祖先から、未来の子孫を守るために!!」


 たしかに、そのとおりだ。有り難いことに守るべき家族も子供もできた。ただ、子供が成人する一番金がかかる頃には、妻も含めてもう還暦だ。今の会社には、私の席はあるのだろうか? 国民の生活は、この国の年金は大丈夫なのだろうか? 頼むぞ。未来ある若者たち。頼むからしっかり働いてくれ!!


 そんな私も、ついに会社の健康診断でひかかって、二次検診も行かなくてはいけない。腹も順調にでてる。メタボまっしぐらだ。


 そう考えると、今後の人生が急に暗雲が立ち込め、不安になってきた。


 静寂のなかで、車内アナウンスが流れた。


「大変長らくお待たせしました。前の停車駅で、お客様同士のトラブルがあった模様です。安全確認がとれましたので、まもなく発車します」


 なるほど、あいつらか。と5号車全員が心でつぶやいた。


 つまり、おっさんの安全確認がとれたということだ。よかった、よかった。


 しばらくして、最寄り駅、いつもの停車位置で、電車から降りた。まとわりつく、梅雨の空気に、一斉に汗が噴き出した。


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