2-8.ハニーポッドの脅威

 夕方、修一郎の親父さんから電話がかかってきた。

 

 どうも『緊急で相談したい』という事で、銀座のバーに呼び出された。

 深刻そうな話なので、クリスと美奈ちゃんと一緒に行く。


 銀座の煌びやかな夜景の中を、キョロキョロしながら楽しそうに歩く美奈ちゃん。


「何の用かしらね? もしかして騙してたのがバレた……とか?」

 ちょっといたずらっ子の表情を浮かべて俺を見る。


 俺は、

「いや、美奈取締役の態度が悪いってクレームだと思うよ」

 そう言ってニヤッと笑った。


 美奈ちゃんはムッとして膨れると、バシッと俺の背中を叩いた。



      ◇



 バーに着くと、親父さんと修一郎がすでに来ていた。

「おー、神崎君! 待ってたよ!」

 親父さんが手を上げて呼ぶ。


 取り急ぎ飲み物を頼むと、親父さんは深刻そうな声で話し始めた。

「神崎君、天安グループは知っとるかね?」


 なるほど、乗っ取りの件らしい。


「もちろん知ってますよ。まぁ修一郎君の方が、良くご存じだと思いますが」

「え? 修一郎、お前何か知ってるのか?」

「天安グループ? 何それ?」

 ポカンと間抜けな顔をしながら答える修一郎。


「お前が、うちの会社の株を、70億円で売ろうとしてた先だよ」

 俺はちょっと棘のある声で言う。


 親父さんはビックリして、

「シュウ! お前何してくれてんだ!」と、叱りつけた。


「え? だって70億円だよ! 70億円! 欲しいじゃん……」

「か―――――っ! お前は馬鹿か! お前が金に釣られてホイホイ動くから、敵さんが喜んで策を打ってきてるんだぞ!」

 こぶしでテーブルをガンと叩き、怒る親父さん。脳の血管が切れそうである。


「で、天安グループが何か言ってきたんですか?」

 親子げんかになると長そうなので、俺が割って入る。


 親父さんはフーッと大きく息をつくと言った。

「うちが持ってる、Deep Childへの出資契約の権利を買いたいそうだ。いや、もちろん断ったよ。そしたら敵対的TOBを仕掛けてきやがった」

 親父さんは憎しみをあらわにして歯を食いしばった。

 俺は仰天した。

「え? 太陽興産ごと買収しちゃおう、という事ですか? 1000億円はかかりますよ?」

 親会社ごと丸々買収とはとんでもない荒業だ。


「どうも敵さんは、金に糸目をつけないらしい。何千億円でもぶち込むって言ってきやがった」

 Deep Childの買収に数千億円!? どうしてしまったんだ天安グループの人達は……。チャイナマネー恐るべし……。


「マーカスが居ると言っても、ただの零細AIベンチャーに数千億円は異常ですね。特に対外的には、まだ何の成果も出てない事になっているのに」

「ワシの所だって、Deep Childとの話は、極一部のメンバーにしか話しておらんよ」


 チラッと修一郎を見ると、目が泳いでいる。


「お前か! 修一郎!」

 俺は修一郎をビシッと指さし、睨みつけた。


「い、いや、僕だって機密は何も話してないよ!」

「誰に何話したか、言ってみろ!」

「冴子さんにDeep Childがどういう会社か、というのを簡単に紹介したくらいだよ。それも具体的な活動については、ちゃんと伏せてるし!」


 どうも何か怪しい……。


 修一郎をじーっと見てると、何か違和感がある。


「お前、そのスマホどうした?」

 裏側も画面になってる、異常に先進的なスマホを持ってる修一郎に、突っ込んだ。


「え? これカッコいいでしょ? 冴子さんにプレゼントでもらったんだ」


 俺はそれをすかさずひったくると、クリスに渡した。


 クリスの手の中で、スマホはメキメキと音を立てて握りつぶされ、最後にバチバチッと音を立てて死んだ。

 プシューっと煙が上がる。


「うわっ! 何すんだよー!」

 修一郎が立ち上がって抗議する。


「盗聴器だ」

 俺がぶっきらぼうに言うと、


「え?」

 予想外の指摘に修一郎は固まった。


 スマホを盗聴器にするのは中国系スパイの常とう手段なのだ。

 事前に注意喚起しておかなかったのは、俺の落ち度である。やられた……。


 俺は頭を抱えながら言った。

「このスマホが、天安グループにずっと音声を送っていた……」

「えっ? えっ? 全部聞かれてたの?」

「そうだ。音声だけでなくメールもチャットも全部だ。うちの会社の情報はこのスマホから全部漏れていた」

 俺は顔を上げ、ムッとした表情で修一郎を睨む。


「そんな……。冴ちゃんはスパイ……だったって事?」

「ハニーポッドだな。お前、あの女に利用されたんだ」

「いや、冴ちゃんはそんな娘じゃないよ! 証拠を見せてやる!」


 修一郎は、古い自分のスマホを出して電話をかけた。

 しかし……延々と呼び出し音が鳴るばかりである。


 青い顔をしてメッセンジャーを使おうとするが……


「あれ? 冴ちゃんのアカウントが……無い……」

 愕然がくぜんとする修一郎。


「今頃、中国行きの飛行機に乗ろうと、空港に移動中だろう」

 俺は腹立ちまぎれに追い打ちをかける。


「……。冴ちゃん……」

 すっかり虚脱してしまった修一郎に、美奈ちゃんがおしぼりを投げつける。


「シュウちゃん、不潔! 最低!」


 親父さんもそんな修一郎を見て、

「シュウちゃん、お前、女スパイにやられたのか……情けない。育て方を間違えたよ……」

 と、うなだれてしまった。


 まだ若いから、美人にぐいぐい来られたら弱いだろう。敵ながら、天安の手際の良さに少し感心してしまった。

 

「お待たせしました、ビールです」

 バーテンダーがビールグラスを並べていく。


 俺はひとまず落ち着こうと、ビールをぐっと呷った。爽やかなのど越しの後、甘く高貴な香りが鼻に抜けていく。


『あぁ、ビールはいいな……』

 俺は目を瞑り、しばらくその余韻に浸った。


『さて、どうしたものか……』


 多分、定期的に親父さんに提出してるクリスのメモ、あれが漏れたのだろう。扱うべき商材や取引企業、社員の評価などが克明に書かれた神のメモの信頼性を調査すれば、その精度の高さが異常な事は誰でも気がついてしまう。使う人が使えばそれこそ何兆円もの価値を生めると分かってしまったのだろう。本気になるのは当たり前だ。これは深刻な情報漏洩事件だ。


 さて……これは本格的な危機になってきた。策を練らないと……。


 俺はみんなを見回して、言った。


「天安グループのやり口と攻め方は分かった。どうするか、だな。天安グループの過去のM&Aの経緯を見たところ、買収した先は徹底した天安化が施される。多分、今の様な自由な雰囲気での開発は許されないだろう。だから天安グループの傘下に入るのは避けたい」


 それを聞いた美奈ちゃんが気楽に返す。

「誰も株売らなきゃ、乗っ取られないんだよね?」

「でも、数千億円単位でガンガン攻められたら、いつかは屈しちゃうよね。美奈ちゃんにもどんどんイケメンスパイが接触してくるよ」

「うわ~!? でも、ちょっと……そういう目にあってみたいかも!?」

 なんだかとても嬉しそうな美奈ちゃん。


 冗談はともかく、太陽興産が落とされると、うちとしても、株の過半数が天安グループに取られてしまうので極めてまずい。

 とは言え、天安グループは我々の価値に気づいてしまったので、多少の対抗措置をしたところで、手は緩めないだろう。

 やはり、トップに買収中止を決断してもらう以外ない。


 もはや神頼み以外ない。

「クリス、天安グループのトップに、買収を思いとどまらせる事、できるかな?」


 クリスはしばらく目を瞑って思案していたが――――

「…。やってみよう」


 そう言ってニヤッと笑った。


「では、こないだのエージェントに連絡してみるよ」


 俺は、先日貰った山崎の名刺を取り出し、電話をかけた。


「神崎です、こんばんは。……。そうですね、冴子さんにはやられましたよ。……。いや、まだ売るとは決めてませんよ。王董事長と直接話したいんですけど。はい……。来週水曜日の19時、分かりました。はい」

 

「何だって?」

 美奈ちゃんが身を乗り出してくる。

 

「丁度来週、天安グループのトップ、王董事長が日本に来るんだって。その際に時間を取ってくれるってさ」

「ふーん、そこでお断りするって事?」

「普通に断って聞くような相手ではないからね、そこはクリスと相談」

 クリスは微笑みながら、うなずいている。


 親父さんは

「神崎君、頼んだよ! 太陽興産はワシの子供同然、乗っ取られるのは絶対避けたいんだ」

 そう言って、両手で俺の手を握ってくる。


「全力で対処します」

 俺はそう言って親父さんの手を握り返して、ニッコリと笑った。

 天安には、神のプロジェクトにちょっかいを出した報いを、受けてもらうしかない。


 修一郎はというと、グッタリとうなだれたままだ。


「元気出せよ、いい思いしたんだろ?」

 俺はそう言って修一郎の肩をパンパンと叩いた。


 すると、修一郎は、俺の手を振り払って言った。

「冴ちゃんは何度も『愛してる』って言ってくれたんだ……。何かの間違いなんだ!」

『愛?』

 俺は心臓がキュッとして冷や汗が流れてきた。

 愛した人に捨てられる恐怖、トラウマが口を開けたのだ。

 心の柔らかい所を、『愛』を装ったものが切り裂く。その恐るべき残虐性は、想像しただけで目の前が揺れるくらいのインパクトを持って俺を襲う。


 俺はビールを一気に飲み干し、何とか心の平静を取り戻すべくゆっくりと深呼吸を繰り返した。


 そんな俺の様子を見て、美奈ちゃんはゆっくりと背中をさすってくれる。


 ふぅ~、ふぅ~、俺はゆっくりと深呼吸を繰り返す。


 温かい彼女の手に、心も少しずつほぐれてきた……。


『美奈ちゃんはいい娘だな……』


 俺は美奈ちゃんの方を見て、少し引きつった笑顔で軽くうなずいた。

「ありがとう」


 すると美奈ちゃんはニコッと笑って、後ろを向き、叫んだ。

「マスター! ラフロイグ、ロックで2つ~!」


「え? 2つ?」

 俺が不思議そうに聞くと、美奈ちゃんは、


「あなたと私で乾杯よ! 飲みたくなったでしょ?」

 そう言ってニコッと笑う。


 確かに強いのが欲しい気分だが……、美奈ちゃんもラフロイグとは予想外だった。


「あれ? ラフロイグは臭い、って言ってたじゃん?」

「臭かったんだけど…… なんかまた飲みたくなっちゃった。えへへ」

 毛先を指でクルクルしながら、照れて答える。


 ラフロイグファンがまた一人増えてしまった。

 

 グラスにすっぽり入った丸くて大きな氷、その隙間を満たす琥珀色の液体。

 俺は美奈ちゃんの目を見つめ、カチッとグラスを合わせ、一口含んだ。


 ガツンと来る、パワーあふれるスモーキーな香りが鼻腔を襲う。


「くぅ~!」

 そして、バニラやシナモンにも似た芳醇な香りが追いかけてくる……。

 トラウマが少しずつ癒されていくのを感じる。


 すぐには無理かもしれないが、いつかこのトラウマを超え、愛ある世界へと俺も進んでいくのだ……。


 渋い顔をしてラフロイグと戦っている美奈ちゃんの百面相を見ながら、俺は心が温かくなっていくのを感じていた。

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