アルカーシュの影

「あれ、ブルー。どうしたの?」

 ようやく解放されて、ルークから渡された軽めのワインを受け取ったところで、ブルーのシルフが肩に現れてレイの頬にキスを贈ったのだ。

『お疲れ様。見事な演奏だったな』

 笑ったブルーのシルフに、レイも笑顔でキスを返した。

「さっきは助けてくれてありがとうね。おかげで演奏途中で止まったりしなくてすんだよ」

 照れたように肩を竦めてそう言うレイに、ブルーのシルフも笑って頷く。

『ああ、役に立てたのならよかった。それでさっきの曲なんだがな』

 一瞬目を瞬いて考えた後、先程のメロディーを小さな声で口ずさむ。

「これ?」

『ああ、そうだ。良い曲だったがそれは即興で作った曲では無いのだろう? どこで覚えたのだ?』

 優しい問いに、レイは笑って小さな声で答えた。

「あはは、やっぱりブルーには分かっちゃった? 実はこれ、母さんがいつもお料理をする時に鼻歌で歌っていた曲なんだ。覚えてるか不安だったけど、弾き始めたら手が勝手に動いたみたいで大丈夫だったよ」

 目を細めたブルーのシルフは何度も頷いた後、耳元に口を寄せた。

『もしも誰かに、あの曲を何処で知ったかと聞かれたら、我が歌っていた曲だと言えば良い。お母上の事は言わぬようにな』

 目を瞬くレイに、もう一度大きくブルーのシルフが頷く。

「そっか、母さんの事は迂闊に言わないほうが良いんだね、分かった、じゃあ誰かに聞かれたらブルーが歌ってたのを覚えたって言えばいいね」

 内緒話をするかのように、ワインを飲む振りをしながらグラスを口に近づけて小さな声で話すレイに、ブルーのシルフが笑いを堪えつつ頷いた。

 改めて頬にキスを贈り、肩に座る。



「はあ美味しい。もう一杯頂けますか」

 空になったグラスを上げて執事に合図を送り、今度はいつも飲んでいる貴腐ワインを入れてもらった。

「お疲れ様。素晴らしい演奏だったよ」

 二杯目を飲み終えたところで、声をかけられてまた別のグラスが差し出された。

 そこには、笑顔のゲルハルト公爵が立っていて、とても良い香りのワインを思わず受け取ってしまう。レイが持っていた空のグラスはさりげなく執事が受け取って下がる。

「皆が来てくれて、すごく楽しかったです」

 ワインの香りを楽しみながらの笑顔に公爵も笑顔になる。実は今回の即興曲は、ゲルハルト公爵のご希望だったのだ。

「思った以上に素晴らしい演奏だったよ。だけど後半のあの曲、あれはもしや君の作曲かい?」

 グラスを掲げた公爵の言葉に、レイは誤魔化すように笑う。

「えっと、実はあれはブルーから教えてもらった曲なんです。きっと誰も知らないと思って演奏したんですけど、よく考えたら即興曲じゃあ無いですよね」

「いや、それは構わないよ。そうか、君の竜が知っていた曲だったのか」

 何やら考える様子の公爵に、レイは戸惑うようにして顔を覗き込む。

「いや、実は私の若い頃からの友人の音楽家がね、急に君を紹介して欲しいと頼んで来たんだよ。約束も無しにそんな事を言う人物ではないので驚いて話を聞いてみると、先ほど君が演奏したあの即興曲についてどうしても聞きたい事があると言うんだ。彼と話をしてもらっても構わないだろうか?」

 目を瞬いて、こっそりブルーのシルフを見る。苦笑いしつつ頷いてくれたブルーのシルフに笑いかけて、レイは公爵に笑顔で頷いた。

「僕でお役に立てるなら喜んで、でも、あれが何の曲なのかは僕も知りませんけれどね?」

 実際に知らないのでそう答えると、困ったようにまた少し考えた公爵は小さなため息を吐いて執事に何か指示を出した。

 一礼して下がった執事は、すぐに一人の小柄な男性を連れて戻ってきた。

 タドラよりもまだ小さいであろうその男性は、体も細くてレイとは頭ひとつどころの身長差ではない。



「初めまして。ウィーティスと申します。宮廷音楽家として、主に声楽と古典音楽について研究しています」

 笑顔で差し出された手は、とても柔らかな女性のような手をしていた。

「初めまして、レイルズ・グレアムです」

 笑顔で差し出された手を握り、改めて名乗る。

 その際に膝を曲げて少し屈んだレイを見て、ウィーティスさんは申し訳なさそうに軽く一礼した。

「突然失礼いたしました。もういても立ってもいられず、初めて公爵閣下を頼りました」

 苦笑いするウィーティスさんは、それでも目を輝かせてレイを見上げた。

「実は、先ほどレイルズ様が最後に演奏なさった曲についてお聞きしたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」

 もう我慢出来ないと言わんばかりのその様子にレイは密かに焦っていた。

「えっと、何でしょうか?」

「最後の曲は即興曲だったとのことですが、あの旋律は貴方が作曲なさったのでしょうか?」

「えっと……」

 もう食らいつかんばかりのその様子に、若干腰が引ける。

「こらこら、彼を怯えさせてどうする。いいからちょっとは落ち着け。お前は音楽の事になると、途端に遠慮が無くなるのは相変わらずだなあ」

 見ていたゲルハルト公爵が、ウィーティスさんの襟首を引っ掴むみたいにしてレイの側から引き剥がしてくれた。

「ああ、大変失礼いたしました」

 我に返って慌てて謝るウィーティスさんを見て、レイは思わず吹き出してしまった。

「失礼しました。えっと、実はあの部分は即興ではなくて、僕の竜のブルーが歌っていたのを教えてもらった旋律なんです。歌詞は無くて音だけだったので何となく覚えていたのを弾いたんですけれど、あれがどうかしたんですか」

 無邪気なレイの問いに、ウィーティスさんはいきなり堰を切ったように話し始めた。

「あれは、我々古典音楽の研究家達の間では有名な旋律なのです。あの旋律は、今はもう失われた国であるアルカーシュで、神殿での季節の祭りの際に演奏されていたとされる曲のひとつらしいのです。この部分ですね」

 曲の最初の部分をハミングされてレイも頷く。しかしすぐにウィーティスさんは歌うのを止めてしまった。戸惑うレイに、彼は真剣な顔で頷く。

「我々が知っているのは、今歌った部分だけなのです。それ以外は、失われた旋律と呼ばれ、文字通り楽譜も口伝による伝えも無く、全く未知の部分だったのです。それなのに、それなのに貴方はそれを当然のように演奏なさった。我々が受けた衝撃が如何程のものか決して理解していただけないでしょう。お願いです、もう一度演奏していただきたい。せめて、せめて譜面を取らせてください!」

 縋り付くようなその言葉に、レイは驚きのあまり声も無く固まっている。

 まさか、ここでアルカーシュの星系神殿と繋がるとは思ってもみなかったのだ。



「母さん……」



 聞こえないように口の中で小さな声でそう呟いた直後、レイはふらふらと数歩後ろに下がり、そのまま膝から崩れるように後ろ向きに倒れた。

「危ない!」

 ルークとヴィゴの慌てるような声がすぐ近くで聞こえ、直後にヴィゴの太くて力強い腕が自分を抱えるようにしっかりと支えてくれた。

「ヴィゴ……」

 一瞬だけ目の前が真っ暗になったがすぐに持ち直したレイは、目を閉じて自分を支えてくれたヴィゴの腕に縋り付いたのだった。

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