オルダムへ

 伯爵の屋敷に戻ったレイとルークは、用意された昼食を頂いた。

 ここでも伯爵はレイの隣に座り、これからの時期の畑仕事の大変さについて苦笑いしながら、楽しそうにずっと話をしていた。



「俺達が普段口にしているものって、当たり前だけどそんな風にして誰かが働いて、沢山手を掛けて作ってくれているからこそそこに有るんだよな。改めて聞いてそう思いましたね。ありがとうございます」

 ルークの言葉に、伯爵は嬉しそうにグラスを上げた。

「そう言って頂けるだけで、ここに来て頂いた甲斐もあると言うものですね。まあ、オルダムにいる皆様は、自分達が日々口にしている物がどうやって作られているのかさえ殆ど知らないでしょうからね」

 苦笑いしている伯爵のその言葉に、レイは竜騎士見習いとして紹介された直後に挨拶回りに行った先で、ヴァイデン侯爵のところへ行った時の事を思い出した。

「確かにその通りですね。僕は、竜騎士見習いとして紹介された最初の頃に挨拶に行ったヴァイデン侯爵夫人に、森での生活を聞かれた時に本気で驚いたんです。夫人は、例えば牛乳が牛から出るお乳だって事をご存知なかったし、そのお乳も、ずっと出るのかって質問されて驚きました。僕、最初はその質問の意味が分からなかったんです。まさか、牛乳が何かを知らない人がいたなんて、考えた事も無かったです」

 その言葉に、ルークは自分が燻製肉を知らなかった事を思い出して小さく吹き出した。

 伯爵も、レイの言葉に半ば呆れながらも納得するように頷いた。

「まあ、オルダムの生粋の貴族のご婦人なら、当然そうなるでしょうね。我が家でも、私は繁忙期には皆と一緒に畑に出ますが、さすがに妻や娘達にはやらせませんよ。もちろん彼女達も知識としては様々な事を教えておりますが、実際に手に取った事が無いものも多いですね」

「ここでそうなら、オルダムにいる貴族の方が何も知らないのも当然ですね。僕、ここへ来るまでそんな生活がある事すら……考えた事も無かったです」

「自由開拓民の子供は当然だし、森で住むにしても、確かに、自分でやらなければならない事は幾らでもあったでしょう。それこそ、朝から晩までひたすら休み無く働く日々だったでしょうね」

「そうですね。僕はここへ来て初めて、何もしなくて良い時間というものがあるのを知りました。だけど最初の頃は、今日は休みだって言われても本当に何をしたらいいのか分からなくて、ひたすら部屋で本ばかり読んでいました」

 伯爵の言葉に苦笑いして肩を竦めるレイに、隣でルークが笑いながら頷いている。

「確かに、よく言ってたな。何をしたらいいのか分からないって」

「今でもそうだよ。何もしなくても良いって言われたら、正直言って困ります」

「まあ、それも経験でしょう。当然、オルダムでの生活は今までとは全く違う生活でしょうし、周りの価値観も違います。ですが、下々の苦労を知っていてくれる方が高い地位にいてくださると言うのは、本当にありがたいですね。どうぞ、何もご存知ない方々に、自分達が日々口にしているその食べ物が、どうやって作られているのか、欠片なりとも教えて差し上げてください」

 笑ってもう一度グラスを上げる伯爵に、レイとルークも持っていたグラスを上げた。



「ありがとうございました。じゃあ試作が出来たら連絡してください」

 立ち上がって笑顔でそう言うレイに、伯爵もつられて笑顔になった。



 今まで、竜騎士隊の方々だけで無く様々な方がここに視察に来てくれたが、皆、ここでの苦労を聞いて感心はしてくれてもどこか他人事だった。しかし、今回のレイルズは、本当に真剣にここでの暮らしを知ろうとしてくれ、また実りをもたらしてくれる大地に、心からの感謝と敬意を払ってくれた。

 正直言って伯爵は、このまま帰って欲しく無いくらいにレイルズの事を気に入っていた。




 食事を終えて少し休憩した二人は、庭に出て総出で見送ってくれた伯爵家の人達に挨拶をして、待っていた竜の背に飛び乗った。

「それでは出発致します。お世話をお掛けしました」

「ありがとうございました。これから農作業は大変な時期だけど、どうか皆様、無理しないでください」

 巨大な竜の背の上から、そんな無邪気な事を言ってくれる彼に、伯爵は笑顔で一礼した。

「ありがとうございます、皆に伝えます」

 二頭の竜は、一度大きく翼を広げてから、ゆっくりと上昇していった。

 挨拶するように、屋敷と畑の上をゆっくりと旋回してから、東へ向かって飛び去って行った。

「行ってしまわれたな……」

 小さく呟いた伯爵は、小さくなっていく竜の姿が完全に見えなくなるまで、長い間無言で東の空を見上げていたのだった。




「さて、これで一連のお役目は全て終了だ。それで、初めての巡行の感想は?」

 隣を飛ぶルークの言葉に、レイは眼を輝かせて横を向いた。

「もう、いろんな事が有りすぎて一言でなんて言えません。本当に、本当に勉強になりました」

 素直に眼を輝かせてそんな事を言うレイに、ルークは苦笑いしている。

「それなら、戻ったら好きなだけ報告書を書けば良いよ。マイリーが楽しみにしていたからさ」

「一応、毎日思った事や気になった事は、全部箇条書きだけど書き出してあるので、戻ったらまずはそれの整理をします」

「おお、良いぞ。そうやってどんどん書けばいい。わからない事やまとめられなかったらいつでも相談してくれていいからな」

「はい、お願いします」

 大きな声でそう言うレイの周りでは、ニコスのシルフ達が、出番だとばかりに張り切って大喜びしているのだった。





「そろそろ、グスタム伯爵の所を出発している頃かな」

 休憩室で、ロベリオ達が書き出した報告書の下書きを読みながら、顔も上げずにマイリーがそう言い、隣のソファーで、同じくユージンが書いた報告書の下書きを読んでいたヴィゴは、その言葉に顔を上げた。

「果たして、彼はどんな報告書を書いてくれるだろうな」

「楽しみだよ。ああカウリ、これはそっちの続きだ。まとめておいてくれ」

 そう言って手を伸ばすマイリーに、立ち上がったカウリは机を回って来てマイリーの手から書類の束を受け取った。

「悪いな」

「そんな事で、いちいち気を使わないでください」

 申し訳無さそうなマイリーに当然のようにカウリがそう言い、机の上に散らかった書類を、丁寧に確認しながら並び直し始めた。



 今のマイリーは、車椅子に座っている。

 今日は一日中本部で書類仕事なので、無理して足に負担を掛けない方が良いとのハン先生の指示で、補助具を外して車椅子を使っているのだ。

 レイルズが出発する日の食堂での一件は、密かに兵達の間で噂になり、彼を心配する声が少なく無いのだ。

「確かに車椅子を使っていると足は楽だけど、ちょっとした事が自分で出来ないのは、かなりいらつくな」

「だから、遠慮せずに何でも言ってくださいって言ってるじゃないですか。荷物運びでも、本棚の捜索でもやりますから」

「それを自分でやりたいから苛つくんだよ」

「諦めてください。身体の為です!」

 先程から何度も、このやり取りはもう数える気もないくらいに交わされている。



『ルークです』

『マイリー今よろしいですか?』

 その時、机の上にシルフが現れて座った。

「おお、ご苦労。構わんよ。今、休憩室だ」

 顔を上げたマイリーの言葉に、シルフが笑顔になる。

『今伯爵邸を出発しました』

『夕方までには戻ります』

「了解だ。気をつけてな」

『はいでは後程』

 くるりと回って消えるシルフを見送り、マイリーはヴィゴを見た。

「じゃあ俺は、部屋に戻って補助具を着けてくるよ」

「何を言っとるか。お前は今日は車椅子だと言われただろうが」

 真顔のヴィゴにそう言われてマイリーは困ったようにカウリを見た。

「いや、ルークとレイルズが戻って来るのなら。さすがにこのままでいたら心配かけるだろうが」

「だから何度も言ってるだろうが。身内の前でまで無理をしようとするな。痛みがある時は、遠慮せず車椅子を使え」

「俺もその意見に賛成です。外の一般の兵達に見られるのが嫌なら、出迎えは俺とヴィゴが行きますからここにいてください」

 真顔の二人掛かりで止められたマイリーは、まるでレイルズのように眉を寄せて口を尖らせた。

「別に、無理してるわけじゃないよ。でもまあ……分かったよ。しばらく大人しくしておく事にする」

「俺達が戻ったら、最後はお前にも行ってもらわなければならん。それまで無理はするな」

「了解、じゃあ俺は大人しくしているから、二人の出迎えはよろしく」

 降参とばかりに両手を上げたマイリーは、情けなさそうにそう言って小さなため息を吐いたのだった。

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