静かなる変化の始まり

 気持ち良く昼寝していたレイは、突然湖から飛び出して来たブルーに驚いて飛び起きた。

「どうしたラピス?」

 同じく飛び起きたルークが、ブルーを見て椅子に座ったままそう尋ねる。

 ロベリオ達若竜三人組とカウリも、それぞれ椅子から起き上がって驚いたようにブルーを見ている。

 その時、ルークの膝の上に突然シルフが現れて座った。

『こちらマイリー全員今すぐに戻って来い』

『大至急だ』

 それだけ言って、返事も聞かずにシルフはいなくなってしまった。

 しかしそれを聞いた全員が一斉に立ち上がって走って建物に戻った。レイも遅れずに走った。

 離宮の部屋の中は、ラスティ達と執事達が行き交っていて、慌ただしい雰囲気に包まれていた。



「とにかく、皆様、お着替えをお願いします」

 ラスティに言われて、中に入ってすぐの応接室のような部屋で、皆それぞれに渡された遠征用の竜騎士の服に急いで着替え始めた。

「えっと、何があったの?」

 レイも、用意されていた竜騎士見習いの遠征用の服に着替えながらそう聞くと、突然目の前に現れたブルーのシルフが教えてくれた。

『タガルノの王が死んだぞ』

 その瞬間、ルーク達が全員息を飲んだ。

『しかし、何故かは分からんが、崩壊するはずの結界に変化が無い』

『シルフ達に調べるように言った。何か分かればまた教えてやる』

「結界の崩壊が起こらないのは、ラピスは何故だと思う?」

 着替えながら、真剣な声でルークがそう質問する。

『我の知る限り、タガルノの王が死んだら、正当な王が存在する事により保たれていた結界は崩壊するはずだ。だが、あの国からの、それを示す衝撃波は全く感じられなかった。我がその時国境にいれば何か些細な異変を感じたかも知れんが、さすがにここにいてはそこまで詳しくは分からん』

「どういう事だよ。例の第二王子が玉座に付くんだろう? 奴が何かした可能性は?」

 剣帯を締めながら、ルークはそう呟き顔を上げた。

『と言うか、何か出来るとしたらそいつ以外には有り得ん』

 それだけを言って、少し考えていたブルーのシルフは顔を上げた。

『王が病床に伏していた時点で、既に王位が譲渡されていたとしたら崩壊は最低限で済む。この国ではそのようにして殆どの結界を崩壊させる事無く平和に引き継ぎ守って来た、だが、あの国でそれが出来るだけの精霊使いがいるとは思えん。王は守護竜を失くした時点で精霊魔法を使えなくなっておるからな』

「つまり、逆に言えば、今のタガルノの状態は、我が国のように、穏やかな王位継承が行われたと?」

『それしか考えられん』

「タガルノで王が死ねば、玉座を巡って絶対に内乱になると思っていたんだけどな」

 ルークもそれっきり黙ってしまい、着替えを終えた全員が黙って不安げにそんな彼を見ていた。



「ここで考えても仕方がない。とにかく一旦城へ戻ろう。マイリーが何か掴んでいるかも知れないからな」

 顔を上げたルークにそう言われて頷いた彼らは揃って外に出た。

 驚いた事に、竜達が鞍を乗せて上空で待っていたのだ。出て来た彼らの姿を見て一斉に広い庭に降りて来る。

「早く乗れ。一旦城へ戻るぞ」

 ブルーに言われて、全員が自分の竜に駆け寄った。レイも急いでブルーの側に駆け寄り、腕に乗ってその背に駆け上がった。

 鞍が無いが、気にせずいつもの定位置に跨る。

 ゆっくりと上昇する彼らを出て来た執事達が並んで見送り、ラスティ達は、後片付けを執事達に任せてラプトルを連れて急いで城へ戻った。



 中庭に順番に降りて、とにかく本部に集合する。

 アルス皇子とマイリー、ヴィゴの三人は、既にミスリルの鎧を身に付けていた。

 以前見た時とは違い、全身に細やかな細工を施されたその鎧は、冷たくも美しい輝きを放っていた。

「カウリとレイルズはそのままで良い。お前達はこれに着替えて来い」

 敬礼したルーク達が出て行くのを見て、レイとカウリは無言で顔を見合わせた。

 マイリーが、シルフを呼びルーク達のところへ飛ばした。

「状況を説明するから、着替えながら聞いてくれ。タガルノの王が亡くなった。次の王はナスル王子だ。既に、第一王子は処刑されたらしい」

 顔をしかめたカウリは天井を見た。

「邪魔者はさっさと殺すって……あの国は本当に、なんでもありなんっすね」

 同意するように頷いたマイリーは、言葉を続けた。

「しかし、あの国の王が死ぬ度に起こるはずの結界の崩壊が、今回は全くと言って良いほどに無いそうだ。国境の各砦には監視を続けさせているが、今の所一切変化は見当たらない」



 マイリーは、手にした書類を見ながらさっきのブルーと同じ事を言う。



「それから、誰かさんのおかげでアルカディアの民と連絡が取れた。彼らはタガルノ内部にて城とその周辺で監視を続けているそうだが、彼らも結界の崩壊は確認していないそうだ。あの、時の繭を閉じたと言うキーゼルの樹にも変化は無いそうだから、本当に結界は安定しているのだろう」

 それを聞いて、安心したレイだった。結界が崩壊したら、結界内部で強い技を使ったキーゼルの樹も影響を受けただろう。下手をしたら、時の繭の術が解けて、封じたという黒幕が出て来るかも知れないのだ。



「国王となったナスルが優秀だと言う話は聞いた事がない。王女についても調べたが、華美な装飾と贅沢を好むだけの女性であって、精霊魔法や結界に関する知識があるとは思えない報告ばかりだ。恐らくだが、誰かが彼らに入れ知恵をしている筈だ。そいつが結果としてあの国の結界を守ったわけだな」

 マイリーの言葉に、ブルーのシルフも頷いている。

『アメジストの主よ。一つ確認したいのだが、万一戦いになればレイやこいつは出るのか?』

 自分を指差すシルフを、カウリは黙って眺めていた。

「今回は恐らく戦いにはならないだろうと思われます。だが国境までは彼らも連れて行きます。俺は、戦いには参加しない参謀という役割です。この足も、普段と違って戦場では何があるか分かりません。本当の緊急事態にならない限り俺は前線には出ない予定です。なので彼らには、俺の側でまずは実際の現場を見てもらう事になるでしょうね」

 それを聞いて沈黙していたブルーのシルフはマイリーを見た。

『それならばすまぬが、レイと我は、少し遅れて行っても構わんか?』

 驚いたマイリーだけでなく、アルス皇子とヴィゴもブルーのシルフを見た。

「それはどう言う意味だ?」

 警戒を隠さずマイリーが尋ねる。

 もしも、レイを戦いから遠ざけようとしているのなら、それは竜騎士として絶対に止めなければならない。

 しかし、ブルーのシルフは首を振った。

『今回の事では、我にも分からん事が多過ぎる。知っている可能性があるのは大爺だけだ。彼から話を聞くには、我であってもその場に行かなければならない』

「あ! 確かに大爺だったら何か知っているかも知れないね」

 思わずそう言ったレイは、慌てて口を噤んだ。大爺の事も迂闊に喋ってはいけないと言われたのを思い出したからだ。竜騎士達に大爺の事を話して良いかどうかの判断は、レイにはつかなかった。

「誰だ? その大爺とは」

 マイリーの質問に、レイは困ってブルーのシルフを見た。

『蒼の森に住む大賢者だ。普段は一切外部との接触はせぬが、こう言った異変の際などには、請えば何らかの知識や教えを授けてくれる事があるのだ』

「貴方が言う大賢者? ならば、それは人ではありませんね」

 アルス皇子の言葉に、シルフは無言で頷く。



 それは、もうこれ以上聞くなと言っているに等しい行為だった。



 暫く考えていたが、アルス皇子は頷いてブルーのシルフを見た。

「その大賢者殿との話が終われば、そのまま国境の砦へ来てくれますか」

『了解した。出来るだけ早く行くようにする』

「では、貴方とレイルズは準備が整い次第出発してください。我々も、もう間も無く出ます」

 皇子の言葉に頷いたブルーのシルフがレイの目の前に来た。

『レイ、そんなわけだから今から大爺のところへ行くぞ。準備をして来なさい』

 頷くと、レイは時々ラスティを手伝ってくれる顔見知りの第二部隊の兵士から、遠征用の装備一式を渡された。

「こちらに、追加のカナエ草のお茶とお薬が入っています。それから、こちらの缶には追加の飴が入っていますので、足りなければお食べください」

 頷いたレイは、不意にタキスから貰った紅金剛石のお薬の入った缶を思い出した。

「ちょっと荷物を取って来ます」

 そう言って、急いで自分の部屋に走った。

 自分の机の引き出しから、ミスリルの缶を二つ取り出す。

「えっと、僕が持ってて良いかな?」

『そうだな。何があるか分からん。念の為持っていなさい』

 目の前に現れたブルーのシルフにそう言われて、レイは、以前プレゼントをもらった時に入っていた丁度良さそうな袋にその缶を入れてから、遠征用の鞄の中にそれを入れた。

「じゃあ、行こうブルー」

 鞄を持ったレイは、急いで部屋を出て行った。




 中庭には、既にカウリ以外の全員がミスリルの鎧を装備して立っていた。

 竜達も、ブルー以外は全員がミスリルの鎧を装着している。

 上空で待っているブルーの背には、もういつもの鞍が装着されていた。

「では、先に行くよ。待っているからね」

 アルス皇子にそう言われて、レイは直立して敬礼をした。

 頷いた皇子が、ルビーに駆け寄りその大きな腕に乗り、背中に上がった。全員がそれに続く。

 最後に、遠征用の服を着たカウリが、カルサイトの背中に座ってゆっくりと上がって行った。

 上空で綺麗な編隊を組み、一番後ろにカウリの乗ったカルサイトが位置に付くと、竜達は弾かれたように東に向かって一気に飛び去って行った。

 それを見た城や街中から大歓声が沸き起こり、残されたレイは、祈るような気持ちで彼らと竜達が飛び去って行くのを見送っていた。


 広くなった中庭に、ブルーが降りて来る。

 一つ深呼吸をしたレイも、急いで駆け寄り大きなブルーの背中に登った。

「どうかお気をつけて」

「無事のお帰りをお待ちしております!」

 あちこちから声がかかり、兵士達が一斉にレイに向かって敬礼した。


 彼らは、レイがアルス皇子から直々に命令を受けて、別の重要な要件を任されたのだと聞かされている。

 今回は、未成年であるレイルズは万一戦いになっても作戦には参加しないので、彼が一緒に出撃しなくても、誰も不自然には思わなかったのだ。

 ブルーの背の上から敬礼を返し、レイは手綱を握ってそっとブルーの首を叩いた。

「行こうブルー」

 大きく翼を広げて上昇すると、またしても城から歓声が上がった。



 ゆっくりと上空を旋回してから、ブルーはゆっくりと一旦東へ飛び。高く上昇して地上から見えなくなってから西の蒼の森へと姿を隠して飛んで行ったのだった。




「痛っ」

 水仕事をしていたニーカは、急に痛んだ背中に思わず声を上げた。

「どうしたの? ニーカ。怪我でもしたの?」

 隣で一緒にニーカが洗った食器を拭いていた下働きの女性が、その声に心配そうに振り返った。

 見ると、手を止めたニーカは、床にうずくまるようにしてしゃがみこんでいた。

「誰か、誰か来てください。ニーカが具合が悪いようです」

 慌てるその女性の声を聞きながら、突然襲って来た差し込むような痛みを、ニーカは必死で耐えていた。



 しかし、しばらくすると唐突にその痛みは消えてしまったのだ。



「あれ? 痛くなくなったや」

 そう呟いて恐る恐る立ち上がる。しかし、もうあの痛みはどこにも無かった。



 その時、突然目の前にシルフが現れた。

『ニーカ!大丈夫?』

 慌てて叫ぶ。それは、クロサイトの使いのシルフだったのだ。

「スマイリー、うん大丈夫よ。でも今の何だったのかな? 背中の痣の辺りが急に痛くなったの」

「大丈夫ですか?」

 心配そうに覗き込む、いつも洗い物を一緒にするパムと呼んでいるその女性に、ニーカは笑って顔をあげた。

「はい、平気です。心配かけてごめんなさい。ちょっと前かがみになっていたら、背中の筋を違えちゃったみたいです」

 誤魔化すように笑ってそう言い、態とらしく大きく伸びをしてみせる。それから、心配そうにこっちを見ている厨房の中の人達にも手を振ってから、ニーカは洗い物を再開した。

 クロサイトのシルフは、心配そうにしばらく見ていたが、黙って彼女の右肩に座ってその作業を見守っていた。

 そのシルフは、その日は彼女にずっと張り付いていたのだった。



 彼らの知らないところで、少しずつ様々な物事が動き始めていた。

 だが、まだその全てを知る者は、この世にはいない。

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