【底面人間ポン吉】SFPエッセイ094
いつになっても冬がやってこない。12月に入っても日中は20度前後まで気温が上がり、ぽかぽかと暖かく、というよりむしろ暑く、うっかり冬っぽい服など選ぶと具合を悪くしそうなほどだ。11月の半ばぐらいに「いよいよ寒くなってきたかな」という日が何日が続いたのだが、また暑さが盛り返してきてしまった。「毎年毎年、異常気象だなんていうけれど、そういうのがもう10年も20年も続いているんなら、それがもう平年なんじゃないの?」なんて憎まれ口を叩いていたような人も(わたしのことだ)、さすがにこれはおかしいと認めないわけにいかない。
どうせ反動で「年が明けたら厳寒だった」なんてことになるんだろうけれど、こうして12月も半ばなのに窓を開けて薄着で過ごせるようだと日本は常夏の国になったと言いたくもなる。夜になるとさすがにぐっと冷え込むがそれでも冬の寒さではない。ちょうど過ごしやすい気候という感じだ。むしろ湿気がない分、快適なリゾート地にでもいるような感じだ。いつまでたっても蚊や蠅やゴキブリが活動し続けているのは難儀だが。
こうなると12月だというのに夏の風物があちこちに顔を出し始める。クーラーはさすがに入れないにしても、扇風機は片付けられずにいるばかりか、日中は部屋の空気をかき回している。蚊取り線香に火をつけることもしばしばだ。ビールは相変わらずうまく、熱燗の出番はない。打ち合わせ先にアイスの類を持っていくと喜ばれるし、夜には怪談話が盛り上がる。
底面人間ポン吉の話が出たのは一昨日の夜のことだった。マドリッドのクライアントとの遠隔会議が22時過ぎに終わり、東京のスタッフだけでしばらく雑談をする中で出てきた。最初、底面人間ポン吉という名前を聞いてのみんなの反応は爆笑だった。長い一日を終え、クライアントとの緊張感に満ちたミーティングから解放されてハイな状態だったためでもある。マドリッドの案件は乗り越えるべき難題は見えているが、解決策はまだ見つからないという状態にあって、このところ全員が手探りで答えを探す日々が続いていたのだ。
「なにそれ、怖い話なの? 面白い話なの?」
ウェブデザイナーの越谷があごひげをいじりながら聞いた。それはそうだ。底面人間ポン吉だなんて、およそ怪談風ではない。しかし越谷はうちの会社がウェブデザインに特化し始めた頃に入社したベテランだ。彼がこの話を知らないはずはない。話を知らない営業の平井のためにそんなことを言ったに違いない。
「どうかなあ。聞く人によるかな」話を持ち出した張本人の生麦は、そう考えたのかどうなのか、マグカップを両手で包み込みながら答えた。生麦美代子はこの会社の創設メンバー3人のうちの1人でもある。ポン吉という命名も彼女によるものだ。「これはITバブルの頃の話で、ポン吉は創業メンバーの1人だったの」
「え、うちの会社の話なんですか?」
ネクタイをゆるめて椅子の背にもたれていた営業の平井が身を乗り出した。平井はほぼ1年前に他社から引き抜いたばかりなので、年齢はこの場で最年長だが社内の事情にはまだ通じていなくてもやむを得ない。
生麦が話した内容を要約するとこんな感じになる。初期には通信機器の販売代理店として創業した会社が、レンタルサーバーやプロバイダーなどにも手を出しつつ、片手間に対応していたウェブデザインで業績を伸ばすようになり、いまの会社のスタイルが生まれた、その要になったのがポン吉だった。ポン吉はウェブデザイナーとして優れていただけでなく、次々に現れるテクノロジーにも通じていて、さらにはそういった新しい動向を先取りした画期的な提案までできた。手がけたウェブサイトは単に気の利いたデザインというだけではなく、その会社にとってのビジネスの中核に位置する武器そのものとなった。噂は噂を呼びポン吉にあらゆる負荷がかかるようになり、会社も十分なケアをできなかった。そしてある日ポン吉は出社して来ず、その後住んでいる家も田舎の実家もどこを探しても見つからなかった。
「ブラック企業だったんですね、うち」
「当時はまだその言葉がなかったけど、そうね、ポン吉一人に限ってはブラック企業だった。彼女に全ての負荷がかかってしまっていて、そのことに周りが気付けなかったの」
「彼女? ポン吉って女性なんですか?」
「あれ、言わなかったっけ」
「けど、それがどうして底面人間ポン吉になるんです?」
「それがね」
ポン吉がいなくなったことで、サービス提案型のウェブデザイン会社という路線でようやく成長し始めた会社はいきなり苦境に陥った。幸いなことに複数の案件はすでにポン吉がほぼ仕上げていたから当面はなんとか形になった。けれども新しい案件に応えるためには、ポン吉が一人でやっていた同等なことを実現するために新しく何人もエキスパートを雇う必要があった。時間はかかったが、体制を整え、苦境を乗り越えることができた、と一般には言われている。しかし、実はどうにもならない難題にぶつかったとき、実は問題を解決したのはポン吉だったというのだ。
「見つかったんですか?」
「ある意味ではね。変わり果てた姿で」
「やだなあ。何ですそれ」
「相手を選んで姿を現わすの」
「姿を現わす?」
「いろいろなものの底面に」
「どういうこと?」
「言葉通りよ。そしてひとたびポン吉の言葉を聞いたものは、その言葉に支配されてしまって、言われた通りに行動するしかなくなるのよ」
「呪い、ですか?」
とうとうわたしは割り込むことにした。
「あんたね、創業社長を捕まえて好き放題言うのやめてちょうだい」
越谷と平井の目が泳いだ。誰がしゃべったか探しているのだ。生麦は手元のマグカップを見つめると口をつけコーヒーを飲み始めた。越谷と平井の目が止まった。わたしは構わず続けた。
「マドリッドの件は平井さん、あなたにかかってる。先方の窓口のエドゥアルドさんをサポートして。北アフリカとヨーロッパの融合モデルをつくるんだっていう当初の目的を見失いかけてる。そこを整理してあげなきゃ。越谷くんは平井さんのフィードバックでイントラコムをカスタマイズして、エドゥアルドさんの業務の穴をなくすようにチューニングして」
越谷と平井はあんぐりを口を開けて生麦のマグカップの底面を、つまりわたしを見つめている。
「美代子、今年はただでも暑いんだから熱いコーヒーはやめてって言ったでしょ?」
「だってマグカップの底に出てくると思ってなかったんだもん」
「この状況で他のどこに出ろっていうのよ」
「知らないわよ。わたしは夏でもホット派なんだから仕方ないじゃない」
そんなわたしたちを越谷と平井は呆然と見守っている。生麦はマグカップを傾けたまま言った。
「さあ、あなたたちはポン吉に言われた通りに行動してちょうだい。あなたたちに選ぶ権利はないのよ」
「これが底面人間ポン吉、ですか」
平井が言った。
「その名前、何とかしてよもう。越谷くん、せめてモニターに映るようにできないかしら」
「えっ? おれですか。っていうか社長なんですか? あの、本吉社長? 行方不明の?」
「まあね。いまはもう元社長だけどね。できる? モニターに映すの」
「いや。ってか、無理っす。なんでマグカップの底に映ってるのかわかりませんから」
「使えない人ね」
こうしてわたしは今も重大な局面で会社の経営に関わっているのだ。マドリッドの件が動き出せば、世界が変わる。対立と紛争の構造に一石を投じる。ますます忙しいことになりそうだ。この冬はまだまだ熱くなる。
(「【底面人間ポン吉】」ordered by 山岡 加奈-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・国際紛争などとは一切関係ありません。
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