プロローグB 今はまだ何も知らず

第2話

 芝生の上で大の字になりながら、アエル・サエクルムは息を少しずつ整えていた。


「やっぱり姉さんには、敵わないな」


 そう告げて苦笑いを見せたアエルに対し、すぐ傍で仁王立ちをしながら腕を組んでいた姉のイリスが大きく溜息をつく。


「それで諦めてたら成長はないわよ? 私に敵わなかった理由の一つや二つ、ちゃんと考えてみなさい」


 そんな姉の厳しい言葉にアエルは「でも」と反論しようとしたが、イリスは「でもじゃない!」と声を大きくした。

 大人の男に匹敵する肺活量から発せられたその声はよく通り……余りにも通り過ぎて、女傑として知られる姉も少しばかり周囲を気にして顔を赤くする。

 それからコホンと取り繕うように咳払いをしてから、彼女は更に言葉を続けた。


「これからアエルは父さんについてあちらに行くんだから、こうやって特訓できる機会はもっと減るのよ? 一回も無駄にできないでしょ?」

「でも……私は弱いから。才能もないし」

「そんなことはないわよ。だって、私の特訓に曲がりなりにもついてこれるんだから。そこらの男共よりも何だかんだで才能も根性もあるわ。愚痴は多いけど」


 悪い笑みを浮かべるイリスに、アエルは彼女に気づかれないように息を吐いた。


(こんなだから男っ気がないのよね、姉さんは。美人なのに)

「今何か失礼なこと考えなかった?」

「ぜ、ぜーんぜん」


 勘の鋭い姉に慌てて取り繕う。


「……はあ、まあいいわ」


 少しの間、半眼を向けてきていたイリスだったが、彼女は諦めたようにそう言うと仰向けになったままのアエルの傍に腰を下ろした。


「アエル、貴方に必要なのは色々な知識よ」

「知識?」

「そう。人間には何ができて、何ができないか。自分には何ができて、何ができないか。まずはそれを知る。自分の器を知らない者に成功はないわ」

「でも、自分の器が小さいと知ってしまったら?」

「それならその中でできることを探せばいいわ。そして、できることを組み合わせて工夫すればいい」


 優しい声に姉の顔を見る。

 すると、彼女はいつの世も変わらない空へと視線を向けていた。


「これは何も戦いの話だけじゃないわ」

「どういうこと?」

「いつだって無知な者が馬鹿を見ることになるの。身の程を知らない者、世界を知らない者はいつか愚かな選択をして身を滅ぼすことになる。だって、人は選択によって世界に影響を与えたなら、その責任を負わなければならないのだから。……まあ、子供はその限りじゃないかもだけど」


 正しい選択なら称賛を、誤った選択なら罰を。

 無知な者の選択がどちらになり易いかは、想像に容易いことだ。


「もし世界の全てを知る人がいたら選択を間違えたりしない。まあ、そんな存在は既に人間じゃなくて神様みたいなものだろうけどね」

「……知ることが選択を間違えない方法?」

「間違える可能性を減らす方法、ね。人間に得られる知識はどうしても限界があるから。そして、だからこそ選択を正しいものにするために誰かと議論して最善を模索するのよ。そこんところ、分かる? 友達のいないアエルちゃん?」

「う、うぅ~、姉さんの馬鹿」


 からかいの混じった言葉に思わず頬が膨れる。

 対してイリスは楽しげに笑い、アエルの頭をポンポンと軽く叩くように撫でた。


「……でも、姉さん。もし皆が皆、同じ考えだったらどうするの?」

「そうねえ。確かに同じ文化圏で同じものを学んできたらそうなる可能性もあるわね。まあ、その時は全員同じ過ちを犯して、せーので全員素っ転ぶんじゃない?」

「ええっ!?」


 姉の軽い言葉に驚いて体を起こすと、彼女は少しだけ真剣に再び口を開いた。


「だから、広く知る必要があるの。違う世界の考え方も、他人のあり方も。これも勿論戦いにも通じるわ。相手を知れば対処もし易いってね」


 耳にすれば当たり前のこと。

 だが、アエルの周囲にそんなことを言う人はイリス一人だった。

 両親とも学校の同級生達とも違う考え方だ。

 そして、その事実は彼女が自身の言葉を実践している証拠に他ならない。


「いい? アエル。知らないのなら知りなさい。分からないのなら学びなさい。自分自身を学び、世界を学べば、そこに新しい可能性はあるのだから」


 ……しかし、この時のアエルは、本当にまだ何も知らなかった。

 既に歴史と成り果てた選択と、それが与えた世界への影響も何もかも。

 程なくしてアエルは後悔することになる。

 自分自身の無知を。何より想像力の欠如を。

 アエルは嘆くことになる。

 己の弱さを。望む世界の遠さを。

 そして、アエルは知ることになる。

 この日イリスが告げた言葉の正しさを。自分自身が目指すべき道を。

 しかし、今のアエルは何も知らず、姉の言葉に頷くのみだった。

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