第47話根来寺
忍者からの知らせを受けた秀吉は、柴田勝家の相手を羽柴長秀に任せて、与一郎の救援に向かう事にした。
だが同時に、与一郎から多くの事を学んだ石田佐吉を奉行にして、賤ケ岳の陣地と岐阜城を結ぶ、軍用道路と補給拠点を整備させた。
中国大返しと阿波大返しを再び行えるように、万全の準備をさせた。
本軍三万八千兵を率いて、秀吉と御次公が岐阜に到着した時には、与一郎軍と徳川軍が互いに砦を築いて対峙している状態だった。
徳川軍一万五千に対して、秀吉軍は与一郎の軍も併せれば、五万三千の大軍だった。
普通に戦えば、秀吉が負けるはずのない戦いだった。
だが家康は強かだった。
力を落としたとはいえ、未だに隠然たる勢力を持つ本願寺に、摂津一国を条件に蜂起を催したのだ。
それだけではなく、紀伊・和泉・河内に七十万石に匹敵する領地と影響力を持つ根来寺に、三カ国内の他宗派排斥を認めた上で、大和と伊賀の切り取り勝手を条件に、羽柴家と戦う事を依頼していた。
多くの根来寺坊徒と本願寺門徒が混在していた紀伊だが、今回は羽柴秀吉を斃し、領地を得ることで手を結んだ。
秀吉は和泉岸和田城に中村一氏を入れ、三千兵の直臣を預けた上で、和泉衆に与力させたのだが、南和泉の国衆や地侍は、ほとんど全て根来寺の坊徒であったので、岸和田城には五千兵ほどしかいなかった。
そこに根来寺の坊徒が攻めかかって来たのだ。
坊徒は言っても、全員戦いになれた国衆や地侍に僧兵だから、戦国大名同士の合戦と変わらなかった。
淡路でも地侍が再び兵を起こしたので、仙石秀久は鎮圧に走り回った。
雑賀水軍を始めとした、紀伊の多くの水軍が根来寺に味方し、その指揮は根来寺の旗頭が行った。
一万の僧兵を有する根来寺は、岩室坊、杉坊、泉識坊、閼伽井坊の四軍団に別れ、その下には二十七人衆と呼ばれる旗頭が存在しており、武田家や上杉家に匹敵する精強さを誇っていた。
しかも単に精強なだけではなく、自前の水軍を使って、遠く種子島に鉄砲学びに赴く機動力と積極性を有し、水軍を使って商売までする融通無碍の存在なのだ。
特に代々杉坊を率いる津田監物は、自身で種子島に訪れ、鉄砲を根来寺にもたらし、根来寺を戦国の雄になさしめた傑物だ。
だが津田監物は亡くなってしまっていた。
彼が生きていれば、根来寺も別の判断を下していたかもしれない。
根来寺軍は、一手で岸和田城を囲み、水軍を使って堺を襲い、略奪の限りを尽くした。
それはとても僧の行う所業ではなかった。
そして根来寺の主力軍は、大和を切り取ろうと攻め込んだ。
だが大和には、筒井順慶の一万八千兵がいた。
秀吉は根来寺が蜂起した時の危険考え、抑えの兵として残しておいたのだ。
大和の支配を争って、根来寺と筒井家の激烈な戦いが始まった。
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