1-14 守るべきもの

 強い北風が吹き荒れる夜、「メロス」は、いつもと同じ時間帯に明かりが灯り、店内では、祥次郎と秋音がカクテル用の果物の下ごしらえと、お通しづくりに精を出していた。時計の針が九時近くを指した頃、重いドアがギギギと大きな音を立てて開かれ、黒いコートを着込んだ男性が、靴音を立てて中へと入って来た。


「いらっしゃいませ。支配人さん」

「先ほどは失礼しました。ここは、探偵事務所じゃないんですね?看板を見ても、カクテルバーの名前しかなくて、本当にここでいいのか迷っちゃいましたよ」


 重田は、苦笑いをしながらコートを脱ぎ、店の壁のフックに掛けると、祥次郎の目の前にある椅子に腰かけた。


「紛らわしくてすみませんね。一応、探偵は副業で、こっちが本業なんです」

「あはは、そうなんですか。でも、なかなか雰囲気のあるバーですね」

「かれこれ、三十年やってるものですから」

「ほお、なかなか長い歴史をお持ちなんですね」

「いや、うちはまだ歴史が浅い方なんですけどね」


 やがて重田はメニュー表に目を遣り、少しだけ考え込むと、祥次郎に目配せし、メニュー表を指さした。


「ソルティードッグ、お願いできますか?」

「かしこまりました」


 祥次郎はオーダーを聞くや否や、手際よくカクテルを作ると、重田の前にそっと差し出した。


「おお、こんな早業で出されるんですね。早速いただきます」


 重田は、カクテルを一口ずつ口にし、やがて、ごくごくと音を立て、ピッチを速めて喉に流し込み始めた。


「大丈夫ですか?結構アルコール度高めですよ、このカクテルは。支配人さん、お酒はお嫌いなんじゃなかったでしたっけ?」

 祥次郎は、心配そうに重田を見つめた。


「まあね。でも、色々仕事での辛いことを思い出すと、このお酒と一緒に流し込んでしまいたいという気持ちになるんですよね」

「はあ?」

 祥次郎が首を傾げると、重田はグラスを手でくるくると回しながら、ため息をついた。


「あまりプライベートなことを聞くのは気が引けるんですが、辛いことって、一体何なのでしょうか?」

「自分の部下のことです」

「部下?池沢さんや坂口さんの事?」

「そうなんです。皆さんもご存じと思いますが、池沢がアズレージョ盗難事件の犯人だという噂話を、社員達がみんな信じ込んでいるんです。私は正直、卒倒してしまいまして」

「卒倒?支配人さんはご存じなかったのですか?」

「私は全く知りませんでした。最初聞いた時、本当の話なのか耳を疑いまして。まずは実際に防犯カメラの映像を調べたんですが、控室に二つあるカメラのうち一つに、池沢らしき人物が映っていたことが判りまして。でも、本人に何度確かめても、『私はやっていません』という答えしか返ってこなくて。そして池沢から、皆様方がこのホテルに盗難事件の調査に来るという話を聞いたので、これはまずい、と思い、池沢が映っていない方のカメラを証拠として皆さんにお見せしたんです。まあ、その前に、社内の誰かが、犯人が映っている方のカメラの映像を警察に渡してしまったようですが」

「そうだったんですか」

「池沢は仕事をしっかりこなすタイプですし、女性なのに、夜勤も積極的に引き受けてくれました。将来の幹部候補として、私は高く買っていたんです。もしこんな事件で彼女が解雇されたら、彼女にとっても、そしてこのホテルにとっても、何も良いことがない、そう思ったのです」

「でも、あなたは、今回の事件以前にも、池沢さんを些細なことで随分叱り飛ばしていた、と聞きましたが」

「社長の命令です。私は正直、気が進みませんでした。でも社長は、些細なことでいいから池沢のミスを指摘し、徹底して叱りつけろと言われました。それに、夜間のシフトとかも、池沢が担当の時には、通常は二人体制の所、彼女一人でやらせろと」

「社長は、そこまであなた方を、徹底的に管理していたのですか?」

「私どものホテルは、社長のお父様が経営するホテルからの資金援助を受けておりまして。資金を打ち切られないためにも、社長からの指示はどんな無理難題でも受け入れてきました。社長が館内に飾った美術品の一覧表や位置図も、社長の指示で私が作りました」

「そこまで細かく指示してるんですか。じゃあ、坂口さんの転籍も社長の命令ですか?」

「はい。社長からこの話を聞いた時、正直とても胸が痛みました。坂口に子会社への転籍を伝えたところ、案の定、猛反発を受けましてね。『私はホテルの仕事が好きなのに、どうしてやらせてもらえないんですか?支配人は、本心から私を転籍させようとしてるんですか?』って詰問されまして。私はいたたまれなくなって、大人げないのですが、彼を怒鳴ってしまったのです」

「でも、坂口さんは、転籍を受け入れたんでしょ?」

「そうです。最終的には受け入れてくれました。でも、表情は相当落ち込んでいましたね」


 そう言うと、重田は言葉に詰まり、しばらく間を置いた後、少しずつ重い口を開いた。


「私、この仕事が大好きでして。前の社長は、そんな私の気持ちを分かってくれて、どんどん現場に出してくれたんです。そして、もっと仕事がやりやすいポジションの方がいいんじゃないか?と言って、この支配人という役割を与えて下さったんです。池沢や坂口にも、若い時の自分と同じ心意気を感じていました。だから、彼らにもどんどん仕事を与えてきました。なのに、今の自分は、その真逆のことをやっていて、そのたびに気持ちが辛くなって」

「重田さん、あなたは池沢さんを怒った後、いつもトイレで泣いていたと、坂口さんから聞かされましたよ」

「坂口が?そんなことを?」

「そうです」

「だって彼らは自分たちの大好きな仕事をしているのに、理不尽なことで怒鳴ってやる気を削ぐようなことをするのは、正直、心が折れそうで。だから、誰も居ないところに行って、こっそり泣いていましたね。正直嫌だと思っても、これも仕事だと考えてぐっとこらえてきましたが、どうしても、耐えきれなくって」


 やがて、重田はグラスを置くと、カウンターに顔を突っ伏し、鼻をすすりながら嗚咽し始めた。


「探偵様、私は何を守っていけばいいんでしょう?自分でも、時々分からなくなることがあるんですよ」


 祥次郎は、グラスを拭きながらしばらく考え込むと、


「そうですねえ。守るべきものは、自分のプライドかな。くだらないと周りから言われようと、自分のプライドを守っていくべきです。さっきあなたは、この仕事が大好きだって言ってましたよね?そのことにプライドを持ち、守っていけばいいんじゃないですか」

「探偵様は、自分のお仕事にプライドを持ってるんですか?」

「まあ、ね。じゃなきゃ、こんな大変な仕事、三十年も続けられないですよ」


 祥次郎が、腕組みをしてウンウン頷きながら答えると、秋音はその脇で、後ろを向いてクスクスと笑っていた。


「秋音ちゃん、ここ、笑う所じゃないでしょ!」

「だって、マスターはプライド持ってやってると断言できるほど、真剣にやってるようには見えなくてさ。ごめん、笑っちゃった」

「まあ、そりゃたまには羽目を外さないと、やってられないこともあるからね」

「たまに?いつもじゃん」


 二人がカウンターの中で口喧嘩していたその時、重田は突然、店内に響き渡るくらいの大声で笑い始めた。


「支配人さん、どうしたんです?突然」

「あははは、このお店は雰囲気が良いなあって。我々の仕事場では、お客さんの前で冗談言ったり、言いたいことを言い合ったりできませんから。そういう意味では、羨ましいです」


 祥次郎と秋音は、重田がいる前で口喧嘩したことを後悔しつつも、重田からの思わぬ誉め言葉に照れ笑いしていた。

 その時、重田は突然、青ざめた顔で口元を押さえ始めた。


「す、すみません……トイレ……どこでしょうか?」

「え?店の右奥にありますが」

「すみません、ちょっとお借りします!」


 重田は足早に立ち上がってトイレに入ると、咳き込む声がドア越しに店内に聞こえてきた。


「重田さん、お酒が好きじゃないって言ってた話は、本当みたいだね。なのに、無理してカクテルを一気飲みしちゃって、どうしたのかな」

「うん。おそらく、お酒でも飲まないことには本音を言えない、と思ったのかもね」


 やがてフラフラになって戻ってきた重田は、椅子に腰かけ、再び顔をテーブルに突っ伏してしまった。


「こりゃ駄目だな。秋音ちゃん、タクシー呼んで!」

「は~い」


 その時、重田は、顔を伏せたまま、息苦しそうにつぶやいた。


「探偵様、すみません。こんなお見苦しい所をお見せしまして。そして、うちのホテルが、皆さんに色々迷惑をかけてしまって」

「良いんですよ。でも、いつまでもこのまま放置はしておけないと思いますよ。池沢さんや坂口さん、そして支配人さんのため、私たちはもう少しがんばりますから。支配人さんも、もう少し辛抱お願いしますね」

「社員たちが安心して自分たちの仕事できるためにも、よろしくお願いします」


 その時、入り口の重いドアが開いた。

 駅前にある「つばさタクシー」の永田新治ながたしんじが、ドアを閉めるや否や、ポケットに手を突っ込んだままツカツカとカウンター前まで歩み寄った。

 永田は、祥次郎が「メロス」を開店して以来の長い付き合いで、すっかりお店の御用達になっている。


「岡崎さん、今日乗っけて行く人はこの人のかい?」

「おうよ。新ちゃん、この人だよ。少し酔いが回ってるから、いつもみたいな乱暴な運転はするなよ」

「俺が乱暴?ふざけんなよ。いつも安全運転でお客さんからの評判もこの町内で一番ですから」

 そういうと、永田は重田の肩を抱き、壁のフックからコートを取って、そのままドアを開けて出て行った。


「新ちゃん、さすがベテランだなあ。俺だったら、酔ったお客さんをあんなに器用に運べないよ」

「酔っ払いの扱いは、永田さんの方がマスターより上手だからね」


 祥次郎は、葉巻に火を灯し、一服しながらドアの方に目を遣った。


「さあ、いよいよ『本丸』に向かって出陣だな」

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