匿名短編コンテスト投稿作品集

湫川 仰角

ヒステリックヒステリシス【テーマ:過去】


 日曜日。

 朝の陽射しに目を覚ますと、目の前にカメムシがいた。俺はカメムシをティッシュで優しく包み込み、指先で念入りに磨り潰した。そのまま体液が染み出してくる前にゴミ箱へ。

 はた、と手を止める。ティッシュに包んで捨てればいいだけのはずが、なぜわざわざ潰した?

 自分のしたことを不思議に思っていると、妻が声をかけてきた。


「良介」

「なに?」

「Kiun vi preferas, frititajn ovojn aŭ rampitajn ovojn?」

「ふーん」

「もっと驚いてよ!」

 一語たりとも聞き取れなかったが、今時分、特別驚くようなことではない。


「それ何語?」

「わかんない」

「文章は書ける?」

「書けない!」

「じゃあ何語か分からないじゃん」

「音声入力でなんとか特定する」

「マイナー言語だといいね」

 テレビをつけると、『反戦』と書かれた大きなテロップが映った。くだらない内容だ。もっと凄惨な戦時映像が見たいのに。


「なんにせよ、おめでとう」

 朝食の準備をする妻の、白いうなじを眺めながら、俺は賛辞の言葉を贈った。



 現代に生きる人間は、唐突に、霹靂の如き変化を獲得するようになった。

 近所に住む57歳の鈴木昭子さんは、ある日を境に金髪青目になっていた。彼女は生粋の東北生まれで、それまでは豊かな白髪と朴訥な黒目をしていた。

 先月9歳の誕生日を迎えた従兄弟の幸樹くんは、まだ聞いたことすらないはずのクレソンを食べたいと急に言い出し、出されたクレソンをドレッシングもなしにモサモサと食べた。

 聞いた話によると、友達の第一子が初めて発した言葉は「 Dolmalık biberピーマン」だったらしい。トルコ語とのことだが、よく聞き取れたものだと友達の方に感心した。


 変化は、誰にいつ起こるのかわからない。世界中の症例にあって原因も関連も不明。ただ、地道な調査の末、獲得する変化の出所だけはわかった。

 獲得するのは、現代に生きる自分に至るまでの祖先、その中の誰かが持っていた特徴に限る。

 連綿と続く人類という種のバトンリレー。あるいは変化という名のグラデーション。その端々に存在する形質や嗜好、言語と呼ばれるものが、先祖返りのように発露する。故に、獲得は現代の人間ならば誰にでも起こる可能性がある。


 先人たちの足跡に敬意を表し、この変化は履歴現象ヒステリシスと呼ばれた。


 好みの味が増える程度で、大半は些細なヒステリシスが現れる。もちろん有益なものもあったが、面倒事も度々起こる。

 先日、アメリカ副大統領にロシア語のヒステリシスが現れた時などは傑作だった。あやうく戦争になりかけ、その煽りでニュースが戦争関連の話題で持ちきりなのだ。

 今朝の妻の場合、外国語を母語とする人が祖先にいたに過ぎず、今時はさほど珍しくない。

 一方で、俺はまだだ。見た目も好みも、言語野にも変化はない、はずだ。


「今日はどこか行くの?」

 妻がこちらを向いていた。


「散髪」

「遅くなる?」

「夕飯には帰ってくる」

「わかった」

「そっちは?」

「Mi nur volas spekti filmon en malvarmeta, klimatizita ĉambro」

「それやめろ」

「これが何語か調べるかな」

 呑気な妻。何も得ていない俺は、少し、イライラした。


 それから散髪に出掛けた。

 そして、時間が経てば経つほど、俺はあることに気がついた。


「なんで皆そんなに俺を見るんだ?」

 地を這う爬虫類は俺を品定めし、空飛ぶ鳥類は俺を見下し、すれ違う霊長類は俺をジロリとねめつけてくる。今朝の昆虫も俺のことを見ていた。普段は気にならないのに、なぜだか今日はいやに不快だ。


「まぁ、殺せばいいか」

 気を取り直そうとして呟いた。同時に、今、自分が何を口走ったのかわからなくなった。


「何から殺そうか」

 あれ?


「いや、殺すより苦しめた方がいい」

 これは俺の声か?


「一番苦しい殺し方はなんだろう」

 これは誰だ?


「その様子を録画して妻に見せよう」

 自分の中に、知らない誰かがいる。今まで考えもしなかったことを、誰かが次々と頭に浮かべてくる。


「……これが、俺の祖先の特徴?」

 ヒステリシスはただの現象であり、善悪ではない。祖先の特徴が誇らしい性質であろうと、唾棄すべき偏執であろうと、そこに区別はない。

 俺にバトンを渡してきた連中がどんな人間だったのか、俺は知らない。脈々と受け継がれてきた加虐という衝動が、ここに至り、俺に表出しただけのこと。そしてこのバトンリレーの走者には、俺も含まれている。


 そう気がついたとき、俺は自分の首を触った。そうであるならば、ここで、俺の代で、この衝動を絶やさねばならない。心配はいらない。バトンミスした選手を非難するなど、誰ができようか。


 そうだ、俺は「どうせ死ぬなら一度殺してみたい」



「ただいま」

「おかえり、早かったね」

 妻は夕飯の支度をしていた。朝と変わらず、そのうなじは滑らかだ。

 俺は後ろから静かに近づき、その白磁のような首に手をかけ––


「良介」

「……なに」

 肌に触れる寸前で、手が止まる。


「Mi povas paroli Esperanton」

「え?」

「これ、エスペラント語だった」

「なんだっけそれ」

「人工言語だって」

「ふー……ん」

「もっと驚いてよ」


 人工言語。母語話者のいない、作られた体系。それを操るヒステリシスとはつまり、努力によって特徴に昇華させた祖先がいたことに他ならない。


「なあ」

「なに」

「自分の中に、知らない誰かの特徴が現れるのは嫌じゃない?」

「知らない誰かじゃなくて、血の繋がった誰かだよ」

「……」

「その誰かが、勝手に身に付いたものじゃなくて、きっと凄く努力して話せるようになったんだと思う」

「……」

「その努力は誇らしいし、私も頑張れって励まされてるような気がする」

「例えば、それが最悪の特徴だったとしたら?」

「私たちがここにいる以上、最悪としては現れなかったってことじゃない?」

「そう……かな」

「最悪なものにしない理性を、皆持っていたんだと思う」


 どうやら、俺の祖先はうまくやったのだろう。

 いいとも。過去の遺物に敬意を贈ろう。そして次の子孫に、ささやかに受け渡そう。最悪の特徴を抑え込んだ理性とやらを。


 俺の手は、もう二度と首に向かうことはなかった。



第5回 #匿名短編コンテスト・過去VS未来編 【過去サイド】(2019/10/1~11/15)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054891211495

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