第20話 エステバン杯(後編)

――パトリスだと……!?


 ばくばくと拍動する胸の底で魔王の名が反響する。

 平穏だった大陸に魔物が跋扈していることが魔王復活の兆候といえど、魔王そのものを見た者はいなかった。少なくともトラヴィスはそう語っていた。ローゼンハイムの民は破滅の光の中で魔王の姿を垣間見たのだろうか。ローゼンハイムが滅亡した今となっては分からない。五百年の時を経て魔王パトリスが再臨したのは真実なのだと、アサレラはこのときやっと思い知った。

 魔王の配下だと嘯く魔人シルフは、なぜミーシャの身体から現れたのか。血だまりで横たわるミーシャは生きているのか。確かめたくとも、アサレラの身体はおのれの意思に反して微動だにしない。歯痒さに苛立ちばかりが募る。


「パトリス様は忌まわしき封印をとうとう破り、わたくしたちは眠りから覚めた。創世の女神の恩恵にあぐらをかく愚衆どもよ! わが主君はきさまらの怠惰と傲慢を正すため、永き時を経て再び君臨されたのだ!」

「そうはさせるかよ!」


 激しい疾風のような声がアサレラの身体を打った。


「起き抜けのところ悪いけど、また眠ってもらうぜっ!」


 見れば、仮面を脱ぎ捨てたリューディアが、魔人シルフへ斧を突きつけている。

 シルフは薄笑いを浮かべ、枯れ枝のような腕を振り上げた。


「愚かな……」


 突如、シルフの足下からすさまじい勢いで風が渦を巻いて吹き上げた。巻き上がる砂埃にアサレラは反射的に腕で顔を覆い、そこではじめて身体の自由が戻っていることに気がついた。

 リューディアは怯むことなく戦斧を構えて竜巻の渦中へ突進していく。


「よせ、リューディア!」


 アサレラが叫ぶよりも早く、砂の中でシルフの指先が光るのが見えた。

 烈風に舞い上げられたリューディアの身体はいとも簡単に吹っ飛び、観客席に叩きつけられた。あちこちで叫喚があがり、この場から逃れようとする者同士が衝突し、市民を逃そうとする騎士たちが怒号をあげる。

 アサレラはアリーナへ飛び込み、その勢いのままシルフへ蹴りを入れた。不意打ちだったのか、シルフの身体はあっさりと傾いた。その隙にアサレラはミーシャの傍らに膝をついた。


「ミーシャ! しっかりしろ……ミーシャ!」


 蒼白なミーシャの顔は苦悶に歪み、腹部からはおびただしい量の血が流れている。白っぽい砂地が血を吸い、じわじわと黒く染まっていく。


「ミーシャ!」

「……………………ぅ……うぁ…………ア………………」


 わずかな身じろぎとともに小さなうめき声が上がる。焦点の合わない目がアサレラを見た。どうやら生きてはいるようだ。アサレラはほっとため息をつき、マントの裾を破り、きつく縛って止血する。少なくとも応急処置にはなるはずだ。

 体勢を立て直したらしいシルフが、砂を払いながらこちらへ近づいてくるのが視界の端に映る。アサレラは剣の柄へ手をかけ、立ち上がってシルフを見据えた。


「おまえは魔王の部下だと言ったな……。答えろ! こいつになにをした!」


 どろりと澱んだ瞳がこちらをじっと見つめる。


「同じことを言わせるな。人間よ、きさまの耳は装飾品か?」

「ミーシャになにをした!」


 シルフの目がわずかに揺らぎ、アサレラの背後へ向けられる。


「……ああ、そこの娘か。わたくしはこの娘の願いを叶え、わたくしはこの娘の身体を依代に力を蓄えたのだ」


 シルフの嘲笑は全身に冷や汗が流れるような不気味さを漂わせている。


「願いだと……? どういうことだ……ミーシャがおまえになにかを頼んだのか!?」

「きさまごとき人間に教える必要はない」


 闇の身体が動くたび、周囲の空間が陽炎のように揺らめく。


「わたくしが具現化した以上、その娘は処分せねばならん」


 そのときシルフの背後の観客席で戦士たちが数十人、武器を手に立ち上がった。


「なにをガタガタ抜かしてやがる!」

「魔物風情が人間様の皮を被りやがって!」


 伝統ある祭典に水を差された獰猛なウルティア戦士が息巻く。シルフが振り向きざまに舌打ちし、手をかざす。

 刹那、叫び出すかのように炎が吹き上がった。

 立ち上がった戦士たちのいる場所を中心に、観客席の三分の一が吹き飛んだ。当然そこにいた周囲の者も無傷ではすまず、断末魔が嵐のように巻き起こる。


「やはり目覚めたばかりでは力が完全ではないようだな」


 吹き飛ぶ人影がはるか上空で歪んだ線を描き、落ちていく。


「まさか……おまえがセイレムを……」


 アサレラはただ呆然と、炎が燃えさかるさまを眺めるしかなかった。

 今までアサレラが見てきた魔物にも攻撃魔術を使うものはいたが、シルフの魔術は桁違いだった。手をかざす、たったそれだけで建物を崩壊させる魔術を行使する魔物はいなかった――一晩でセイレムを炎の中に包んだ魔物の他には。


「まさかおまえが……おまえがロビンを……コートニー……を……」


 呆然と呟くアサレラをよそに、シルフが高らかに笑う。


「見ただろう、赤魔術の力を。指先一つで数多の命を屠る女神の恩恵を……きさまたち人間のあがきなど、水たまりで溺れる蟻にも劣るのだと思い知るがよい!」


 砂埃がごう、と舞い上がる。裾のないマントが余波ではためく。


「聖術師……! どっかに聖術師はいねえのか!?」

「あ……、あんな化け物に勝てるわけがない……!」


 悲痛な声があちこちで上がる。観客席はたちまちのうちに空けられた穴から逃げようと惑う人々、あまりの恐ろしさに動くことができない人々、消火のため奔走する人々でごった返した。


「人間どもよ、パトリス様の築く新世界の礎となるがいい!」


 剣の柄を固く握りしめた指を、アサレラは意識して一本ずつほどいた。

 フィロは無事でいるだろうか、という懸念がアサレラの胸の内をよぎる。フィロを任されていたアサレラはなにもかも擲ってもフィロを探し出し、そしてロモロのもとへ連れて行くべきだ。

 けど、とアサレラは背後へ視線を向ける。地面に横たわるミーシャは今にも息絶えそうに震えている。

 ここでアサレラが退却すればミーシャの命はない。ミーシャを背負って逃げることも、逃げる市民らに託すこともできない。


――だいじょうぶだ、きっとロモロさんがフィロを連れて逃げてるはず……。


 アサレラにできるのは、フィロたちの無事を信じただ立ち向かうことだ。


「魔人シルフ!」


 おのれに逃げ道などない、と悟ったアサレラは、胸底がわずかに臆するのを黙殺し、裾の破れたマントを脱ぎ捨てた。


「おまえは魔王の配下だと言ったな。だったら……これをわからないとは言わせないぞ!」


 左手のグローブを外し、その甲をシルフへ晒す。


「涙と茨――この紋章の意味するところが!」


 故郷のセイレム村が滅びたときのようにまばゆい光を放ち、暗雲を裂く――そんなふうに都合良くはいかず、ただ周囲がしんと静まりかえっただけだった。

 一瞬の静寂ののち、観客席に残っていたらしいわずかな人々が歓喜の声をあげる。


「あ、あの人が聖者様だって……!?」

「聖者様! どうか俺たちを助けてください!」


 アサレラはグローブのない左手で剣を握った。鋼の剣が鈍い輝きを放つ。

 血に染まった黒い砂地を踏みつけ、シルフがほくそ笑む。


「そうか、きさまが当代の……では聖剣レーゲングスは当然手元にあるのだろうな?」

「! …………」


 やはりな、とシルフが嘲笑する。


「わが同輩が聖剣のありかを襲撃した。一人の神官が聖剣を手に逃走したようだが、そう長く逃れられるはずもない」


 そのとき、観客席に残っていたらしい戦士たちが斧や弓を持って立ち上がった。


「聖者様に続け!」

「みんな、聖者様を援護しろ!」

「ウルティア戦士の誇りを見せるんだ!」


「無駄なことを……」


 シルフが手を振り上げる。

 光が迸り、残された観客席の半分が轟音とともに崩れ落ちた。


「人間よ、なにゆえあがくのだ。きさまらの行く先に希望などない。聖剣なき聖者などただの人間だ。滅びの流れに身を任せれば楽になれるものを……きさまら人間がどれほどもがいたとしても、聖剣は永遠にきさまらの下から失われたのだ!」


 憎しみの膜が張ったようなどろりとした目と、視線がかち合う。


「おれが戦うのはおれのためだ。聖剣なんか関係ない!」


 そして、シルフの身体に剣を突き立てる。

 これで終わるはずだった。


「なんだと……!?」


 アサレラは驚愕した。おのれの剣先は水中で揺らめくかのごとく、斬った手応えが一切なかった。


「言ったはずだ。無力な人間では、なにもできはしないと。そんなものがわたくしに傷一つ負わせると思っていたのか!」


 シルフが腕を振るう。アサレラの背中が地面へしたたかに叩きつけられる。手から離れた剣ががらがらと音を立てて転がった。


「ぐっ……う……!」


 血が喉に詰まらないよう横を向いた顔を踏みつけられ、痛みに顔をしかめる。

 もう終わりなのか。アサレラの十九年の人生はここで儚く終わるのか。聖者だなんだといってもシルフの言うとおり、聖剣レーゲングスありきの存在なのか。ぼやけていく視界の端で、おのれの左手に刻まれた聖痕が沈黙している。


――おまえは本当にアデリスに似ているな。

――あなたは、炎を消す手立てを、もう知っているでしょう?


 途切れそうな意識を失われた声が繋ぎ止める。アサレラははっと目を見開いた。

 おのれを十数年生かしてきたものは憎悪だった。腹の底で渦巻く怨念と憎悪がアサレラの存在を意味づけている。今までも、そしてこれからも。


 おれの中にこの怒りがある限り、おれはこんなところで膝をつくわけにはいかない!


 アサレラは地面へ横たわる剣へ手を伸ばした。


「…………おれの……父親と、育ての母は、おまえたち魔物に殺された」


 アサレラを踏みつけるシルフが、すっと目を眇める。


「ほう……仇討ちのつもりか? ……くだらんな」

「そうじゃない……! おれが殺すつもりだった奴らを魔物が殺したんなら、おれが魔王を殺す。そうじゃないと、おれの気が済まない! おれは奴らを殺すことだけを考えて生きてきたんだ!」


 もう少し。もう少しで剣に手が届く。聖剣が失われても、聖痕が光を放つことがなくても、剣を取って立ち上がらなければ。


「…………これ以上きさまと戯れている暇はない。パトリス様をお捜ししなければ」


 シルフの足がアサレラの顔から離れ、あと少しで剣の柄へ届きかけていた左手を踏みつける。

 うめき声をあげるアサレラの髪を掴み、シルフは薄笑いを浮かべた。


「来い聖者。きさまにとどめをさすのはパトリス様に……」

「聖者どの!」


 子どもの高い声が響く。

 髪を掴まれたまま動けないアサレラは、そちらに視線だけ向けた。

 遮るものがないためにまっすぐ降り注ぐ金色の陽光の中に、一振りの剣を抱えた小柄な神官が佇んでいる。光を背に立つ神官の顔は見えないが、アサレラにはその声がどこか聞き覚えがあるように思えた。


「ジョンズワートめ、しくじったな!」


 抑えきれない苛立ちと焦りで上擦るシルフの声に、アサレラは神官の持つ剣の正体を悟った。

 おのれの髪を掴むシルフの手がわずかに緩んだ隙に、アサレラはその手を振り払った。


 ひらりとアサレラの視界を白いものが掠めた。瓦礫の陰から飛び込んできたロモロがシルフに拳を振り上げたのだ。殴打をまともに喰らったシルフが地面に倒れ込んだ。


「…………ロモロさん!」


 マントをなびかせたロモロがこちらへふっと笑いかけ、それから神官のほうを向いた。


「早く聖剣を!」

「は、はいっ! 聖者どの! どうか聖剣を!」


 神官が放り投げた聖剣が、ゆるい放物線を描いてアサレラの足下に転がる。

 アサレラは夢中でそれを胸に掻き抱いてから、一拍置いて迷いが生じる。


――本当にこの剣をおれが手にしていいのか……?


 身を起こしたシルフが砂地を蹴ってアサレラへ飛びかかる。


「おのれ……! このままレーゲングスを継承させてたまるか!」


 ゆるやかな薄紫色がアサレラの眼前で揺れた。

 アサレラとシルフのあいだにフィロが割って入ったのだ。


「フィロ……! どうしてきみがここに」


 薄紫色の長い髪に覆われた背中は微動だにしない。

 シルフは動きをぴたりと止め、ただフィロを凝視している。

 惑う心を見透かしたかのように、翳りを帯びたフィロの目がアサレラを見下ろした。


「さっさとしろ。……おまえは魔王を倒すのだろう」


 ここで剣を抜かなければ、すべてが無駄になってしまう。聖剣を手に逃げ延びた神官の思いも、危険を顧みないロモロとフィロの行動も、アサレラが聖者と知って立ち上がったウルティア人たちの勇気も、魔人相手に怯まなかったリューディアの果敢も、戦うことを選んだミーシャの決意も。そしてなにより、かつて復讐を誓った自分自身の意志が。


 アサレラは左手へ渾身の力を込め、剣を引き抜いた。

 驚くほどあっけなく鞘から現れた刃とともに、白い光が溢れる。眼底までくらませる強烈な光に思わず目を閉じかけるアサレラの耳朶へ、シルフの絶叫が響く。


「おのれ……おのれ! おのれアサレラ! きさまにあの方の苦悩と絶望が分かるはずがない!」


 まぶしさに閉じそうになる目をこじ開ける。シルフは闇の身体を維持できず、どろどろと融解していく。


「アサレラよ、覚えていろ……! きさまの行く先に待つのは喪失と絶望、ただそれのみだということを!」


 アサレラのつま先へ黒く溶けた痕跡が迫る。

 アサレラは魔人だったものを踏みしめ、光り輝く聖剣レーゲングスを見つめた。

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