第14話 出発

 寝台へ横臥したアサレラは、目を閉じながらも眠っているわけではなかった。

 もともと眠りが浅いせいで、なかなか寝入ることができずにいるのはアサレラの常だ。

 だが今、アサレラが眠れずにいるのは、おのれの短慮に苛まされているためだ。


――おれが余計なことを言ったせいで、あんなことになるなんて……。


 ロモロは気にするな、キミのせいではないと言ったが、そうでないことは明白だ。

 各々があてがわれた部屋へ入る前、アサレラはもう一度、おのれの先を進む親子の背へ謝罪の言葉をかけた。

 深く下げた頭上へ、立ち止まった二人分の視線が降り注ぐのをアサレラは感じた。

 わたしのほうこそ気を遣わせてしまってすまなかった、わたしがもっと強く断っておけばよかったんだ、と、ロモロは言った。

 そろりと顔をあげると、同じ色合いをした瞳が、まったく異なる感情を乗せてアサレラを見ていた。

 過ぎたことをいつまでも考えても仕方がない。そう思いはしても、アサレラの胸中は鎮まらず、かえってざわつくばかりだ。

 アサレラは目を開けた。


――フィロは、まだ怒ってるだろうな……。


 どんな魔物と対峙したときよりも、フィロの怒りのほうがよほど恐ろしい。表情の変化こそ少ないが、まとう気配が一変する。静謐な瞳の底で燃え上がる怒気を思い起こすと、背筋が冷える。

 明日はパレルモへ向かうのだから、少しでも身体を休めておかなければならない。なにか別のことで気を紛らわせようと、アサレラは思惟を巡らせる。


 だが、目を閉じたアサレラの脳裏へひらめいたのは、結局のところフィロであった。

 思考から追い払おうとしても、赤く染まるセイレムの残骸の中に佇むフィロの姿は、瞼の裏へ焼き付いたように離れない。

 アサレラは仕方なしに、昨日出会ったばかりの青年のことを再び考え始めた。

 初めて出会ったときも、魔物と戦ったときも、カタニアへ向かう道中も。長い髪をなびかせ、物憂げな瞳をそっと伏せるフィロは、怒りという激しい感情とはおよそ無縁のように見えた。

 しかしフィロはイスベルへ二度怒りを見せ、再会した父親に人目もはばからず抱きついた。何事にも感心がなく、感情の薄い青年というのは、アサレラの思い違いだったのだ。


――あいつ、父親のことが、ほんとに好きなんだろうなあ……。


 確かにロモロは、息子だけでなくアサレラに対しても穏やかな口調で語り、極めて親切であった。実直で優しいロモロならば、フィロが父として慕うのも理解できる。

 それとも、ミーシャがかつて言ったように、どんな仕打ちを受けても親であれば敬慕するのが子の努めなのだろうか。

 ミーシャのことを思うと、アサレラの胸は軋む。

 あんなことを言うつもりはなかったのに、ミーシャを前にすると激しい言葉が口をついて出てしまう。ミーシャの言うように、二度と会わないほうが互いのためだろう。

 アサレラは寝返りをうった。


――けど……、もしロモロさんに薬草を託したのがミーシャだったら……、そのときは…………。


 頭の中が、白く霞んでいく――。



 白い光の中で、鈴を振るうような笑い声が響いた。

 まぶしさに目を眇める。

 純白のドレスをまとった女が、光を背にこちらへ笑いかけている。


「あなたとこうなるなんて、あなたと初めて会ったときは、思いもしなかったわ」


 結い上げられた青髪を覆うやわらかそうな長いベールが揺れる。


「平和になったこの世界を守るため……、ともに力を尽くしましょう」

「……はい、殿下」

「その、殿下、というのは、どうにかならないの? わたしはこれからあなたの妻になるのよ」


 なんと言ったものか、と視線をさまよわせ、女の抱える花束がその胸元で美しく咲き誇っているのを見つめた。


「え、ええ、ですが…………その、まだ……慣れないもので」


 光に縁取られた微笑に、胸が軋む。


「でもわたし、待ってるから。昔みたいに、あなたがわたしの名を呼んでくれるのを」


 ばくばくと逸る心臓を飾る一輪の花に指先を添えた。


「さあ、アサレラ、行きましょう。みんなが待ってるわ」

「はい――エルフリーデ様」


 女がうれしそうに笑った。

 白い手と白い手が重なる。

 光が、あふれる。



 は、と、アサレラは目を開けた。

 あれこれ考えているうちに、いつのまにか寝入ってしまったようだ。窓の外に目をやれば、夜明け前の薄青色が広がっていた。

 アサレラは寝台の上で身を起こし、前髪を掻き上げた。

 夢の中で、青い髪の女がおのれに呼びかけてきたように思う。そしておのれは、彼女の名を呼んだ気がする。

 急速に白くぼやけていく夢の輪郭を掴もうと、アサレラは頭を回転させた。


「…………エル……ええと、エル、フ……」


 控えめなノック音が響く。アサレラの心臓が跳ねる。


「アサレラ殿、起きているか?」


 潜められたその声は、ロモロのものだ。


「は……、はい」

「わたしとフィロは先に下へ行っている。支度が終わったら来てくれ」


 ロモロは部屋の中へは入ろうとせず、そのまま階下へ向かったようだ。

 足音が遠ざかっていくことに、アサレラは安堵のため息をついた。


◇◇◇


 鎧とマントを身につけたアサレラが階下へ行くと、すでにロモロとフィロがテーブルに朝食の皿を並べていた。


「おはよう。よく眠れたか?」


 昨夜とは打って変わって人の気配のない食堂は静寂に満ちている。


「おはようございます。……いつもよりは、少し」


 アサレラが彼らの向かいの椅子を引くと、スープから立つ湯気が鼻先で揺れた。


「それはよかった」


 ロモロが穏やかに微笑む。

 薄紫の長い髪を一つにまとめたフィロはアサレラを一瞥し、すぐに目を伏せた。

 スープに沈む野菜を匙で掬いながら、アサレラは心苦しかった。

 安易に謝罪すればかえって恐縮させてしまうだろうということは、昨夜のうちに経験している。だからといって、なかったこととして振る舞ってもよいものだろうか。


 ちらりとフィロのほうを窺えば、塩漬け肉の燻製を薄切りにしたものをパンに挟んで頬張っている。

 昨晩はアサレラに対しとげとげしい態度を見せていたが、この分では機嫌は直ったようだ。間違いなくロモロがなだめたのだろう。


 フィロはアサレラの前で二度、怒りを見せた。

 三度目はない、と思いたい。


「ん、フィロ、ちょっと待て」


 ロモロはカップを置いて、匙を持つフィロの腕へ触れた。


「袖が危ないな。貸してみろ……ほら、そっちの手も」


 ゆったりとしたフィロの袖は、確かにふとした拍子に引っかかりそうではある。だからといって自分で捲ればよいものを、なぜこの二人は当然のように捲り、捲られているのだろうか。

 アサレラがそのさまを思わず凝視していると、ロモロと目がかち合った。


「……アサレラ殿、どうかしたのか?」


 ここで初めてアサレラは、おのれがいつのまにかスープを掬う手を止めていたことに気がついた。


「あ……、い、いえ……」


 アサレラは視線をたっぷりさまよわせてから、どうでもいいようなことをぼそぼそと口にした。


「…………ウルティアって、あまり寒くないんですね。コーデリアより北にあるから、もっと冷えるのかと思ってました」

「気候にも、いろいろ条件がある。緯度でいえば、ウルティアとマドンネンブラウとサヴォナローラはほぼ同じだからな」


 大陸地図を脳裏に浮かべながら、アサレラは頷いた。確かにその三国はほぼ横並びだったような記憶がある。

 袖を捲ってもらったフィロがスープを飲むのを見て、アサレラは思う。もしかして、その髪もロモロに結んでもらったのではないだろうかと。


 疑惑を抱きつつ匙を握り直したアサレラの手元が、突如として白く照らされる。

 目を眇め視線を巡らせると、けぶるような夜明けの光が窓から差し込み、朝の訪れを告げていた。

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