第96話 全部、夢だった

 どうやら私はクリスマスの夜に、うなされて起きたようだった。

 ゲームのイベントを楽しみにして眠り、その後、すぐ目が覚めたのだ。ベッドから起き、日付を見たり、PCを立ち上げたり。結局、寝直すこともできず、そのまま朝になった。

 学校はすでに冬休みに入っている。

 出席日数が足りないから、すでに留年は決まっていて、私は退学するつもりだった。

 あれはきっと、夢だった……んだろうか。でも、たしかにあちらで過ごした記憶は残っている。夢というには実感があった。でも……。


「夢みたいな日々だったなぁ……」


 それは間違いない。本当に楽しくて、とても幸せだった。日本で引きこもり女子高生をやっている今の私に比べて、なんて意欲的で活動的だったのだろう。


「四歳で旅に出るって……」


 自分が決めたことだったけど、考えてみれば驚きの決断だ。サミューちゃんという保護者がいたけれど、日本でそんなことをしたいと言っても、もっと大きくなるまで待てと言われるに決まっている。

 でも……許してくれのだ、父と母は。そして、サミューちゃんはついてきてくれた。

 旅で出会ったキャリエスちゃんは王女として凛としていて、ピオちゃんもかっこいい騎士。ハサノちゃんは立派な女王で、ムートちゃんはあこがれのドラゴンだ。カリガノちゃんは明るくて、一緒にいると励まされた。


「みんな、私の妄想だった……?」


 ――そんなわけはない。

 ぼんやりとし、スウェットのポケットを探れば、そこにコツンと当たるものがあって……。


「あ、逆鱗」


 取り出してみると、出てきたのは黒い鱗。光ってはいないけれど、これは逆鱗だ。

 ……みんなはちゃんといた。これがその証拠だと思う。

 でも、日々はそのまま過ぎていき……。


「それじゃ、行ってくる」

「……気を付けてね」

「途中まで、送るか?」

「ううん、大丈夫」


 冬休みが終わった一月初旬。私は高校へ行くために、家を出ようとしていた。

 まさか、ここに来て私が学校へ行くと言い出すと思っていなかった父と母が玄関で心配そうに声をかける。

 ……玄関から出る一歩。ずっとこれが怖かった。

 なんとか家を出ることができても、途中で足が止まり、進めなくなることが何度もあったのだ。

 父も母も。きっと私が学校に本当にたどりつけるとは思っていないだろう。

 でも……。今の私は。


「いってきます」


 ほんの数回しか着ていない制服はまだ新しい。指定の革靴もまだピカピカだ。

 今日の授業の科目はわからない。筆記用具とクリアファイルだけ。ほぼ空のリュックを背負い、外へと出た。始業式だけならなんとかなる気がする。


「さむっ」


 冬の朝。空気が冷たい。新品のマフラーと手袋をしているが、頬に当たる風が痛いぐらいだ。

 ああ……。


「日本の景色も……」


 黒いアスファルトに白線がまっすぐ。灰色の電柱には黒い電線がかかり、丸くなった冬毛のスズメが止まっている。それを見上げて、はぁと空気を吐けば白くもやになった。


「……きれい」


 学校に行くのはいやだったはずなのに、私の心は凪いでいる。

 とりあえず、一度、行ってみようと素直に思えた。

 学校に行くという義務から、体感にして四年間離れられたからかもしれないし、残っている記憶が私の気持ちを大きくしているからかもしれない。

 本当は……怖くないわけでなない。

 こんな時期から学校に行ったところで、クラスに馴染めるわけもないし、授業もわからない。友達だってできるわけもなく、ただ、「なにしにきたの?」って視線を送られるだけだろう。でも……。


「おまかせあれ、だね」


 記憶での私は元気にそう言って、やる気をみなぎらせていた。

 あのときの私と今の私は全然違うけれど、でも、言葉に出せば、胸に勇気が湧いてくるようだ。

 久しぶりの登校で、しんどくなるかもしれないから、かなり早めに家を出た。途中で足が止まることもあったけど、近くのバス停まで行けば、そこから高校まではバスで一本。三十分揺られれば、もう学校だ。

 さすがに緊張して胸がドクドク音を立て、手からは冷汗が出る。顔は俯いてしまったけれど、なんとか足を動かした。


「おまかせあれ……おまかせあれ……」


 おまじないのように呟いて、前へと進む。私なんかになにも任せられるわけもないのだが、そう言えば、胸に勇気が湧いた。

 家を早く出てよかったと思う。

 生徒がまだあまりいないから、自分のペースで正門まで潜れた。あとは記憶を頼りに教室まで歩いていく。西校舎の三階。階段を上がってすぐ。そこが私の教室。1-5だ。

 あとは……扉を開いて、教室に入るだけ。

 ……私の席、あるだろうか。

 ずっと休んでいたのだ。もうなくなっているかもしれない。……どうしよう。一度、職員室で先生に話をしたほうがよかっただろうか。ああ、でも、先生に迷惑な顔をされたら……。

 ぐるぐると思考がめぐる。

 すると、突然ガラガラガラッと音を立てて、扉が開いた。


「おはようございます」


 そこにいたのは私と同じ制服を着た女の子だった。黒い髪を両サイドで三つ編みにした、優しそうでとてもかわいい。同級生、だろうか。同じクラスならもしかしたら顔は見たことがあるかもしれないが、見覚えがなく、名前もわからない。


「あ、えっと、あ、……おはようございます」


 驚いたのもあるし、そもそも人見知りなので、もごもごとしながら挨拶を返す。

 すると、女の子はニコリと笑った。


「席はこっちですよ」


 そう言って、私を案内してくれる。

 どうやらこの子は私が不登校の同級生だとわかった上で、接してくれているようだ。


「あの……ごめんなさい」


 登校、最初から迷惑をかけてしまった。不甲斐なさに謝れば、胸がぎゅうと痛んだ。……やっぱり私はまた、「ごめんなさい」しか言えないのだろうか。

 ずっと、謝って……それで……。

 ぐるぐると暗い思考に飲み込まれる。でも、その途端――


『大好きよ』、『なんでもできるんだな!』、『さすがです!』、『もう、私を幸せにして……!』、『僕は君に救われた』、『かわいいわ!!』、『また会いに来るぞ!』、『一緒にいることがいいことなノ!』


 ――みんなの声がした。

 失敗ばっかりの私。迷惑をかけてばかりの私。

 そして……みんなだって完璧ではなかった。でも、私はそれを嫌だとは思わなかったから。だから……。


「あのっ、親切にしてくれて、……ありがとう」


 みんなで一緒にいて、助け合うこと。

 完璧なもの同士が一緒にいるわけじゃない。失敗しても、フォローし合えたら……私は……。

 私の言葉に、女の子はまたニコリと笑った。


「はい。困ったら声をかけてください」

「あ、あの、私も……私もなにか手伝えることがあれば……っ」


 私はそこまで言うと、案内してくれた席に座り、急いでリュックを下ろした。

 不登校の私に手伝えることなんて、きっとない。

 おこがましい提案だと思う。でも、言ってみたかったのだ。そして、発言したことでいっぱいいっぱいになり、もう、焦りから自分で自分がわからない。

 そんな不審な私なのに、女の子はとくに変わった様子はなかった。そして、私の隣の席へと座って……。


「私の名前はしおりです」

「えっと……」


 名乗られて、びっくりして、視線が泳ぐ。

 でも、たぶん、これは悪い意味ではない。だから、おそるおそる隣を見た。女の子の目は……迷惑そうにはしていない。優しい黒い目のままだ。

 それに勇気をもらって、慎重に、失礼のないように言葉を返した。


「……しおりちゃん?」

「はい。隣の席ですね。よろしくおねがいします」

「あ、あ……えっと、私は……」


 私の名前は……。


「りな、です」

「……りなさん、ですね」


 女の子……しおりちゃんは、そう言って頷く。

 そして、おどおどした私に合わせて、ゆっくりと会話をしてくれた。

 そのうちにほかの同級生も登校してきて、私を見て、びっくりするような顔をする人もいた。たぶん、私のことを話しているような声も。

 「今更来るんだね」とか「留年なんだよね」とか。

 きっと言っている人たちに悪意は……ないんだと思う。ただ、いつもと違う私という存在の確認作業をしているだけ。


「りなさん、始業式は講堂であるんです。一緒に移動しましょう」

「ごめんなさい……。ううん、あ……ありがとう」


 しおりちゃんは、そんな声をかき消す様に、私に明るく声をかけてくれた。

 思わず謝ってしまう癖が出てしまったが、小さく首を振って、お礼へと変える。私が言いたいのは……。

 「こんな私でごめんなさい」ではなく……。「優しくしてくれてありがとう」だから。


「りなさんは慣れないことも多いと思います。よければ私がいますから」


 しおりちゃんはそう言って、ニコリと笑った。

 きらきらと世界が輝く。

 冬の教室、窓際で前から五番目の席。……隣の女の子の優しい言葉。

 そして、そこからは、これまでとは違う学校生活が待っていた。

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