事故物件【首くくりの町・外伝】

年の瀬も押し迫った12月のある日、姉からの指令を受けた俺は大手町にある賃貸マンションの一室のドアの前にいた。


不動産を手広く扱う姉の会社が管理する物件で、今は借主のいない空室である。


預かっていた鍵を使って玄関を開ける。


まだ14時だというのに早くも日は傾き始め、雑居ビルに囲まれた部屋の中は薄暗かった。


玄関から中を見通すも部屋の中に差し込む光はなく昼間という感じがしない。


「ふむ」


溜息ともいえる頷きをひとつ。


俺は意を決して靴を脱いで部屋の中に入った。


いるのだろうか。


この部屋に。


首を吊って死んでいたという前の住人の霊が。




玄関にある蛍光灯のスイッチを押す。


電気はつかない。


ブレーカーが降りているのだろう。


洗濯機置き場の上にブレーカーを見つけてスイッチを上げる。


玄関の蛍光灯に明かりがついた。


部屋の間取りはそこそこ広く、玄関から続く短い廊下の先にリビングが、その手前に小部屋へ通じるドアがある。


俺は片っ端からドアを開けて各部屋の電気をつけて回った。


薄暗かった室内に人工の明かりが行き渡った。




「少なくとも春までは住んでほしい。部屋には悪霊の類はいない。何かが見えたり聞こえたりしても無視すればいいから」


姉からそう言われて俺はまたかと思った。


姉が務める会社は賃貸物件の仲介を行う不動産会社で、大手の賃貸情報サイトの物件から仲間内でしか情報が出回らないローカル物件まで凄い数を扱っている。


業界的に避けて通れないのが事故物件の扱いで、自殺者が出た部屋の場合、次の借主にきちんと説明をしなければならない。


その面倒もさることながら金額的にも当然安くなるので、姉の会社としては誰か都合の良い奴にある程度の期間住んでもらって、説明義務の必要がない状態にしてから通常の物件として貸し出したいわけだ。


そこで俺である。


ごく普通のサラリーマンで霊感の類もなく、事故物件に住んでも怖いなあとしか感じないゼロ感の俺が、数ヶ月の間住み着くのだ。


当然家賃は発生しない。


おかげで俺は定期的に引越しをするわずらわしさこそあるものの、都内にもかかわらず家賃ゼロという奇跡を体現している。


もともと自分の荷物なんてトランク一つで充分なほどしかない自称ミニマリストだ。


必要最低限な洗濯機やら冷蔵庫やらテレビだけで俺の引越しは終わる。




恐ろしい思いもするが慣れてしまえば楽なもの。


ゼロ感の本領を発揮して心霊的なものは全て無視することで、これまで何事もなく事故物件を処理してきた。


我ながら良いのか悪いのかわからないが、姉は姉で俺は俺で、お互いの利益がバッチリ交差するWIN-WINの関係を築いていた。




一人暮らし専門の引越し業者が洗濯機と冷蔵庫、そしてテレビとダンボール数個という俺の荷物を一気に部屋に運び込む。


ものの数分で搬入作業が終わった。


これだけしかないのだから当然引越し代金も格安だ。


自分でも搬入できない量ではないが、三十路になろうかというこの歳で肉体労働は避けたい。


俺は頭脳系なのだ。


引越し業者の兄ちゃんに代金と缶コーヒーを手渡し見送る。


姉に引越し完了の旨をラインして改めて部屋の中を見渡す。


広い。


ミニマリストと言えば聞こえはいいが要は家具が何もないのだ。


テレビと布団しかない部屋に胡座をかいて座る。


壁に背中をもたれさせテレビのスイッチをつける。


夕方のニュース番組が始まったところだった。


ヴヴヴと音がして携帯が震える。


姉からの返信は「ご苦労さん。よろしく」という簡素なものだった。


「…………」


簡素を通り越して空虚だ。


もう少し何かあってもいいだろうに。


いい歳した弟をラインのみであちらこちらへと振り回しておいて労いの気持ちも湧かないのだろうか。


「…………」


湧かないんだろうな。


ここ数年姉のそういう優しさは見たことがない。


子供の頃は何かと面倒を見てくれる良い姉だったが、大人になるに従ってどんどん女性らしさや気使いなどがなくなっていったように思う。


まあ俺ら世代では最年長であり実家に戻れば次期当主として親族のトップに立つお方なので、こちらとしても文句を言える立場ではないのだが、せめて東京にいる間は数少ない姉弟として仲良くしたいものだ。




ダンボールからバスタオルを取り出して風呂場に行く。


ボディソープの類は捨ててきてしまったので買いに行かなければならない。


しかし今日はもう疲れた。


荷物が少ないとは言え一人で引越しの準備やら手続きやらを全てやり切るのは手間だった。


シャワーだけ浴びて酒飲んで寝よう。


そう決めた。




風呂場から出るとテレビが消えていた。


付けっ放しで風呂場に行ったはずだと思ったが。


まあいい。


不可解なことは気にしないに限る。


どうせ考えたって怖いだけだ。


ダンボールからグラスとジャックダニエルの瓶を取り出す。


グラスを軽くすすいで水気を切りジャックを注ぐ。


何の色気もない飲み方だがこれが一番美味いのだ。


手間をかけず最短でジャックを味わう。


飲み方までミニマリストになってしまったのは生来の面倒くさがりが原因だと思うが自分では気に入っている。


テレビ以外何もない部屋で床の上にジャックとグラスを並べて胡座で楽しむ。


篠宮宗一郎 29歳。


大人の男ぶってはいるが姉のパシリに使われる情けない男である。




カタン、と玄関から音がした。


新聞受けに何かが入れられたようだ。


確認なんかしない。


何かがあればそれは良くないものだ。


霊的なものでないのなら明日の朝に確認しても間に合うだろう。




コンコンと窓を叩く音がする。


聞こえないことにする。


コツンコツンと音が大きくなった気がする。


テレビのボリュームを上げる。


バンバンと窓を強く叩く音がする。


これはもう無視する。


精神力の問題だ。


無視されるのは人も霊も同じく辛いものだ。


やがて窓を叩く音は聞こえなくなった。


どうやら今夜は俺の勝ちのようだ。


初日からこれでは先が思いやられる。




翌日からも怪現象らしいことは続いたが全て無視した。


ある時はシャンプー中に背中を伝う指先の感覚があったり、トイレ中に部屋の中を走り回る音がしたり、テレビの電源が執拗に落ちたり、電気が点いたり消えたり、玄関を開けて入ろうとしたら誰かが内側から抑えているように扉が重かったり、部屋の隅から誰かの視線を感じたりしたが全て無視した。


全ては気のせいであり、いかに誰かが何かを仕掛けてこようが俺はゼロ感、何も感じないのだ。




そんなこんなでどうやらいるらしい霊と俺の攻防は続き、やがて俺が勝利することになるのだが、最後にこれはヤバイということがあった。


仕事を終えた俺は会社から通勤用の自転車を思い切り漕いで自宅へと戻った。


雨が降り出してから数分だったが、いかんせん雨脚が強く、干しっぱなしにしている洗濯物が雨の餌食になっている可能性が高かった。


迂闊にも電気をつけず急いで部屋の中を横切り、ベランダへ出る。


まだ日は落ち切っておらず薄暮の時間というやつで、薄暗いながらも周りの様子は把握できる暗さだった。


急いで洗濯物を取り込んでいると干してあるTシャツの向こうに気配がした。


目の前にTシャツが広げて干してあり視界の半分はTシャツだ。


そのTシャツの向こう側、落とした視線の先に足が見えた。


裸足の女の足。


赤いペディキュアが塗られている。


薄暗い雨のベランダ。


雨に濡れた女の足は寒々しくて哀れを感じさせる。


どうするべきか迷ったが、俺はそのTシャツは無視して振り返り、Tシャツの方を見ないまま手に取れるだけの洗濯物を取り込んで部屋に入った。


その夜、女のすすり泣く声がずっと聞こえていた気がするが無視した。


翌日からは全く何も起きなくなった。




そんなこんなで春を迎えた。


ヴヴヴと音がして携帯が震えた。


姉からのラインには「ご苦労様!次は神保町だから荷物まとめておいてね(^_−)−☆」と書かれていた。


顔文字で機嫌を取るくらいには次の物件はヤバいのだろう。

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