第302話 【真珠】野生のヒト属のオス?


 音楽ルームに、木嶋さんが飲み物と茶菓子を運び終えると、母は話し合いという名のお説教の会場──もとい、居間へと戻っていった。


 貴志と祖母は、どんな話を交わしているのだろう。

 その内容が、激しく、気になった。


 昼寝から起きてしばらくの間、貴志が葵衣に対して抱く想いに対し、言いようのない不安を募らせていたわたし。

 けれど、貴志が葵衣に向ける気持ちは、おそらく恋情ではないと、紅子との一連の会話から、何となくではあるが察することができた。



 だが本日は、わたしにとっての厄日なのだろう──『貴志、人妻横恋慕事件』は誤解だったと、ホッとしたのも束の間。今度は祖母と母の言葉から受けた衝撃の内容に唖然とするばかり。



 祖母の怒声を聞いた貴志本人が「違う」と呟いていたので、誤解であることを祈るばかりだが、恋愛経験のないわたしにとって、これが普通のことなのか、そうでないのか──恋愛における常識の正誤判断ができない。


 ただひとつだけ、ハッキリと言えることがあるとすれば、わたしの心の中は異常事態宣言の警鐘マークが点灯中──ということだけだ。


 伊佐子時代に、何故、恋バナという摩訶不思議な話題に参加する機会が皆無だったのだろう。

 わたしの恋愛に対する平衡感覚を養うためにも、必要不可欠な要素だったはずなのに!


 そこで突如として、爽やかな似非えせ紳士の笑顔で伊佐子わたしに絡みつく、見目良い青年の姿が浮かび上がる。


 そうだ!

 元凶は、我が実弟──尊だ!


 周りには、お付き合いをしているカップルもいた。

 わたしが少しでも恋愛に興味を持ち始めると、その都度、アヤツからの邪魔が入ったことを思い出す。

 そんなことが続いたものだから、いつしか友人達もわたしに恋バナを振ることがなくなったのだ。


 現在の緊急事態の対処方法さえ思いつかないのは、経験値が不足している故だと気づいた途端、尊に対しての恨みがムクムクと湧き上がる。


 尊め!

 おぬしは常に、婦女子を侍らせていたと言うのに!


 いや──もう、全部まとめて、貴志もだ!


 何故、こんなにも苦しい想いを、一日のうちに何度もせねばならんのだ!

 ──しかも別件で!


 二人に対する暗澹あんたんたる気持ちが、心の中に垂れ込める。


 やり場のない苛立ちを抱えながらも、わたしは居間の方角に目線だけ動かした。

 ここからは、居間の中の様子は分からない。それでも、気になってしまうのだ。


 ──救いがあるとすれば、貴志の呟いた言葉。


 否定の科白から連想するに、何か理由があるのだとは思う……思うのだが、真相は何であるのか、知りたくて仕方がない。



 貴志のことが、大好きだから──自分以外の女性に、その心が向くのは、やはり悲しい。できれば、そうなって欲しくない。



 そう思ってしまうことが、良いことなのか、悪いことなのか──そんなことさえも分からない、己の恋愛スキルの無さを嘆くばかりだ。


 伊佐子時代には、一度たりとこんな悩みを持ったことなどなかった。

 そう──記憶のある限りでは、なかったはずなのに……。



 この──貴志に対する独占欲は、わたしの我が儘なのだろうか?

 実は、今日の科博訪問後から、そんな考えが頭の隅を掠めるようになっている。


 貴志がわたしを、大切に想ってくれていることは、勿論知っている。


 でも、科博の『大地を駆ける生命』を見学中に、ある重要な事実に、気づいてしまったのだ。


 今まで、知識としては知っていたはずなのに、自分と貴志の関係に対しては、当て嵌めたことのなかったその考えとは──



 『生物における、メスとオスの役割の違いについて』だ。



 メスは子を守り育てる性であるが、オスの役割は少しだけ異なる。

 動物の雄は、育てるというよりも、より多くの遺伝子を残すことに、存在価値の重きを置いている。



 ライオンの群れのリーダー然り、猿山のボス然り──だ。



 命を育む土壌としての役割を持つメスとは違い、オスは常に生命の欠片を撒き続ける側──しゅの繁栄という使命を忠実に遂行した結果なのだろうが──まさしくたねを蒔く役目を担っているのだ。


 それは、ヒト属としての社会性や倫理観を伴わない、動物の本能という観点から俯瞰ふかんすると、ごく当たり前のこと。


 だから、現世人類のオスである男性に於いても、不特定多数を同時に愛し、生殖活動を果たすことが可能なのだと思う。


 それは、ヒトの歴史の中での後宮や大奥、果てはハーレムまでもが古今東西に関わりなく、公然と機能していたことからもうかがえる。

 それに加え、直近で出会ったアルサラームの王族のように、一夫多妻制がまかり通ってしまうことにも思い至り、自分の考えに妙な裏付けができてしまったのだ。


 更には、ラシードのあの世迷言──『一妻多夫制度』が、歴史の中を見ても非常に稀であることからも、オスメスの在り方の違いは一目瞭然だった。



 そのことから、貴志が想いを注ぐ異性が、わたし一人だけとは限らないことに気づき、その瞬間──頭の中が真っ白になり、サーッと血の気が引いた。


 一緒に行動し、展示を楽しんでいた三人娘が、何事か!?──と驚き慌て、わたしの身体を抱き上げてしまうくらいには、ノックアウト状態に陥った。


 わたしの顔面蒼白具合から、体調不良を心配した加奈ちゃんに抱き上げられ、そのまま爆睡後、自宅のベッドに瞬間移動していたのは、つい先ほどのこと。



 貴志は、わたしを大切だと言ってくれはしたけれど、その生物学的考えでいくと、葵衣も大切な存在に含まれる可能性に気づき、わたしの頭の中は荒れに荒れた。


 貴志がわたしに伝えてくれた温かな想いと言葉を、複数の女性に同じように伝えているかもしれないことに思い至ったときの、あの絶望感といったら、言葉に表すことは到底できない。


 結果から言うと、葵衣と貴志の関係は、そういった種の繁栄を目的とした間柄ではなかったのだが、一度生まれた考えは脳内にこびりつき、先ほどから消えることなく居座ったままだ。


 そして現在、わたしの頭の中は、地球史と共に、壮大な生命の営みの過程が、絶え間なく映像となって流れている有り様だったりする。


 ──脳内は、大混乱の極みだ。




「なんだ、真珠。難しい顔をして」


 紅子が、お気に入りの煎餅をかじりながら質問してきた。


「いや……その──本能と自制心の狭間で揺れる生命の存在が、どうにも複雑怪奇で……」


 わたしの言葉を耳にした紅子は、「なんだそれは」と口にしてから、その眉間に皺を寄せた。


 彼女の様子を視界に入れつつ、わたしは先ほどまで考えていたことを口にする。



「野生の動物が、強い雄と多数の雌との間で子孫を繁栄させてきたことは、今日の科博で改めて理解したの──で、貴志も『野生のヒト属のオス』だと気づいてしまったところを──美沙子ママと紅子が話していた内容に襲撃されて……」


 紅子は、キョトンとした表情を見せてから、苦笑する。


「『野生のヒト属の雄』? ……なんだそれは。話せば話すほど、お前は規格外だな。それに……あの話も理解していたのか? まあ、お前は、わたしの想像の斜め上を行く──『の規格外』だからな、別に驚きはしないが──面白い!」



 ぶっちぎりで規格外代表格の紅子から、「規格外、規格外」と連呼され、挙げ句の果てには「真性」とまで言われた衝撃が、ものすごい。


 地味に傷ついた自分の心をそっと慰めつつ──話が逸れることになってしまうので、グッと堪えて反論せず、わたしは静かに頷いてみせた。

 念のために言っておくが、「規格外」発言に納得したわけではない。断じて。


 紅子は顎に手を添わせながら、わたしの目を見つめる。



「貴志の過去については、サル山の大将だったかもしれんが、わたしはよく知らん──でもな、今のヤツに限れば『違う』と言える。あれは、昔から意外とロマンチストなところもあるからな。『唯一の存在』に巡り会えたら、まず間違いなく、執着しまくるだろう。それも周囲が危ぶむほどに──相当厄介な『野生のヒト属のオス』だぞ」



 紅子の言葉に、わたしは再び溜め息を洩らす。


 それならば──わたしだけに、執着してくれたらいいのに。

 今も、これから先の未来も。


 貴志が注いでくれた愛情は間違いなく、わたしに幸福感を与えてくれた筈なのに、生命繁栄としゅの保存に傾いた頭の中は、そう簡単にその考えを覆すことができない。




 麦茶を口に含み、落ち着こうと頑張ってみる。

 けれど、その試みは失敗し、最後は深い溜め息が落ちてしまった。


 その様子を心配した兄が、わたしに声をかける。


「真珠、お手洗いに行って、その後、美沙子さんに甘えてきたら? 気になるんでしょう?」


 わたしは、兄の言葉に顔を上げ、首をコテリと倒した。


 ──トイレには、行きたくない。

 兄は何故、そんなことを言うのだろう?


 晴夏も兄の発言に対して、不思議そうな表情をしている。


 けれど、紅子だけはその言葉を耳にした途端、フッと楽しげに笑い、ソファから立ち上がると、わたしを手招きした。


「真珠、居間の近くのトイレに連れて行ってやる──この紅子さまが、少し手助けしてやろう。こんな時は、美沙子に甘えればいいさ」


 紅子の言葉により、兄の言わんとしていた意味を理解するに至ったわたしは、すぐさま起立する。


 お手洗いに行きがてら、母恋しさの演技にて、居間の中に紛れ込め、と──兄と紅子の二人は、そうほのめかしているのだ。


 紅子が「これは愉快だ」と、口角を上げる。


「真珠──穂高に、感謝しろよ」


 兄は、輝く笑顔を振りまくが、素知らぬふりを決め込んだ。


「紅子さん、なんのことでしょう? そんなことよりも──真珠、早く行っておいで」


 優雅に笑う兄の姿は、したたかな策士のようで──『この音』の『月ヶ瀬穂高』を彷彿とさせた。



 紅子に手を引かれたわたしは、廊下へと足を一歩踏み出した。







【後書き】

注意)本文中の考えは、あくまでも真珠独自の考えということで、ご了承いただけますと幸いです。

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