第290話 【真珠】不思議な声


 『フーコーの振り子』の前には親子連れの人だかりができていて、これ以上前に進むことができない。


 一度見入ってしまうと、あの動きに魅入られてしまうので、先頭に進むまで、しばらく待つ必要がある。

 わたしは咲也と共に、見学している人々の邪魔をしないよう、その後ろで静かに待機した。


「真珠、上から見るか? お前が嫌じゃなければ、抱き上げてやるぞ」


 咲也が気を遣ってくれたけれど、少し考えて、やはり首を横に振る。


 ちょっとだけ恥ずかしい──貴志には是非とも抱き上げてもらいたいし、なんならずっとくっついていたい。

 そして父との接触……いや、親子の触れ合いも今朝克服したばかり。

 優吾に於いては恥ずかしいと言う以前に、わたしに選択権などハナから与えられることはない。


 でも、咲也に抱っこされるのは、まだちょっと抵抗がある。


 子供のクセにと思われても、心は大人。

 ソコはやはり譲れない。


 咲也もこの返答をある程度予測していたようで無理強いすることもなく、「じゃあ、もう少し待つぞ」と周囲には聞こえないような囁き声でわたしに伝えてくれた。


 この位置からは、振り子の先端についたおもりは見えないが、日本館の天井から垂らされた弦の動きだけはよく見える。

 重さ46.9kgの大きなステンレス球が、19.5mの長くて丈夫なステンレス線に連動している筈だ。


 『この音』の世界の地球──自転速度も、伊佐子のいた『あちら側』と同じようだ。




 しばらくすると、弦の先端についた艷やかな銀色の球体の動きが見えるようになった。


 ピカピカと輝く金属製の錘は、ゆっくりと地球の動きに合わせて動いていく。


 無重力状態では同一方向にしか動かない振り子が、この地球上では、その自然の規律にそって揺れる──科学で証明されたことではあるけれど、創造主がいるのだとしたら、なんと美しい法則を当て嵌めたのかと拍手を送りたい。


 その秘密を解き明かすに至った人類の探究心と叡智を噛み締めつつ、わたしは振り子の滑らかな動きに吸い込まれていくような感覚に酔いしれた。



 夢見心地になっていたところ──近くでわたしの名を呼ぶ声が聞こえた──ような気がした。



「あれは『真珠』だ──」

「え? 真珠って、あの……『真珠』?」



 どこかで耳にしたことのあるその声は、幼い子供のもの。

 似通っているような、けれど微妙に違う二種類の声音。



 振り子の動きが催眠術のようにわたしの意識を絡め取る瞬間、耳にしたその不思議な声は──空耳、だったのだろうか?



          …



 唐突に貴志の声が、耳元に降ってきた。


「真珠──次、呼ばれるから、そろそろ起きろ」


 真上から届いたその言葉に、わたしはパチリと目を覚ます。



 呼ばれる?

 なんのことだ?

 それよりも、わたしは寝ていたのだろうか?



 確か、つい先ほどまで、咲也と共に『フーコーの振り子』をウットリ眺めていた筈なのに。



 瞬きをしただけで、時空をワープしてしまった気分になり、現況がまったく判別不能だ。

 理解できたのは、貴志に抱えられているという状況だけ。


 身体は子供とはいえ、力の入っていない熟睡状態で抱え続けるのは、相当難儀だったろう。

 わたしはお礼を口にすると共に貴志に侘び、次いで、寝ぼけ眼でキョロキョロと周囲を見回した。


 そこは、ものすごい人数で溢れかえる小さな空間だった。


 階段から繋がるレストランの入り口前であることが分かり、もう昼食の時間なのか、と驚きを覚える。



 朝──それも未明から色々とあった。

 優吾にも振り回され、神経も削られた。


 そこにきて『主人公』現るの報に仰天したわたしのお子サマ脳は、処理可能な情報量の許容範囲で限界突破したのだろう。


 脳が身体に休息を求め、突然睡眠信号を発したのかもしれない。


 どうやって眠りについたのだろう?

 まさか愚図ってはいないとは思うが、前回の科博訪問時のことを思い出し、不安になる。

 眠りに落ちた記憶がまったくないのだ。


「わたし、いつ寝たの?」


 恐る恐る確認を取ると、貴志が状況説明してくれた──が、何故か呆れ顔だ。



サクが『真珠が、いきなり寝落ちた』と慌てて、お前を抱えてやってきたんだ。あいつと手を繋いだ体勢で寝ていたらしいぞ──寝る子は育つとは言うが──ところ構わず、寝るな」



 苦言を呈する貴志の声に、気になる言葉が含まれていた。


 ──抱えてきた?


 わたしはまさか……咲也に抱っこをされてしまったのだろうか?

 あんなに「恥ずかしい」などと、ほざいていた舌の根も乾かぬうちに。


 不可抗力とはいえ、なんたる失態!


 ──いや、もう今更だ。


 所詮、精神は大人であっても身体は子供。

 「何を色気付いて」と揶揄からかわれるのがオチ──潔く諦めたほうがいいのだろう。


 己の預かり知らぬうちの出来事で、貴志も特段気にしている様子もない。


 わたしは、地球と宇宙の神秘によって生まれる『魅惑のリズム』に則った振り子の動きの虜となり、いつの間にか──寝ていた、と──そういうことなのだろう。


 しかも立ち寝。

 間違いなく、ものすごい荒技をご披露してしまったようだ。


 地味に恥ずかしい……のだが──考えようによっては、前回訪れた時のように号泣せずに済んだのだから、そこは良しとするべきなのかもしれない。



 そういえば、兄と晴夏はお土産を買えたのだろうか?

 美少年二人組は、目の前の椅子に並んで腰掛けていた。


 兄の膝の上には元素の描かれた図鑑が開かれ、二人してその本を覗き込んでいる。

 石や鉱物が好きらしい晴夏は、兄と共に図鑑を眺め、楽しそうに語らっているようだ。


 わたしもその会話に是非とも入りたい──なんなら元素記号の覚え方の呪文を、キミタチ二人に教えて差し上げようぞ。


 わたしは貴志に床へおろしてもらい、二人の近くに歩み寄るべく足を一歩踏みだす。


 そこで突然、このランチタイムで遂行させるべきミッションを思い出し、わたしは再び周囲に目を向けた。


 ──愛花はどこだろう?


 ランチ待ちの人々で溢れかえる空間に、彼女の姿は見えなかった。

 貴志が受付表に予約を記入するよりも先に、彼らの名前は記されていたので、もしかしたら既にレストラン内で食事をしているのかもしれない。



「『葛城』様、お席の準備ができました」


 スタッフに呼ばれ、わたし達はレストランのガラス扉の向こう側へと入った。




 その場を立ち去る際、誰かの視線を感じて、わたしは咄嗟に振り返る。



 けれど、見知った人物は見当たらず、首を傾げるばかり。




 そういえば、『フーコーの振り子』の前でも、誰かに名前を呼ばれたような気がしたのだった。



 あのウットリした感覚が睡魔だとしたら、夢見心地状態の脳が作り上げた空耳の可能性も高い。

 だから、断言はできない……のだが──何故か、あの不思議な声に、聞き覚えがある……ような気がしたのだ。



「真珠? どうしたの? 難しい顔しちゃって。はぐれるわよ」



 理香の声で我にかえり、彼女の顔を見ながら首を左右に振った。


 今は考えても、答えが出そうもない。


「あ……、うん。何食べようかなって悩んでただけ」


 当たり障りのない返答をすると、理香は「相変わらず食いしん坊ね」と笑う。

 彼女から差し出された手を繋ぎ、わたしはスタッフに案内された席についた。


 それと同時に、少し離れた席に愛花の姿を発見する。

 既に食事を開始しているようだ。



 わたしはリュックにしまったキーホルダーを取り出し、オーダーを終えたら渡しに行こうと計画を立てる。



 この心の中は愛花でいっぱいになり、先ほど奇妙な声を耳にした現象については、わたしの中から完全に消えてしまった。





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