第260話 【幕間・真珠】静かな夜 前編
「ありがとう。実は、喉が渇いていたの。貴志が寝ていたら水だけ飲んで、部屋に戻るつもりだったんだ」
手渡されたペットボトルを受け取りながら、お礼を伝える。
冷蔵庫で冷やされていたのだろう、ひんやりとしてツルリとした感触が掌に伝わった。
ボトルの側面を頬に当てたくなったので、飲む前にその冷たさを肌で堪能することにする。
貴志は何も言わず、わたしの行動を観察しながら微笑みを見せる。
――なんとなく空気が重い。
客間を出る直前に彼が呟いた言葉――小さな声だったため、聞き取ることはできなかったけれど、その内容が影響しているのだろうか。
気のせいかもしれない。
でも、この雰囲気を払拭したくて、何でもいいから話す話題を作ろうと必死に頭を働かせる。
そうだ――
「そう言えば今日、紅子と演奏した『愛の歌』――最初は、あまり……乗り気じゃなかったでしょう? 珍しいなと思っていたんだけど、何か言いかけて止めていたよね。どうしたの?」
わたしの質問に、一瞬息を呑んだ貴志が、少しバツの悪そうな表情を見せる。
「あの曲――紅から、俺とお前を連想したと言われただろう?」
貴志のその様子を不思議に思いはしたが、首を傾げつつもその問いに答える。
「うん。形だけの婚約とは言え、お祝いも兼ねて演奏してくれたのかな、と思っていたんだけど――あれ? でも紅子がそのことを知ったのは美沙子ママに聞いてから……だよね?」
既に昨日、貴志は紅子からこの曲に付き合えと打診を受けていたはずだ。
「お前が言うように、美沙から話を聞いた後だから、おそらく祝う意味合いも含まれていたとは思う。が、紅は、俺とお前のことを思い出して演奏したくなったと言っていたからな――ただ単に弾きたくなったんだろう」
素っ気ない物言いだ。
でも、何か思うところがあるような含みのある言い方にも聞こえ、思い切ってもう少しだけ踏み込んだ質問をしてみる。
「うん? じゃあ、どうして貴志はちょっと不機嫌になったの?」
普段であれば、ここまで深追いはしないけれど、先程の重苦しさに戻るよりはマシだと、興味津々を装う眼差しで問いかけた。
わたしの止まらぬ追及に、貴志の表情が微妙に渋いものへと変わる。
「あれは――俺も、お前と『天球』の森を歩いた時間を重ねていた曲だったんだ。まさか紅も同じことを考えていたとは思わなくて――
言い淀んだ貴志は、一度深呼吸すると、観念したようにその理由を口にのせる。
「『天球』で過ごしたあの数日間は、俺にとって大切な――生まれ変わるための時間だった気がして、その時間を連想する曲を……人前で披露することが
照れ隠しなのか、見る見るうちに眉間に皺が寄っていく。
当時に赤面し始める貴志の態度はどこか幼く感じ、その様子に愛しさがいや増すばかり。
どうしよう。
ギュッと抱きしめて、頭を撫でたい衝動を抑えるのは至難の業だ。
これは、本当に、とても困った。
貴志はわたしと育んだ『愛の歌』のような時間を、心の中で大切に留めておきたかったと、そう言っているのだ。
意外とロマンチスト!
――そう思ってマジマジと貴志の顔を見つめる。
なんだか、その思いが無性に嬉しくて、そのくすぐったさに頬がだらしなく緩んでしまう。
いつもよりも少しだけ子供っぽい貴志の様子が珍しくて、わたしは堪えきれずにフフフッと笑う。
その様子を見た貴志が、少し拗ねたような表情を見せた。
中身年齢は貴志よりもお姉さんを自負しているわたしだが、外見は幼女。そんなチビっ子に「可愛い」などと思われていることに気づいたら、複雑な気分にもなるのだろう。
貴志のその手が、わたしに向かって伸びてくる。
まずいマズイ。
ちょっと可愛いと思ってしまったのが、バレてしまったのかもしれない。
デコピン再びか?
それとも、さっきのように鼻を摘まれるのか?
そう思ったわたしは、ちょっとだけ身構える。
さあ、どう出るのだ!?――と、貴志を警戒し、次の行動を待って、衝撃回避の準備に取り掛かる。
わたしは首を竦ませながら貴志を注視していたところ、彼はその動きを突然止めた。
あれ?
とうしたのだろう?
伸びた手は宙に浮き、わたしに触れることを躊躇う様子が見受けられる。
貴志がそんな態度をとる意味が皆目分からず、首を傾げるばかり。
彼の双眸が複雑に揺れる――そこに宿るのは、少しの後悔と寂しさを含んだ光だった。
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