第215話 【真珠】『悪い男』と『悪い女』
貴志がコーヒーテーブルに置かれた時計を確認する。
既に日付が変わり、子供が起きているには不自然な時間帯だ。
「お前はそろそろ休んだほうがいい」
そう言って、彼は缶ビールのプルトップに手をかけた。
「貴志は一緒に寝ないの?」
わたしが訊ねると、貴志は少し気まずそうな表情を見せる。
「少し飲んで、そのまま何も考えずに眠りたいんだ」
彼の言葉に、わたしは肩を落とす。
「ごめんなさい。わたしが起こしちゃったから、眠れなくなっちゃったんだよね」
申し訳ない気持ちになって謝ると、貴志は言葉を詰まらせ、意を決したように語りはじめた。
「今夜のお前――今は子供に戻って見えるが、夕食後から何故か……成長した姿に見えることが時々あって、正直かなり……マズかった」
貴志は何を思い出しているのだろうか、顔下半分をその手で隠し、心なしか頬が紅潮しているようだ。
「お前が現実には子供だと分かっているから、自制できた。が、惑わされそうになった――とだけ言っておく。後は……察してくれ」
エルが告げた内容を思い出す――理の違う魂を持つ心と、それにそぐわない器。そこから生じる揺らぎに一種類の酒精が加わることにより、男性は理性を奪われ、惑わされるという。
貴志は既にワインを飲んでいる。
今からビールを口にすれば、それも治まるのだろう。
けれど、子供の姿に戻ってしまうことに、寂しさを覚えずにはいられない。
貴志は
彼の一時帰国もそろそろ終わりを告げ、これから暫く離れて過ごす時間が訪れる。
子供の姿では、他の女性に太刀打ちできない気がして、その不安を彼にぶつけたばかり。
貴志は裏切ることはないと断言し、彼からの深い愛情を感じることもできた。
それでも、心の奥底では、気持ちに余裕を持つことはできない。
恋愛において未熟者ゆえ、正誤が分からず、自分に自信がもてないのだ。
だから、大人の姿のわたしを、貴志の瞳に焼き付けたいと思ってしまい、寂しさを感じてしまったというわけだ。
でも、これで、彼を悩ませることになった現象も、複数のアルコール摂取により落ち着くはずだ。
本来の姿に戻ってしまうことを少しだけ残念に思い、彼が喉の渇きを潤す様子を黙って見守った。
ビールを流し込み、一息ついた貴志がこちらを見て首を傾げて、目をこする。
そこでわたしはハタと気づいた。
――先ほど貴志は何と言っていた?
『今は子供に戻って見えるが』
確か、そんなことを洩らしていなかったか?
――と、いうことは、酒気は全て抜けていたということ?
――で、あるならば、今また口にしたお酒は一種類。
「ねえ、貴志? もしかして、またわたしのこと……子供に見えなくなって……いる?」
貴志が目頭を抑えて何度も瞬きを繰り返し、深く息を吐いてから吸い込んだ。
「いや……その通りなんだが……どうしてそれを……」
わたしは貴志にもたれかかり、うふふと笑う。
本来の精神年齢くらいには、見えているのだろうか?
そう思うと、実は嬉しい。
「子供に戻ってほしい? それとも、今夜は……大人のままで、いてほしい?」
貴志に身を預けたまま上向くと、わたしは熱のある潤んだ眼差しで、その双眸を見つめた。
ギョッとしたような表情を見せた彼は反射的に仰け反ると、赤くなりながら視線を逸らしてしまう。
「わたしは、できることなら、貴志に成長した姿を覚えていてほしい――駄目かな? つらい? もし大変だったら、戻し方はエルから聞いているの。だから……貴志が、選んで?」
深い溜め息が、彼の口から吐き出される。
「正直、心は休まらないが――お前は、それを望んでいるんだろう?」
それだけ言うと、貴志は出会った当初よく見せていた、色気ダダ漏れの
慣れていた筈なのに、その表情を目にするだけでドキリと心臓が跳ね上がる。
嗚呼、わたしの心も、休まりそうもない。
――でも、今夜くらいは、いいでしょう?
貴志を見上げると、彼はわたしの髪を手に取り、少し悪戯な微笑を浮かべ、そこに口づける。
「ただし――何か起きても、知らないぞ?」
軽口を叩き、貴志がニヤリと笑う。
まったく、本当に『悪い男』だ――一瞬、自分が子供だということを忘れ、すべてを許したいと思ってしまったではないか。
でも、大丈夫――貴志は、少しの意趣返しを込めて、そう言って
だから、わたしもそれにあわせて返答した。
「多少なら……何かあっても――
彼を真似て、不敵な笑顔で挑発する。
「おまえは……『悪い女』だ。なかなか、末恐ろしい」
楽しそうに笑う貴志が、わたしをゆっくりとベッドに横たえる。
「貴志、抱きしめて――朝まで、離さないで。今夜だけは」
彼に抱き着き、懇願する。
「お前は……その姿で、それを言うな――拷問に近い」
半ば独り言のような呟きが耳に心地よい。
なぜだろう。
彼の声が、子守唄のように徐々に遠のき、くぐもった音として伝わりはじめる。
「今夜は、ありがとう。貴志、大好き……ううん、この気持ちは……」
そこまで口にしたところで、とうとうわたしは目を開けていられなくなった。
それは前触れもなく子供の身体に、突然襲ってくる。
――睡魔だ。
「真珠?」
突然、寝息に近い呼吸がわたしから聞こえ、貴志の拍子抜けしたような声が部屋に響いた。
この眠気がうらめしい。
折角、良い雰囲気だったのに。
「まったく……月ヶ瀬の晩と同じ展開か……懐かしいな。でも、今夜は――一緒に眠ろう」
彼の優しく笑う声が届く。
どんな表情をしているのだろう。
知りたいけれど、瞼が重くて
彼の大きな掌が、頬に触れたような気がした。
(お願い……朝まで、離さないでね)
もう一度だけ、そう伝えたかったけれど、既に声が出ない。
折角、二人きりでいられる最後の夜なのに。
残念に思いつつ、急激な眠さが思考を閉ざす。
遠くなる意識の向こうで、突然、貴志が慌てたように起き上がる振動が伝わった。
ああ……この音は――
貴志のスマートフォンのメッセージ着信音だ――こんな夜中に、誰だろう?
微睡みの渦に巻き込まれながら、貴志の話し声が聞こえた。
電話をかけたの?
誰と話しをしているの?
話の内容が気にはなったけれど、もうこれ以上、意識を保つのは難しかった。
(ああ、そうだ……今日は、ハルが遊びに来るんだっけ……翔平にも……謝らなくちゃいけないんだった……)
絡め取られるように眠りの国へと
【後書き】
読んでいただきありがとうございます。
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絵師の紗倉さんに真珠&貴志(高校生&大人ver.)を描いていただきました。とっても美しい作品にドキドキです。
貴志の目には、時々こんな風に映っていたのかな、と想像(*^^*)
https://31720.mitemin.net/i466468/
https://31720.mitemin.net/i466469/
紗倉さんの美麗イラストは、こちらからも拝見できます。
https://kabe-uchiroom.com/mypage/?id=1229753913340882944
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