第210話 【真珠】『シエル』


 エルの黒曜石の瞳が、不可思議な光を湛える。

 そこにあるのは、思慕の念。


 彼と共に過ごした今日一日――一度たりと見せなかった、その心。



 思いもよらない言の葉に、エルの手に重ねられた自らの右手が震えた。


 彼はわたしに、何を求めているのだろう。

 想像すらできなかった事態に、鼓動が速度を上げた。



 ――感情を表すことのない人だと言っていたのは『ラシード』?



 出会った当初、伊佐子の魂を望んでいると感じたのは、わたしの錯覚だったのか。



 権謀術数渦巻く王宮生活――彼は本音を隠し、相手をあざむくことすら難なくしてのける日常を送っているのかもしれない。



 わたしを見つめる眼差しが、貴志のそれと重なる。



 今、エルがその瞳に映しているのは――真珠。


 間違いようもない。

 目の前で、彼が望んだのは――わたし自身だ。



 あの時感じた疑問を、何故そのままにしていたのだろう。

 エルはハッキリと言葉にして、わたしに伝えていたではないか。


 シェ・ラへの『音の奉納』の際、彼が囁くようにその口にのせた科白セリフが耳奥に流れる。



 『運命の導きに敬意を示し、我が女神――


   貴女に……



 ――神の御前にて、彼は嘘偽りのない心を告げていたのだ。



 あの時、彼が見せた満足そうな笑顔。

 その科白セリフと笑顔に戸惑った、この心。

 ――今やっと、腑に落ちた。



 月が出なければ――おもむろに呟いたエルの言葉がよみがえり、この胸に波紋を広げる。



 嗚呼、そうか。

 天空に月が懸からなければ、あれが最初で最後――彼がわたしに伝えた『真の心』になる筈だったのだ。





 エルが微笑を見せ、その美しいかんばせを夜空に向ける。

 その視線の先には、煌々と光を放つ白い月。



「月は陽光を受けて輝く、太陽の愛し子。

 『伴侶』となる者には光の『祝福』を、心を許した『伴侶』には月光の『契り』を――私の名を――妻になる者でさえも口にすることのない、この名を……呼んでほしい。

 真名を預ける――それが、この想いの――『証』」



 わたしは首を左右に振りつづける。

 ――どうして良いのか、分からない。



 こんな風に、誰かにはっきりとした言葉で『想い』を告げられたことは一度たりとない。

 そう――貴志からも、音色でそれを伝えられたことはあれど――口にのせて『愛』を囁かれたことは……一度もないのだ。



 心が動転している。

 けれど、答えなくては。


 狼狽えながらも、振り絞るように声を出す。


「う……受けとれない……だって……だって、わたし……っ」


 心も身体も、声でさえも震えが止まらない。

 動悸で顔に熱が集まり、両目にジワリと涙が滲む。

 


 わたしは胸元で輝く『宝物の証』――貴志から贈られたペンダントを握りしめた。



「一度だけでいい――私の名を、貴女に呼んでいただけたら――それだけで本望。

 同じ『想い』を返して欲しい訳ではありません。

 ただ、この『心』のみ、此処へ置いていくことを許していただきたい。それが、私の願い」



 エルの双眸から『想い』の奔流が流れ込み、わたしの中に満ちていく。


 彼の心に同調しているのだ。

 切ない痛みが身体中を巡り、身動きがとれない。



 どうしたら?

 どうしたらいい?


 エルがわたしの右の掌を、両手で包む。



「私は――この秘匿された真名シェ・ラ・シエル=アルサラームの名に懸けて、月の女神シェ・ティの御前で誓いましょう――私は貴女を護る為に『在る』ことを」



 エルが顔を上げ、動揺で揺れるこの瞳を捕える。


 わたしは何も応えられずに、ただ茫然と佇むだけ。



 この身体の震えに気づいたエルが、苦しげに瞼を細め、わたしの右手からその両手を離した。



「私の願いは、この名を呼んでもらうこと――一度だけでいい……『シエル』と、ただ一言……」



 シエルと呼べるのは、王族のみ。

 本来であれば敬う意味を込めて『シエル』と呼ばねばならぬ、王族の名前。


 しかも彼の名は、王族でさえも滅多なことでは口に出すことのできない――隠された名だ。



 彼は何故、この願いを口にしたのだろう。



 貴志を想う自分の姿と、エルの姿が重なった。


 貴志が別の女性を想うことを想像しただけで息が詰まった、あの苦しさ。

 他の女性と歩む未来を思い描いただけで、彼を誰にも譲れないと感じた強い独占欲。



 エルは――どんな思いで、わたしと貴志を見ていたのだろう。



 目を閉じて、深く息を吸い込む。

 取り乱した気持ちを、一刻も早く落ち着かせたい。



 エルの想いに、同じ心を返すことはできない。

 既にわたしの中で芽吹いた貴志への想いは、抑えようもなく枝葉を広げ、この心の中心で大樹に姿を変えている。



 今のわたしが、エルの為にできること。

 それは――



「……『シエル』……」



 彼の望みを叶えること。



 口の端にのぼらせることあたわず。

 そう言われ続けていたその名で――彼を呼ぶ。



 わたしには知る由もない、彼等独特の宗教観の世界。

 秘密とされた名前に、エルが抱く思いとは?



 向けられた想いには、応えることはできないが――名前を呼ぶだけであれば、彼の望みを成就させることはできる。



 わたしのこの選択は、間違っているのだろうか?



 真名を呼ぶことなど大それたことだと、拒絶することもできた。

 けれど、それでは――真の心を打ち明けてくれた彼に対して、誠実ではないような気がするのだ。



 彼の名前を『預かる』という意味は、正直よく分からない。

 名を呼ぶ許しを得た、と受け取るのであれば――今だけ。

 この時間だけは、彼の本当の名前で呼んでみよう。



 秘匿された、大切なその名を。

 何度も、何度でも。



 わたしが彼の名を声に出すのと同時に、エルの呼吸が止まり、瞳が大きく見開かれた。



「シエル――シエル……綺麗で、とても優しい響き」



 真綿で包み込むような、穏やかな音の連なり。

 彼の真名は、寛容で、どこか高潔な調べを内包する。



「シエル……誰も呼べないなんて勿体ない。美しい音色のような名前……シエル――シエル? 大丈夫? どうしたの?」



 エルの――シエルの口元が震え、見開かれた黒曜石の瞳が潤んだような気がした。



 その口元を手で覆った彼は、ひざまずいた姿勢のまま顔を隠すようにうつむく。

 身体が小刻みに揺れ、声を押し殺すように喉から嗚咽が洩れづる。



 アスファルトの上に、輝く雫がこぼれ落ち、染みを作ったのは幻か。 




「想いを寄せる者から、真名を呼ばれるというのは――これほどまで……」




 シエルの掠れた声が、その口から洩れた。



 禁じられるほどに、望み、手を伸ばしたくなる人間の不可思議な感情。

 もしかしたら、彼は、幼い頃から――その真名で、呼ばれることを渇望していたのかもしれない。


 肩を震わせるその様子は、何故か幼子のように見えた。



 子供をあやすように抱きしめ、慰めたい衝動に駆られる。

 けれど、彼の想いを知った今――それをすることは、シエルに対して失礼な行為にあたるような気がして、踏みとどまった。



 彼は王族。そして教皇という地位につく――人の上に立つ人間だ。


 落涙するその姿を、誰の目にも触れさせたくはないだろう。


 わたしは彼からそっと視線を逸らし、夜空を照らす月を見上げ、深く息を吸った。





 聖布越しに映った十六夜いざよいの月は、いつもより白く透き通り――輝いて見えた。













【後書き】

次話は、本日18:00に投稿予定です。



読んでいただきありがとうございます。

次話は、『月の女神の吐息』を予定しております。


貴志クンがそろそろ動き出すかな(ΦωΦ)フフフ…♡

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