第199話 【真珠】婚約とフラグの関係


 どのくらいの時間が経ったのだろう。


 ポタリ――滴が頬に落ちた感覚が伝わった。


 瞼をそっと開けると、貴志が至近距離でわたしを見つめている。


 驚いて起き上がろうとしたところ、彼の指が頬に触れ、水滴を拭ってくれた。



「ああ……寝ているのかと思ってベッドに運ぼうと思ったんだが……すまない。水滴が落ちて驚かせたな。悪かった」



 わたしは「大丈夫、気にしないで」という意味を込め、ソファに横たわったまま首を左右に振った。


 この腕の中には、貴志が先程まで着ていたシャツがある。


 自分の脱いだ物を、わたしが抱きしめていることに気づいた貴志が思考停止に陥っているようだ。


 見つかってしまった気恥ずかしさに目を逸らそうとしたところ、我に返った貴志が柔らかな微笑みを見せる。


 ソファに横たわりながら彼の笑顔を見上げていると、何かに気づいた彼が口を開いた。



「真珠、お前……まだ、染まっているぞ?」



 貴志は何とは明言しないが、彼の血が唇にうっすらと残っているのは、わたしも知っている。

 ふやかし方が足りず、落ちなかったのかもしれない。



 わたしの唇の上を、貴志の親指が滑る。

 擦って落ちるのかどうか、試しているのだろう。


 深い意味のない動作だ。

 けれど、エルに対峙している時に交わした、今のわたし達に許された『最大限の愛情表現』を思い出し、胸が苦しくなる。


 気づくと、わたしは衝動的に真上に手を伸ばしていた。


 小さな親指が、貴志の唇にそっと触れる。


 わたしの行動で、昼間のことを思い出したのだろうか。

 この指が置かれた彼の唇から、震えが伝わった。


 息を呑んだ彼は、指先の動きを止める――わたしの唇の上で。


 しばらく見つめ合った後、僅かな躊躇いを見せ、冷たい指先がこの唇から離れていった。

 名残惜しく思いながらも彼の動きを見守り、わたしも自分の手を引き戻す。



 その瞬間、貴志の左手がこの右腕を捕え、中指と薬指の付け根に口づけを落とした。



 身体がビクッと反応する。

 貴志は再び優しく微笑むと、わたしの頭を撫でた。



「昼間は、心配をかけて申し訳なかった。俺も自分の気持ちに振り回されて……どうかしていた。あんな複雑な想いを味わったのは……初めてだ」



 そう囁いた彼は、わたしの頭を撫でていた手を肩に移動し、背中に差し込むと抱き起こしてくれた。



「真珠、今、少し話をしても?」



 貴志がシャワーを浴びる前に言っていた件だ。

 わたしは首肯して、背筋を伸ばす。



「俺がお前の父親から水色の封筒を預かったのは、覚えているか?」


 テーブルに置かれた封筒に視線を移す。


「誠一パパが『切り札』と言っていた?」


 貴志が「そうだ」と頷き、言を紡ぐ。


「『祝福』の種類が変わったことで、あの封筒の出番はなかった。だが、結果的に、お前には二つの『祝福』が与えられた」


 そう――ラシードからは『友情の祝福』を、エルからは『伴侶の祝福』を与えられたのだ。


「義兄さんには、事の詳細は報告した。それから、エルにも〈真珠に与えた『祝福』に、婚姻の強制力はない〉と一筆書いてもらい、それについても伝えた――が……」


 そこで言葉を区切り、何事かを考えている。


「どうしたの?」


「義兄さんは、この件を理解してくれた。だが、結果的には『祝福』を回避できなかったことで、月ヶ瀬は動く」


「どういうこと?」


「俺は『祝福』を阻止しろという指示を遂行できなかった。いくら種類が変わり、エルからの約束を取り付けたとしても、お前は二つの『豊穣の契り』を与えられた。それも王子二人から――しかも一人は教皇聖下だ」


 それは分かる。

 ラシードは兎も角、エルはアルサラームの権力者の一人。


 おそらくアルサラームが、月ヶ瀬に受注した地下都市計画を盾に、わたしの身を寄こせと脅してきた場合、グループ企業としては断ることはできないだろう。

 相手方は、無理を押し通すことができる立場にあるのだ。



「この封筒の中身は、俺とお前の『天球館』での事故の写真だ。ここまで言えば、どういうことか分かるだろう?」



 そう言って貴志は、テーブルの上に置かれた水色の封筒に手を伸ばす。



 『天球館』には、太陽神シェ・ラのシンボルマークが隠されていた。



「わたしと貴志はアルサラーム神教上で『最上の誓い』を交わしている――ということになるのかな?」



 貴志が静かに頷く。



「アルサラームから、万が一だが、無理難題を課された場合、どうすれば回避できると思う?」


 無理難題――つまり、わたしがの国に人身御供ひとみごくうとして嫁ぐことを望まれた場合を言っているのだろう。


 それを拒絶する方法。


「チャペルでの件は完全に事故だったけど……貴志との『最上の誓い』の効力を使うってことかな?

 宗教上の誓約であれば、太陽神の末裔といわれている王族は――特に教皇聖下は遵守じゅんしゅせざるを得ない?」


 貴志が腕組みをしてニヤリと笑う。


「それが分かっているなら話が早い。つまり、俺とお前が、一時的であれ婚約を結ぶのが安全策――だが俺は、エルの……」


 貴志が何かを言いかけた時、内線電話が鳴り響いた。

 呼び出し音は一向に止まない。


 彼は「少し待っていてくれ」と告げ、軽い溜め息を落としながら寝室へ向かった。


 微かな話し声が居間に響く。

 貴志の電話中、わたしは先ほどの会話を反芻する。



 一時的な婚約――なるほど、確かにそれがわたしを守るには一番手っ取り早い方法なのだろう。


 エルは『婚姻の効力はない』と明文化してくれてはいるが、誰がどんな手を使って月ヶ瀬との強いパイプを求めるのか――将来に於いては分からない。


 念には念を入れて、わたしを守ろうとしてくれているのは分かった。



 でも、わたしと貴志が?


 脳裏を過るのは微笑み合う男女のスチル――貴志と『主人公』の姿。


 正直、フラグを立てているような気がしてならない。



 『主人公』が望む相手――『この音』の中で、わたしはその攻略対象の婚約者という立場に胡坐をかいている場合が多い。


 でも、ゲーム上では『貴志ルート』だけは、わたしよりも『過去の女』――つまり、理香が貴志に一番近い存在で『主人公』の心をかき乱す女性として描かれていた。


 彼のルートでは、『月ヶ瀬真珠』は『主人公』を痛めつけるためだけの同級生――他の攻略者ルートとは存在意義が違っていたのだ。

 『葛城貴志』と『月ヶ瀬兄妹』の血縁関係についても、まったく言及されていなかった。



 先ほど、貴志は『一時的な婚約』と明言していた。

 おそらくこの話は、わたしの年齢を考慮し、父もしくは祖父から、貴志だけに説明された可能性が高い。


 救いがあるとすればそこだ。

 本当に一時的な契約なのだろう。


 幼い『真珠』には理解できないと判断された大人の事情――深慮遠謀も見え隠れする。


 大人の深い考えで動き出している計画であれば、子供の自分が何を言っても受け入れてはもらえないのは必至。


 わたしが嫌だと言い張ったところで、色々な思惑が走り出しているのであれば、止めることは不可能だ。



 複雑な心境ではあるけれど、高校生になる前に解消されるのであれば、わたしは知らないふりをしておくのが得策なのかもしれない。



 考え事に没頭しすぎて、貴志の声掛けにうわの空で返答した気がする。



 しばらく悩んで、自分の中で結論が出た時――貴志の姿は既に部屋の中になかった。



 ソファの前テーブルに、貴志が事細かにメモを残していた。



『声を掛けたが、考え事をしているようなので

 ここにメモを残す。


 父さんと千景さんに呼ばれたので、出てくる。

 その後、『紅葉』の手塚と会う約束になっている。


 戻るのは、星川リゾートの定例会議終了後。


 夕食はホテル内のレストランを予約してある。

 準備しておいてくれ。


 部屋からは出ないように。  貴志』



 メモの隣には、謁見時に着用する予定だった紺色のワンピースが置いてあった。


 これに着替えておく必要があるのか。



 夕食後、わたしは貴志に話をしなくてはいけないことがある。

 今のわたしの気持ちと、今後について――そして、ある提案をしたいのだ。



 よし!

 パンッと両手で軽く頬を叩き、気合いを入れる。


 わたしの考えは、もう決まっているのだ。


 貴志が戻るまで、もうあまり時間はない。

 急いで準備開始だ。







【後書き】

次話、12:45投稿予定です。

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