第177話 【真珠】「譲れない」
先程から、
何に対してかと言うと──主にエルからわたしに向けられる態度に、だ。
彼の正体が判明してからというもの、貴志とラシードへの対応は砕けていったというのに、わたしに対するものだけは
はっきり言ってむず痒くてたまらない。
「エル、あのね。どうしてわたしと会話する時だけ、そんなに丁寧なの? 疎外感が半端なくて、ちょっと悲しい」
一瞬何を言われたのか理解できなかったのか、エルは眉間に皺を寄せる。
逡巡した後、合点がいったのか、彼はフッと笑った。
「我が女神は、気安い対応をお好みのようですね」
「いや、その女神というのも、なんというか……」
どう考えても、わたしにはそぐわない言葉のため、気恥ずかしさを隠したくて思わず渋面になってしまう。
「砕けた対応をお望みというのであれば、
なるほど、すぐには態度を変えてもらえないらしい。
少し残念に思うが、彼なりの考えもあるのだろうと、わたしは大人しく引き下がった。
その様子を見届けたエルは、視線をわたしから貴志へと移す。
「貴志、真珠と共についてきてくれ。予想外の展開に驚くばかりだが、結び直す誓約がある」
チラリとラシードを見た後、エルは
向かう先はタペストリーの下。
ラシードをその腕からおろしてソファに座らせると、エルはこちらを振り返る。
「シードが、その伴侶に与える『祝福』を、友へのものに切り替えた。こちらとしても想定外だったが、女神の安寧はシェ・ラとの誓約の成就につながり──人命もかかっている。悪いが一旦私が預からせてもらうぞ。いいな? 貴志」
エルは真っ直ぐ貴志の目を見て問うた。
「お前の言葉を信じるのならば──な」
貴志の
「で? お前は私を信じるか? それとも──」
エルに皆まで言わせず、貴志は言葉を重ねた。
「お前が嘘をついているようには思えない。危険を未然に防げるというのであれば、あとは……真珠次第」
そう告げた後、わたしを抱き上げる貴志の腕の力が強くなり、少しだけ苦し気な表情を見せる。
二人の会話の意味が分からずに、わたしは首を傾げるだけだ。
ただ、彼らの間で何かしらの話し合いが持たれたことはわかった。
──それも、わたしの身の安全に関して。
どういうことなのだろう。
疑問は増したが、今は口を挟む段階ではないことも理解できる。
わたしは貴志とエルのやり取りを静かに見守った。
貴志が深い溜め息をつき、何故か諦めたような素振りを見せた後、わたしをその身体からペリッと引き剥がす。
「へ? ちょ……待っ……。貴志? 何これ」
脇の下に手を差し込まれ、猫の子よろしく持ち上げられる。
現在わたしは、貴志の腕にブラーンとぶら下がっている状態だ。
必死に彼の顔を見ようと振り返ろうとするが、首がうまく回らない。
「真珠、エルの言葉を信じるのであれば、お前には『祝福』が必要らしい。方法としては間違っているのかもしれない──が、それがお前の身を守る一助になるのであれば、俺と共にエルからの祝福をうけてほしい。色々なしがらみもあるが、今はお前の身の安全が第一だ。エルの言う……その未来で後悔しないために」
貴志の話している内容がわからない。
エルは何故、あんなに真剣な眼差しで貴志を見つめているのだろう。
目の前に立つエルの視線が、今度はわたしに注がれる。
「申し訳ありませんが、こちらは私を含めた人命が掛かっている故、貴女にはこの『祝福』を是非とも受けていただきたいのです」
戸惑いを隠せず、何も答えられずにいたところ、エルは困ったような表情を見せた。彼は再び視線をわたしの後方に移すと、貴志に向かって語りかける。
「貴志──名を変えたお前との誓約を結び直す必要もある。まずはお前に、友への『祝福』を結び直させてもらうぞ」
エルの呼びかけにより、貴志は頷き、わたしはストンと床におろされた。
二人の様子を交互に視界に入れ、ラシードにも視線を移す。
ラシードはソファの上で、難しい顔をして俯いている。
拳を強く握り、唇を噛みしめている様子が気になったが、目の前でエルが跪いたことにより、わたしの意識はエルへと移る。
「我が『天命の女神』──どうか、瞼への『祝福』をお許し願いたい。けれど、これは貴女を伴侶とするための誓いには
わたしが貴志を見上げると、彼は神妙な表情で頷いている。
「貴志も一緒に、エルからの『祝福』を受け直すの? どうして?」
自分が受けなければならない『祝福』よりも、貴志が受け直す『友情の祝福』が気になってしまい、そちらを先に質問する。
その問いに対して、エルが苦笑しながら口を開く。
「貴女は自らのことよりも、彼のことが気になるのですか?」
わたしが黙って首肯すると、エルは静かに語り始める。
「伴侶に与える『祝福』は、妻となる複数の女性に与えるもの。ですが、友への『祝福』は、本来であれば絶対の腹心となる、唯一無二の友一人のみに与えることが許された──謂わば盟約。それが幼いラシードの考え違いの理由です。
わたしが与えた『友情の祝福』は、
ラシードの優先順位の誤解の理由は、エルの説明で納得できた。
確かに複数に与えるものよりも、唯一絶対のひとりに与える『祝福』のほうが重要度は高いと勘違いしてもおかしくはない。
でも、どうしても分からない。
貴志のことを大切だというのであれば、何故エルは彼に対して、あれほどまでに辛辣な態度をとっていたのだろう。
わたしの訝し気な表情に気づいたエルが「信じられませんか?」と言って首を傾げる。
「うん……だって、今日はじめて会った時から、貴志に対してあたりが強かったから。まさかそんな風に考えていたなんて、思いもよらなかった」
エルは静かに笑った。
「自分一人だけが、長年この絆を大切に思っていたと──貴志が私のことを忘れていることを頭では理解していたつもりでも、実際それを目の当たりにした時の、落胆と憤りは言い表せないものがあったのです。
しかも、彼はわたしの
エルはそう言って自嘲の笑みを洩らし『あの時のフィーネの気持ちが理解できたことは収穫でしたが』と呟いた。
彼は貴志を跪かせながら、話を続ける。
「名が変わると運勢も変わる。この国でもそのような考え方があると聞いています。たしか、子供の名づけにも用いられるとか。
魂に刻まれた真名はその者の真髄。運命の一端は名にも宿る……『名は体を表す』──この言葉を以前、月ヶ瀬会長からうかがい、大きな感銘を受けたものです」
エルが貴志の前に立ち、その両目を閉じて一度息を吐き切り、次いでゆっくりと空気を吸い込んでいく。
その呼吸の途中で、彼の雰囲気が徐々に変化していくのが感覚的に理解できた。
──ああ、これがエルの持つ不可思議な力。
エルの精悍な顔つきが、柔和な穏やかさに包まれる。
みるみるうちに男性であるはずの彼が、女性のような美しさを宿し、まるで
視覚的には何ら変わってはいないのに、纏う雰囲気だけが変化するのだ。
その様子のあまりの違いに、わたしは息を飲んだ。
秀麗な青年だった筈のエルが、儚さを湛えた美女のように変わるさまを間近で目にすると、彼が本当は女性ではないのかと疑ってしまうほどだ。
衣擦れの音と共に、エルの両手が貴志の顔を包む。
エルの前で跪いた貴志の面が上向き、二人は静かに視線を交わす。
彼等が暫し見つめ合った後、エルの表情がフッと和らいだ。
その顔からは、輝くような微笑が零れ落ちる。
それを見届けた貴志が微かに笑い、瞼をゆっくりと閉じていく。
とても神秘的で幻想的な光景だ。
まるで美男美女の逢瀬を覗き見ているような気分になる。
わたしは二人の様子から目が離せなかった。
息をすることさえできない。
これは──彼等の美しさに呑まれたからではない。
この胸に押し寄せる苦しさの正体は?
身体が震えるほど、心臓が早鐘を打つ理由は?
エルの唇が、貴志の瞼に触れた瞬間、自分の心の奥底から激しい想いが湧き上がった。
先程までの青年エルが、貴志の瞼に口づけを落とすのであれば、これほどまで動揺することはなかった。
ただ、今のエルは、神々しさのなかに女性的な雰囲気を漂わせている。
その姿で、貴志と触れ合う様子を眼前で見せつけられたような気がして、わたしは身じろぎひとつできなかったのだ。
エルは単に誓約を結んでいるだけで、他意がないことは分かる。
けれど、わたしの心がついていかない。
自分以外の誰かが貴志に触れた事実に動揺を隠せず、心臓を鷲掴みにされたようで苦しい。
貴志に触れているのは、エル──今は女性のような雰囲気を滲ませているが、れっきとした男性だ。
けれど、もし、これが、本物の女性だったら?
見つめ合って微笑みを交わすのが、貴志の心を奪う人だとしたら?
あの笑顔が、自分以外に向けられる。
あの掌が、わたし以外の女性に触れる。
あの腕が、他の誰かを抱きしめる。
あの唇が、彼女のそれに重なる。
今まで考えたこともなかった──実感したことのなかった胸の痛みに心が叫びをあげる。
感極まって目頭にジワリと熱が生まれ、こぼれないよう必死で歯を食いしばる。
あまりの苦しさに座り込みそうになるが、懸命に堪える。
駄目だ……想像するだけで、身体が震える。
歯の根が合わず、口からカチカチという音が生まれる。
ああ、無理だ。
手放すことなど、できない。
絶対、誰にも譲れない。
その相手が、たとえ──
『主人公』であったとしても。
自分が考えてしまったことに対して、ハッと息を呑む。
今、何を──
自分が一瞬でも、強く思ってしまったことに愕然とする。
そう、わたしは──願ってしまったのだ。
『主人公』にも、他の誰にも貴志を渡したくない。
絶対に、譲れないと。
貴志が他の誰かに心惹かれ、わたしから離れていくのならば──
主人公が望むのならば──
最高の笑顔で送り出そう──そう誓ったばかりなのに。
けれど、たった今感じたこの気持ちは、そんな誓いを嘲笑うかのように、胸中をかき乱す。
どうしてそんなことを平然と考えられたのだろう。
今まで、誰かを、心から欲する経験などなかったわたしの、人を愛する気持ちに対する想像力の欠如だったのかもしれない。
甘く見ていたのだ。
誰かを愛おしく感じ、その心を求める、狂おしいまでのこの想いを。
駄目だ。
気づいてしまった。
笑ってすべてをなかったことにするなんて、もう出来ない。
そんなこと、絶対に無理だ。
涙を流すまいと歯を食いしばり、顔を上向ける。
わたしの異変に気づいた貴志が、静かにこの肩を抱き寄せた。
儀式の最中であるため、彼は気遣わしげな様子を見せるが、沈黙を貫いている。
エルがわたしを真っ直ぐ見つめる。
男性的な雰囲気が消えている為、彼が側近くに寄っても警戒心は生まれない。
わたしは傍から見たら、臆することなく立っているように見えるのかもしれない。
けれど、この胸の内は、激しく波立つばかり。
自分の心の深淵に眠っていた気持ちが噴出し、その荒ぶりを抑えるだけで精一杯だった。
こんな想いが自分の中に存在していたことさえ、知らなかった。
エルが近づき、その両手が伸ばされる。
けれど、瞼を閉じることができない。
目を瞑ってしまったら、涙が溢れてしまう。
この頬を包むのは、エルの両手。
慈愛に満ちた微笑が、彼の面に浮かぶ。
わたしの肩を抱く貴志の腕に、瞬間的に力が加わったのは、気のせいではなかったと思う。
口元を震わせながら瞳を閉ざすと、熱を宿した雫が双眸から零れ落ちた。
エルの唇が、わたしの左瞼に触れたのは──それと同時の出来事。
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