第153話 【真珠】遭遇! 王子殿下
なんだか今日は、わたしばかりが攻めているような気がしてならない。
それに、少し前の彼なら、余裕の笑顔で「そうだな。惚れ直した」と言って、わたしを悶えさせる位の返しをしてきた筈なのに。
どうにも調子が狂ってしまう。
わたしは頬を膨らませ、貴志の横を通り抜けようとした──のだが、貴志に腕を取られ、嵌めガラスになっている巨大な窓に押し付けられた。
この体勢は、壁ドンならぬ窓ドンか!?
よもや自分が、そんなトキメキ萌えシチュエーションを経験するとは思わず、ドキドキしながら彼を見つめた。
だが、貴志が変だ。
わたしと、目を合わせようとしないのだ。
「すまない。どうしていいのか、分からないだけだ」
しかも、わたしのことを見て欲しいのに、彼の視線は明後日の方向をむいている。
「はい? 何が?」
貴志は逡巡した後、意を決したように話し出した。
「いや、正直に言うと──人をこんなに……愛しいと思ったのは初めてのことで、お前から同じ想いが返ってきたのも想定外で── 一晩色々と考えていたら、身動きが取れなくなった。多分、今までの経験は、何ひとつ役に立たない。
大切過ぎて……どう扱っていいのか、分からない。自分でもこの状況に、衝撃を受けている」
わたしは貴志の態度と言葉に、茫然とするばかり。
大切過ぎて云々の科白で喜びたい気持ちもあった──が、今注目するべき点はそこではない。
恋愛指南役だと思っていた頼みの綱の貴志が、まったく役に立たないかもしれないのだ。
違うとは分かっているが、思わずとんでもない言葉が口をついてしまう。
「お前は、童貞くんか!?」
わたしの言葉に驚いた彼は目を丸くして、やっとこちらを見た。
「いや……そういう訳で──」
「ストップ! 違うのは知ってるから、真面目に答えないで。聞いていてこちらの心が痛い」
もう、こうなったら、自分自身で恋愛指南書を片っ端から読み漁るしかないだろう。
残りの夏休みは公立図書館通いに勤しむことにしよう。流石にその手の本を大量購入して、自宅で読むわけにはいかんだろう。
もしかしたら、貴志とこうしていられるのは最長で十年間しかないかもしれないのだ。
時間は無駄にしたくない。
彼の心の中に、わたしがいる間は、二人であたたかな思い出を沢山つくりたい。
そうすれば──
彼がわたしの元から去ったとしても、思い出だけは心に残る。
だから、たくさん心の交流をするため、一刻も早く恋愛スキルなるものを身に着けたいのだ。
ああ、あと、これは言っておかねばならない。
「貴志、ひとつ忠告しておくけど、女がみんな雷を怖がると思わない方がいいよ。全員ではないとは思うけど、お前の気を引きたくて演技していた女もいたと思う。少し、気を付けた方がいい」
貴志は日本への一時帰国を終え、そろそろ欧州へ戻る。
彼はこの日本滞在で、その印象をガラリと変えた。
おそらくその変化は、周囲を驚かせるだろう。
元々、そこに立っているだけでも際立つ容姿をしているが、最近見せるようになった優しい笑顔や気遣いに、心奪われる人間も多数現れることは想定内だ。
加えて、現在、彼の恋愛スキルは働かない状況らしい──それは、わたしに対してだけなのか、他の女性に対しても同様なのか、そこは分からない。
が、この状態の彼を放置するのが不安でもあった。
そう、万が一にも質の悪い女に
「なるほど……確かに……そう言われてみれば……」
わたしの言葉に思い当たる節でもあったのか、貴志は遠い目をしている。
(お前はいったい何を思い出しているのだ!?)
自分の振った注意喚起ではあるが、何故か胸がモヤモヤし、苛々する気持ちが生まれる。
ああ、そうか。もうお昼だ。
お腹が空いているから、苛立ちを覚えるのかもしれない。
自分の気持ちを安定させる為にも、美味しい食べ物をお腹に入れる必要がある。
「貴志、お腹が空いたから、お昼を食べに行こう? 腹が減っては戦はできぬ、だ!」
午後のラシードとの約束の時間まで、まだ二時間以上ある。
まずは腹ごしらえをして空腹退治だ。
お腹が満足すれば、この苛々もおさまるだろう。
わたしが今日、全力で立ち向かうべきは王子殿下とのプレイデートだ。
この初対面を、なんとか乗り切らなくてはいけないのだから。
…
部屋を出て、エレベーターホールへ向かう。
貴志は準備があるらしく「待て」と言われたが、グングン廊下を進んでいく。
お腹が空いたくらいで、何故こんなに苛々するのだろう。
やはりわたしの心は、未だ情緒不安定なのだろうか?
この心のモヤモヤに気を取られていたわたしは、周囲への注意を完全に怠っていた。
完全なる、不注意だった。
その非は認めよう。
──だが、何故、今この時だったのだろう。
己の不運さを嘆きたい。
貴志は、わたしを追いかけるべく、慌てて部屋から飛び出して来てくれたのだろう。
遠くから、彼の焦ったような声が届いた。
「真珠! 前を見ろ!」
わたしの脳細胞は、やはり根っからの大馬鹿者なのだろう。
前を見ろ!──と言われた筈なのに、なんと後方の貴志を見てしまったのだ。
場所はエレベーターホールの角。
その瞬間、わたしは『何か』と激突し、その衝撃で尻もちをついた。
ぶつかった相手も、わたしと同じようにペタンと倒れ、尻もちをついてしまったようだ。
衝突の瞬間、右頬に何かが当たった気がして、思わずそこに触れる。
目がチカチカするし、床に打ちつけたお尻が痛い。
貴志が走り寄るよりも一足早く、わたしの眼の前に誰かの手が差し伸べられた。
「レディ、お怪我はございませんか?」
英語訛りではあるが、流暢な日本語が頭上から降ってくる。
ヒラヒラとした見たことのない布地が目に入った。
何が起きたのかよく分からない状況ではあったけれど、わたしは条件反射でお礼を言い、その手を掴んでしまった。
手を引かれて立ちあがり、その手の先を辿ると──精悍な顔つきに、神々しさと浮世離れした雰囲気を併せ持つ、絶世の美青年がそこにいた。
この美貌、貴志と競えると思う。歳の頃は二十歳前後だろうか。洗練された仕草が人目をひく。
わたしは固まって動けなくなった。
この民族衣装、どこかで見たことがあるのだ。
でも、どこで?
パキスタンの民族衣装シャルワニに似た、長目のフロックコート調の黒い上着に目を奪われた。
詰襟には金糸と銀糸で細かな刺繍が施され、かなり高級そうな出で立ち。
その肩に巻きつけられたヒラヒラとした布は、長いスカーフのドゥパッタのようにも見える。
絶世の美青年が、わたしの服を整えてくれる。
「お怪我はございませんか? レディ?」
にこやかな笑顔で再度訊ねられ、わたしはコクリと頷いた。
貴志が、その青年に対して謝罪をする。
かなり丁寧な口調だ。
「申し訳ございません。わたしの連れが余所見をしていたようで、大変失礼いたしました。そちら様に、お怪我はございませんか?」
この美青年に気を取られてしまい、ぶつかった相手のことを完全に失念していたことに気づく。
後ろに倒れて尻もちをついたのは、わたしと同じ年頃の子供だったはず。
民族衣装の美青年に助け起こされた子供の姿を確認したわたしは、完全に動けなくなった。
黒髪と蒼い瞳──そのエキゾチックな美しさは、幼い子供だというのに人目を釘付けにする。
わたしが激突した相手は、私的超要注意人物である筈のシェ・ラ・シード王子殿下。
まだ彼と会う心の準備ができていない中での、まさかの遭遇。
最悪なことに、わたしは彼とぶつかり、突き飛ばすような形で初対面を果たしてしまったのだ。
──これは、ピンチだ。非常に、まずい!
王子殿下は美青年に助け起こされても、何故か一切声を出さない。
先程から茫然とした様子で、唇を触っている。
ラシードが助けを求めるように何事かを口にのせようとした瞬間、美青年は少し大きな声でそれを制した。
「殿下!──お約束、忘れなきようお願い致します」
ハッと息を呑んだラシードは、青年の服を掴むと震える声で話し出す。
「エル、いま、その女の頬に、わたしの口が触れた──太陽神シェ・ラの豊穣の契りを……祝福を、その者に、与えて……しまった」
エルと呼ばれた美青年は、その言葉を受けて咄嗟にこちらへ振り返る。
民族衣装の布地がバサッと音を立てて翻る勢いに、わたしは思わずビクッと身を竦めた。
美青年に目をやると、彼の黒曜石のような瞳が大きく見開かれている。
訳が分からず助けを求めて貴志を見ると、彼は額に手を当て、静かに長い溜め息をついている。
「へ? 何? どういうこと?」
わたしはまったく状況がつかめず、その場にいる超絶美男子三人の顔を順番に見ることしかできなかった。
貴志が唸る。
「絶対に、何かやらかすとは思っていたが……しょっぱなから大問題を引き起こすとは……」
どうしよう。
わたしは、とんでもないことを仕出かしてしまったらしい。
冷や汗が流れそうだ。
今日、わたしは、本当に、無事、月ヶ瀬家へ生還できるのだろうか!?
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