第147話 【月ヶ瀬穂高】光と闇の『ヴォカリーズ - Vocalise - 』 後編
丸い白熱灯がガゼヴォの周囲を彩る。
まるで蛍火のような淡い光に照らされる中、貴志さんは黒のケースからチェロを取り出している。
これから三重奏の演奏が待ち受けているというのに、彼は僕の我が儘を笑顔できいてくれた。
僕は物心ついてから初めて、誰かに自分の我が儘を伝え、叶えてもらおうとしている。その事実が心を落ち着かなくさせる。
差し出した手を拒絶されないことが、こんなにも嬉しいことだなんて思いも寄らなかった。
父にも美沙子さんにも祖父母に対しても、我が儘を言ったことはない。
それを受け入れてもらえないかもしれない。
そんなことを言って、もし見捨てられたら?──そう思うと怖かった。
幼い頃から良い子でいようとして、僕は自分の心を隠すことが上手になった。
けれど真珠への想いだけは、どうしても隠せなかった。
彼女が最後には気づいてしまうほど、僕は彼女を求めていたのだ。
だから、真珠に対して同じ想いを寄せる彼等が、僕の想いに気づかないわけがなかった。
そして、彼女が誰を信頼し、求めているのか、僕等に分からない筈もなかった。
真珠の心に棲んでいるのは、間違いなく目の前にいるこの男性──貴志さんだ。
優しいだけではなく包容力があり、自分の信念をもって行動できるこの人。
僕はガゼヴォの柱に寄りかかりながら、彼の動きをじっと見つめる。
貴志さんは中央テーブルの前に置かれた椅子に座り、弓の張り具合を確かめている。
チャペル前の食事ブースの喧騒がここまで届いてくるが、人は疎らだ。
僕と貴志さん──二人だけの静かな空間に、調弦の音が鳴り響く。
『ヴォカリーズ』はセルゲイ・ラフマニノフが作曲した『歌のない歌曲』だ。
母音でメロディを歌うのだが、その歌い手によって発声する音は委ねられる。
ロシア語という縛りのない、純粋な音だけで歌い上げることができた曲
発表当時から人気を博し、様々な器楽用にも編曲され、今もなお人々に愛されている。
僕は聴いてみたかった。
今の僕の心を映すかのようなこの曲を──彼の奏でる
準備を終えた貴志さんが、一度僕に目配せをする。
こちらの聴く態勢が整ったことを確認すると、彼は鼻で息を吸った後、静かに弓を滑らせた。
何かを求め、
愁いを帯びた深いチェロの音色によって、紡ぎ出されたその旋律は、一瞬にして僕の心を
迷いの森の中、
この旅人は──僕自身……なのだろうか。
僕の心は、まだこの森の中、出口を探しているのかもしれない。
迷い人は、一歩、また一歩と進んで行く。
その先は、明るい森の出口なのか。
それとも、暗い森の深遠に迷い込んでいるのか。
混迷の中、それでも立ち止まらずに、旅人は歩き続ける。
時折、道程を振り返りながらも、光を探して無心に進む。
森の精霊が囁き、甘言を弄する。
その誘惑を跳ね除けようと、抗う様は、まるで今の僕の心そのものだ。
音を振るわすヴィブラートが、まるで嘆き悲しんでいるかのように聴こえるのは何故?
僕だけではなく、貴志さんの心が泣いているように感じるのはどうして?
彼は、昔、この曲をよく弾いていたと言っていた。
理由はわからないけれど、彼もこの迷宮のような森に、足を踏み入れたことがあるのかもしれない。
今は穏やかに笑う彼も、昔はその瞳に悲しみを湛え、この世界を見つめていたのだろうか。
ああ、いつか僕も、今の貴志さんのように、本当の笑顔で心から──笑える日が来ると、いいな。
『ヴォカリーズ』は音色を変え、嘆きの調べを繰り返す。
その旋律に見え隠れするのは、希望か絶望か。
受け取る者の心の有り様によって、その色を変えていく。
彼の奏でるこの旋律は、光と闇を同時に内包している。相反するものが表裏一体となった音の連なりに、僕の心は取り込まれる。
高音域へと徐々に移動していく流れは、心の高まりを表しているようだ。この音色が、悲哀ではなく、歓喜へと続く序章だと思いたい。
この昇り行く調べが、悲嘆の森から抜け出す光明になると信じ、僕は自分の手を強く握りしめる。
音を織り上げる彼の姿に、丸くぼやけた明かりが幾重にも重なる。
気づかないうちに、僕はまた──涙を、流していた。
睫毛についたいくつもの雫に、ガゼヴォの明かりが反射し、彼の姿が不可思議な輝きに覆われる。
その幻想的な光景に意識を奪われ、彼から目が離せない。
か細い光線を思わせる音が、暗い森の中に染み渡っていく。
静かに奏でられた、震えの伴わない最後の長音。
今は、この音が悲鳴のように聴こえてしまう。
けれどいつか、この先の未来で、この最終小節を聴いた時に、微かな光を自分の心に見
──嘆きではなく、喜びを感じるために。
そう願う僕の心は、既に希望の光を、小さく──灯しているのかもしれない。
…
貴志さんが演奏する際に使用していたベンチに二人で座り、沈黙の時が流れる。
僕が落ち着くまで、彼は静かに待っていてくれる。
これ以上、この人の優しさに頼るわけにはいかない。
僕が生まれて初めて言った我が儘を、嫌な顔ひとつせず、聞き入れてくれたのだ。
それだけで、充分だった。
「貴志さん、ありがとうございます。もう、大丈夫です。大切なコンサート前に、僕が我が儘を言ってしまい、申し訳ありませんでした」
横倒しにされたチェロケースが目に入る。
貴志さんは首を傾げて、僕の顔を見ている。
「こんなこと、我が儘の内にも入らないぞ。それよりも、穂高、本当に大丈夫か?」
事も無げに言う彼に、感謝をすると共に笑顔を向ける。
無理につくった表情ではない。
彼の心遣いに対して自然に生まれた笑みだった。
「ありがとうございます。だいぶ、落ち着きました。気分は不思議と軽くなっています。たくさん泣いたから……かもしれません」
貴志さんは何も言わずに頭を撫でてくれた。
僕は真っ直ぐ前を向き、木立から覗くチャペルをその視界に入れる。
「多分、もう、ひとりで前に進める気がします。それに、少し、気になることもあるので……。本当は、感傷に浸っている場合でもないんです」
貴志さんは、少し考え込んだあと一言だけ零す。
「あの件か?」
僕は、しっかりと頷いた。
「そうです。明日、貴志さんと真珠が都内に戻った後、彼女が会う相手が問題なんです」
溜め息が貴志さんの口から洩れる。
「何か起きる予感しかない。この安定の問題児振りは──」
二人で目を合わせる。
「流石、真珠だ」
「流石、真珠です」
同時にそう言ってから、二人で苦笑いをする。
すると、貴志さんは穏やかな笑顔を見せた。
「もう、大丈夫そうだな。表情が柔らかくなった」
貴志さんは「良かった」と言って、僕の頭を再び撫でる。
「ええ、ありがとうございます。貴志さんのお陰です。僕の願いを叶えてくれて、本当に嬉しかった。ありがとうございます──そろそろ、戻りましょうか」
僕は立ち上がり、服を叩いて皺を伸ばす。
「そうだな。戻るか」
そう言った彼も立ち上がり、チェロケースを背負った。
…
貴志さんが僕の為に奏でてくれた月夜の『ヴォカリーズ』は、この心に小さな明かりを灯した。
今はまだ辛いけれど、僕は兄として彼女の笑顔を守っていこう。
光と闇が、この世を交互に訪れるように、悲しみの次には、喜びが巡り来ることを──祈って。
【後書き】
2CELLOSのひとりLuka Sulic氏のVocaliseです。イメージ的にはこんな感じで弾いています。↓
https://youtu.be/FPDIDtHk5gk
同じくLuka Sulic氏ですが、こちらは珍しくYAMAHAのサイレントチェロでの演奏。
https://youtu.be/SVyza9jzw18
2CELLOSのStjepan Hauser氏の演奏はまた趣が違いますね。
https://youtu.be/KK6v4_Xxbk0
【注意事項】
次章、幼馴染(ファンディスク編)に入りますと、セクシュアルな展開が増え、R15と書かれている話は、今までの注意喚起とは異なり、完全にR15表現に切り替わります。
苦手な方はご注意ください。
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