第144話 【真珠】誠一パパからの依頼
夕食後、『天ノ原』へ戻る咲也と共に本館へ戻った。
貴志が送ってくれようとしたけれど、コンサートの準備もあるだろうし、兄も咲也もいるので丁重にお断りをした。
兄と手を繋ぎ『星川』までの道のりを歩く。
咲也は時々、こちらを振り返っては、きちんとついて来ているのか確認に余念がない。
わたしが「そんなに心配しなくても大丈夫だ」と伝えても、今日は外部からの一般客もいるから、念のため用心するに越したことはないとのこと。
「本当は俺が抱えて移動するのが手っ取り早いんだけど、嫌なんだろ? 咲子の格好をしておけばよかったのか?」
わたしが彼に抱き上げられることを嫌がった記憶がまだ新しいようで、少し拗ね気味だ。
傷つけてしまったのかもしれないと反省をする。
咲子姉さまの格好か──あれは、良かった。
あれは咲也ではなく、身も心も咲子だ。あの姿と人格の『彼女』であれば、確かに抱っこくらいならいいかもしれない。そう思わせる清楚な日本美人だったのである。
「咲子姉さまだったら? 抱っこくらいならいい──のか? いい──かもしれない? その時になってみないと何とも言えないけど、でも、唇を執拗なまでに触るのは駄目だよ。あれは倒錯の世界へ引きずり込まれそうで、大変危険な行為だと思う。『守り隊』の何人が被害にあっているのかと、心配でならない。悪戯も程々にだよ、咲也」
咲也が固まり、兄も凍り付いた。
二人の態度に、わたしは首を傾げた。
「真珠? お前はどこまで本当に理解しているんだ? やっぱり魔女……?」
最後の科白は独り言のように小さい声で呟いていたが、残念なことにわたしの耳にしっかり届いた。
咲也よ、なんたる放言だ。
「真珠、どこでそんな言葉を覚えるの?」
兄が訝し気に、わたしをのぞき込んでいる。
その様子は、普段の兄と何ら変わりなかったので、こっそり安堵の吐息をつく。
あのチャペルでの時間は、いったい何だったのだろう。そう思った途端、兄が唇で触れた額が気になり、手でその場所を覆う。
仲の良い兄妹のじゃれ合いだと言えなくもないが、何となく違うような気がして落ち着かない。
けれど、考えても答えが出ないことに頭を悩ませ、時間を無駄にしたくはなかったので、とりあえず目の前のコンサート準備に意識を集中させることにする。
特別室が並ぶ最上階にエレベーターが到着し、ホールに降り立つ。
準備が出来次第、咲也がわたしと兄を迎えに来てくれることになり『天ノ原』の前で別れ、隣室『星川』へ足を踏み入れた。
部屋に入ると、祖母と美容師さんの二人が出迎えてくれた。
祖母は、何故かとても楽しそうだ。
「貴志から電話があって、二人が『星川』に向かっているから、五分しても戻らなかったら連絡が欲しいって言ってきたのよ。こんなに過保護なのは意外だったけど、可愛がってもらえているようでよかったわ。あの子が『滞在中は穂高と真珠の面倒を見るから羽を伸ばせ』って言ってくれたお陰で、わたしも久しぶりにノンビリできたしね──ああ、ごめんなさい。穂高、フロックコートは洋室に出してあるから、彼女と一緒に準備していらっしゃい。それから真珠、ちょっとこっちへ。話があるの」
わたしは『星川』左棟に呼ばれ、兄は美容師さんと一緒に洋室のある右棟へ消えて行った。
左棟居間のソファに座ると、祖母も対面のソファに腰かける。
「お祖母さま? お話って何でしょうか?」
畏まった雰囲気の祖母を怪訝に思いながら、わたしは質問を試みる。
祖母は、どう話したものかしら、と言いながら腕組みをしている。
「さっき誠一さんから連絡があってね、ちょっとお願いしたいことが出来たのよ。明日、あなたは貴志と車で戻るでしょう? 貴志はそのまま都内の星川系列のホテルの連絡会議に出席することになっているんだけど、ちょうどそのホテルに『とある国』から来日された月ヶ瀬の主要顧客ご一家が滞在していらしてね。そちら様がね、真珠、あなたに是非会いたいとおっしゃられたそうなのよ。かなり大規模な開発を手掛けている国の方のお申し出だから、お断りするのも難しかったようで、少し会って差し上げてほしいの」
へ?
なんだか、とんでもなく非日常的な単語の数々が並んだ気がするのは、絶対に気のせいじゃない。
しかも、誠一パパ、まさかとは思うが、わたしのことを仕事中に話したのだろうか?
勝手な憶測ではあるが、子供の話を出して相手方を懐柔し、取り引きを円滑に進めたのかもしれない。
だが、しかし、何故わたしが会わねばならぬのだ!?
ただでさえ、先程の兄の態度が気になって仕方がないというのに、そんな余計な面倒を持ち込まないでもらいたい。
ああ、そうだ──明日の夜には、もう自宅に戻っているのだ。
誠一パパのしつこいほどの愛情攻撃から退避することの出来たこの平和な毎日が、とうとう終わりを告げることに気付き愕然とする。
しかも、とある国の要人とな!?
もしも、わたしが粗相をしたらどうなるのだろう。
相当マズイのではないか!?
落ち着きのないわたしの様子に、祖母が目をパチクリさせる。
「何を心配しているの? 大丈夫よ。一緒に来日しているお子さんが退屈しているから、ちょっと遊んでほしいっていうことらしいの。その子、バイオリンを習いはじめたばかりなんですって。楽器で遊んだらいいんじゃないかしら?」
正直、まったく乗り気ではない。
だが、月ヶ瀬グループ全社員の未来がこの肩にかかっている気がして、ここはわたしが一肌脱がねばならんのだろうと諦め、渋々了承する。
「分かりました。一緒に遊ぶだけなら大丈夫です」
溜め息交じりの回答に、祖母が苦笑する。
「心配しなくていいわよ。本当は穂高も一緒にと思ったんだけど、明日は自宅に戻り次第、ピアノの境野
ナルホド──それで穂高兄さまは無事逃げおおせて、わたし一人が人身御供となったのか。
「あと、真珠。お隣の
翔平と飛鳥!
そういえば、真珠にはそんな友人がいた。
言い訳になるが、夏休みに入ってすぐに伊佐子の記憶がよみがえり、忙しない毎日を送っていたので完全に失念していたが、真珠の交友関係も疎かにしてはいけない。
ああ、彼等にもお土産を買わねばならなかった。明日、貴志にどこかのサービスエリアに寄ってもらい購入しなくてはいけない。
あれ?
わたしは翔平と何か約束をしていた気がする──なんだっけ?
その約束をした時の、幼い真珠のワクワクする気持ちだけは覚えているが、肝心な内容までは思い出せない。
ものすごく楽しい遊びの約束だった気がする。
穂高兄さまの態度のみならず、面倒事がふたつ追加されてしまった。気が重くなっていたところ、準備を終えた兄が居間に戻ってきた。
黒のフロックコートを着て、アスコットタイをワンノットで結び、本当に王子さまのような出で立ちだ。
わたしのドレスのリボンとお揃いの古代紫のタイが光沢を放つ。落ち着いた色合いが顔周りを飾っているからか、いつもより大人びて見える。
ああ、さすが伊佐子の『最推しの君』──本当に素敵だと思う。
「どうしたの? 真珠? なんだか疲れているみたいだけど……」
わたしの表情だけで、心労に気づいてくれる兄の心遣いが本当に有難い。
そんな兄の優しさに触れたわたしは、明日の人身御供を甘んじて受け入れよう。仕方ない──そう思って微笑んだ。
咲也が『星川』に現れ、わたしと兄を連れてチャペルへと向かうため、本館最上階の廊下をエレベーターホールへと歩く。
彼は黒シャツに上下黒のスーツを着用し、ノーネクタイだ。髪を後ろに流すようにセットし、切れ長の目が更に涼やかに映る。
「そういえば、咲也は何を演奏するの?」
わたしの問いに対して、咲也が不思議そうにこちらを見る。
「なんだ? 貴志から聞いていないのか? ブラームスのピアノトリオだ」
わたしは首をコテリと倒す。
「聞いてないも何も、今日、理香と一緒に昼寝をするまで大人男子三人が三重奏をすることさえ知らなかったよ」
兄もそれに相槌を打つ。
「僕も知りませんでした。驚かせようとしたんですか?」
咲也が頭を押さえて「あー、まあ、そんなとこ」と言った後、一階に到着したわたしたちはエレベーターから降りる。
「俺も参加してみたかったっていうのもあるんだけど、貴志には迷惑をかけたから、色々な誤解を解きたかったと言うか。演奏シーンを俺のSNSで流して、コメント加えて誤解を解こうかと……」
やけに歯切れが悪い。
そういえば理香も何か言っていたような──
「ああ! あれか、綾サマとチェロ王子の男色疑惑!」
あれを何とかしたかったのか!
「うわっ 馬鹿! 大声出すな!」
「真珠、なんて事を!」
兄と咲也が、咄嗟にわたしの口を塞ぐ。
口を二人の手によって塞がれたわたしは、フガフガと言葉にならない文句を伝える。
わたしが落ち着いた後、咲也が話を続ける。
「あとな、恐れ多いことに、なんとあの柊紅子が俺の譜めくりをするんだ」
紅子が、か!?
「それはもしや、あの愛人疑惑の罪滅ぼし?」
咲也が、難しい顔をした。
「うーん……どうだろう? なんか『面白そうだな!』って食いついてきて……、あの人、ちょっと想像とは違って、変な人だなぁ」
兄と顔を見合わせて、苦笑いをする。
エレベーターホールからロビーへ、先に歩き出した兄が自分の腕を取るようにと目配せする。
常日頃、移動中は子供らしく手を繋いでいたのだが、今日は紳士淑女になったつもりでエスコートしてくれるようだ。
わたしはその腕をとり、二人でロビーを泳ぐように通り抜ける。
「真珠、チャペルでは心配をかけてごめん。君にあんな顔をさせるつもりは無かった……もう大丈夫だから、僕の──『兄さま』の演奏を聴いてくれると嬉しい」
兄の腕に置いた手にギュッと力を入れ、わたしは笑顔で頷いた。
「はい、楽しみにしています」
わたしの返答を受けて、兄は静かに微笑んだ。
チャペル前で貴志と理香、加山と待ち合わせし、そこに晴夏と紅子も現れる。
兄を含めた本日の演奏者四人と譜めくり担当の紅子は裏口に向かい、理香と晴夏の三人で『天球館』に入る。
受付に花束を届けてもらっていたので、それを忘れず受け取ってから席につく。
一般客の入場も始まった。
心の中から兄へエールを送り、彼が舞台に現れるのを今か今かと待ちわびる。
ただ、心で感じよう。
兄が決めた『想いの区切り』に、今からわたしが立ち会うのだ。
大切な人の代わりに、聴いて欲しい──兄は、そう言っていた。
妹として信用され、心を許してもらっているからこその、彼の頼みだ。
今はただ、彼の演奏に没頭しよう。
彼の演奏が終わったら、その傷が癒えるまで近くで支えていこう。
それがわたしにできる、精一杯の手向けになる筈だから。
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