第138話 【真珠】束の間の休息

 ガゼヴォの横を抜け、宿泊棟林立エリアの貴志の部屋へと向かう。

 わたしは花束を胸に、彼に抱き上げられた格好で運ばれている。



         …



 舞台裏に戻った貴志は、わたしを一旦椅子に座らせると、咲也からチェロを受け取り、演奏を共にした愛器を労うように撫でる。

 ケースから布を取り出すと、松脂まつやにで白く粉吹いたフィンガーボードとブリッジ下サウンドホール近辺を特に念入りに拭いた後、彼は黒のアコードケースにチェロをしまった。


 貴志の作業が落ち着いた頃合いで理香と加山がやってきて、先ほどの演奏の感動をそれぞれが伝える。

 

「葛城、本当に素晴らしい演奏だったよ。僕も一緒に参加させてもらえて本当に感謝している。ありがとう。」


 加山が右手を差し出すと、貴志はその手を強く握った後、加山をそのまま引き寄せる。二人で抱き合うとお互いの背中を叩き、笑いながら健闘を称えあった。


 今度は理香が、貴志の演奏を聴いて「思わず涙が出た」と語る。


「昔の色々なことを思い出したわ。本当に良い演奏だった。」


 笑顔でそう伝えた彼女は、わたしをチラッと見ると腕組みをした。


「貴志、あの感動の演奏の後だし、あんまりこんなことを言いたくないんだけど、真珠に変なことはしないでよ。するならこの子の希望通り、頬にキスまで。それ以上はアウトよ。分かってるわよね? そこだけは譲れないわ。」


 貴志は理香の科白セリフに溜め息をつく。


「理香、お前は本当に何を言っているんだ。そんな心配は、しなくてもいい。大丈夫だ。」


 理香は、疑わしそうな眼差しで貴志を見る。


「咲ちゃんの例もあるし、アンタの目にも真珠がどう映っているのか心配なのよ。いい? 分かっているとは思うけど、真珠はまだ子供よ。中身がちょっと常識外れなのは、よく分かるんだけど―――そこは、ちゃんとわきまえてよね。」


 わたしは理香の言葉にピシリと身体が固まった。

 そう、弁えるのは貴志ではなく、間違いなくわたしの方なのだ。


 今まであったアレコレの発端は、全てわたしが原因だ。

 所有印といい、掌越しの口づけといい、貴志のベッド潜り込み事件といい―――思い返すと、貴志が最初に行動を起こしたことは一度たりとない。最初にトリガーを引いていたのはことごとくわたしなのだ。


 故に、貴志が責められていることに対して大変申し訳ない気持ちになり、わたしは少し横槍を入れる。


「理香、心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。貴志はそんなことは絶対しない。」


 今はわたしが何を口走ってしまうのか、はたまたどんな行動をしてしまうのか、まったく未知数の状態だがな―――と、心の中で呟く。


 貴志は大丈夫だ。

 そういう一線については必ず守る男だ。

 そうでなければ、わたしは絶対に近づかないし、こんなに安心して一緒にいられる筈がない。


 貴志自身は自分の行動に不安を覚えて、色々と後悔していたようだが、わたしはそういった面での危機管理能力はかなり高い方だと自負している。


 もし何か危険を察知すれば、絶対に近づかないし、自然に疎遠な関係にしていくことはできる。実際そうやって生きてきた。

 それは、長く続いた海外生活で培われた伊佐子としての生きる知恵だ。身の危険を感じるような雰囲気を持つ男性に対する警戒心は、かなり高い。


 更に、理香を安心させるべく、もう一言付け加える。


「それにわたし、どう見ても子供でしょう? 貴志は、いつもわたしのこと、大切にしてくれているよ。だから大丈夫! でも、心配してくれてありがとう。」


 理香は溜め息をつき、残念なものを見る目でわたしを見つめる。


「ただの子供は、そんなこと言わないわよ。まったく、どこまで分かって言ってるんだか。もう、本当に調子が狂うわね。」


 理香のその言葉には、自分の顔に笑みを貼り付けて誤魔化すしかなかった。


 わたしが理香と話をしている間に、会話の輪から抜け出ていた貴志は、既にチェロケースを背負い、移動の準備を始めている。


 咲也が思い出したように、貴志に渡すはずだった花束を、わたしの腕の中に戻した。


「真珠、この花束は、貴志の部屋に運ぶのか?」


 ブーケを受け取ったわたしは、貴志のことを一瞥してから「そうだね。それがいいかも」と答える。


 貴志と加山と咲也は、今から一時間後に三重奏のリハーサルを開始する約束をして解散となった。


 まずはこの花束を部屋に置き、次の演奏の準備にとりかかるため、宿泊棟へ一度帰る必要がある。


 わたしは貴志に両手を伸ばし、とりあえず子供らしく抱っこをせがんでみる。

 甘えん坊の子供を演じると、貴志が仕方ないなという表情になる。軽く溜め息をついた彼は、わたしのことを抱き上げてくれた。


 そこへ、すかさず理香が物申す。


「貴志、『攻める』のも程々によ? 分かったわね!」


 理香の科白に、貴志はうんざりしたように深い溜め息をついた。


「理香、お前は俺のことを何だと思っているんだ。」


 彼女は腕組みをしたあと、右手の人差し指を顎に当てる。



「うーん……、友達? 悪友? あら? 外道だったかしら?」



 黙って、彼女の放つ言葉を聞いていた貴志の口角が、楽しそうに上がる。


 理香は、バンビちゃんを彷彿とさせるクリクリお目々を悪戯っぽく輝かせた後、満面の笑みを貴志に向けた。




「なんてね―――嘘よ。貴志は『恩人』―――わたしを助けてくれた、大切な恩人よ。」




          …



 石の教会『天球館』裏―――わたしたちは、演奏者用の出入り口から外へ出た。


 空には夕焼け雲が棚引いている。


 チャペル前の広場は、未だ観光客や宿泊客が食事ブースで和やかな時間を過ごしているため、かなり賑やかだ。


 チェロケースを背負った貴志は、その容姿もあいってかなり目立つので、周囲からの視線の集まり方が尋常ではない。


 けれど、彼は全く気にする素振りも見せず、颯爽とそのエリアを抜けていく。

 わたしもそれに倣い、その視線をかわして彼の首元に顔を寄せる。



 貴志の部屋に入り、ソファに降ろされたわたしは花束を見つめる。


 あまり深く考えず部屋までついてきてしまったが、どうやって会話を始めるのか、移動中に検討しておくべきだったと後悔しきりだ。


 色々と話がしたいのに、言葉が上手く出てこない。



「真珠、お前、喉がかわいているんじゃないか?」



 そんなわたしの気持ちはどこ吹く風で、貴志は普段通りの態度で話かけてくる。

 彼は部屋に設置された冷蔵庫から、冷えたミネラルウォーターを取り出したところだ。



 そう言われた途端、喉の渇きを覚える。自分が水分を欲していることさえ、全く気づいていなかった。



「うん。ありがとう。いただきます。」


 キャップを開けてもらい、ボトルを受け取ると、わたしはそれに直接口をつけ、少しずつ水を喉に流し込む。かなり泣いたから水分不足になっていたようで、それはとても美味しく感じた。


「泣いたから、かなり疲れただろう?」


 貴志に問われ、身体が気怠くなっていることにも、今更ながらに気づく。

 緊張しながら彼の演奏を聴き、更には嗚咽を堪えながら泣き続けたので、体力も相当消耗したようだ。


 貴志は珈琲を淹れるドリッパーを準備しながら、わたしに声をかける。


「無理するな。穂高の演奏もあるんだ。疲れているなら、今のうちに少しでも休んでおいた方がいい。」


 貴志の右手がわたしの頬に触れようとした―――けれど、少し躊躇いを見せた彼は、わたしに触れることなく空中で拳を握りしめる。

 その動作に淋しさを覚えたわたしは、思わず、反射的にその手を両手で掴んでいた。


 貴志は驚いたような表情をして、その動きを止める。

 わたしはその掌を自分の頬に当て、頬ずりをする。少し冷たい彼の手が、子供の高い体温には気持ち良く感じるのだ。


 貴志に触れたことで安心したわたしは、緊張を解きほぐすと同時に心地良い眠気に包まれた。やはり疲れがたまっていたようだ。


「話がしたかったけど……でも、駄目みたい……、眠い……30分だけ、寝ていいかな?」


 貴志が優しく笑った。その笑顔がわたしの心に温もりを与えてくれる。


「ああ、少し休め。話はその後だ。相当疲れているように見える。その様子だと、夜まで保たない。」


 彼は一度わたしから離れると、薄手のシャツを手に戻ってくる。


「穂高の演奏は必ず聴かないといけないだろう―――だから今は、眠ったほうがいい。」



 貴志の気遣いが嬉しくて、泣いて緩くなった涙腺がじんわりと活動を再開する。

 もう、本当に適わないな―――わたし自身が認識していない些細な変化でさえ、見逃すことなく気づいてくれるのだ。



 貴志はソファの前で膝をつくと、クローゼットから持ってきたシャツをわたしに掛けてくれた。


「真珠、真剣に考えてくれて―――聴いてくれて……ありがとう。今はそれだけでいい。とりあえず休め。」


 それだけ言うと、彼は静かに立ち上がり、ソファから離れていこうとする。

 わたしは咄嗟に彼の胸元に手を伸ばし、ネクタイを軽くつかんで引き留めた。


「貴志、お願い……30分で起こして……わたし、貴志に、言わなくちゃいけないことがあるの……お礼も……しな……くちゃ……。」


 珈琲の芳醇な香りが部屋の中に漂い始め、ドリッパーの中のお湯がコポコポと音をたてた。

 その音が段々と遠のき、眠りに落ちる寸前の感覚にわたしは目を閉じる。


 貴志のシャツに包まれると、安堵の吐息が洩れた。

 その服からは、先程の演奏で感じたものと同じ、暖かな陽だまりの匂いがした。



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