第133話 【真珠】わたしはその苦しさを知っている


「理香は、貴志のことが──好き……だったの?」


 驚いたように目を見開き、理香はわたしを見つめる。

 そして、何故か彼女は嬉しそうにフフッと笑った。


「気になるの?」


 首を傾げながら、そう言った。



 貴志と理香が一度関係を持ったことは知っている。

 好きでもない相手とそんなことができるのだろうか──それはずっとわたしの中にあった疑問だ。


「好きか嫌いか──その二択しかないなら『好き』よ。でも、あんたが思っているような『好き』とは違うと思うわ。どうしたの? そんなことを聞くなんて、珍しい」


 理香はキョトンとしている。


「理香と貴志は、深い関係があったって聞いた」


 わたしの科白を受けて、理香が固まった。

 その目は更に大きく見開かれる。


「真珠? それって、意味を分かって言っている……の、よね?」


 訝し気なその瞳を受けて、わたしは首肯し、言葉を続ける。


「貴志が『断る理由がなかった』って言ったのを聞いたことがあるの」


 理香はベッドの上に一度座ると「真珠、あんた何歳よ。本当に調子が狂うわね」と言いながらヘッドボードに寄りかかった。


「そんなに聞きたい? アイツのことを気にかけているってことだと思うけど……聞いても、あまりいい気分にならないわよ」


 溜め息をこぼしながら理香は言葉を紡ぎだす。


「アイツはんじゃなくて──のよ。殆ど脅しに近かったと思う。あの時のわたしの状況は最悪。お目付け役の良ちゃんも、かなり心配していたんだけど、その日に限って『ここ』にいなかったのよ。全部が全部、最悪の巡り合わせだった」


 その当時の『最悪な状況』というのが何を指すのか、わたしには分からない。理香もその理由について、今は話す気はないらしい。

 けれど、止むにやまれぬ事情というものがあったのかもしれない。


「頑張って生きていたとしても、自分の力だけではどうにもならない状況に陥ることがあるの。どんなに絶望を感じても、人生を放棄することなんてできない。でも、一人で立ち上がれない時、誰でもいいから縋りたい──誰かに助けてほしいっていう瞬間があるのよ」


 そこで言葉を止めた理香は、ホウと息を吐いた。


「──その時、たまたま……傍にいたのが、貴志だった。わたしはアイツを利用したの。自分の苦しさから──望みの潰えた恐怖から……この身に降り掛かった状況から、すべてから逃れるために。わたしはそういう狡い──甘ったれた人間なのよ」


 誰かに縋りたい、助けてほしい──絶望の淵に立った時の、その気持ちなら嫌という程わかる。


 わたしには、その時──貴志と兄がいてくれた。

 二人がわたしの心を救ってくれたのだ。


 もしあの時──浅草寺で、早乙女教授宅で──彼等が傍にいなかったら、わたしはとうの昔に精神を病んでいたかもしれない。


 理香の絶望の理由──どんな望みが潰え、彼女の身に何が起きたのか、わたしには知る由もないけれど、その辛さは痛いほどわかる。



 あの、呼吸をすることさえも辛く、心臓の中を冷たい血液が逆流する感覚は、思い出すだけで今でも身体が震える。



 全てを失い、一点の光さえ見つけられず、一人ぼっちで佇む──あの……孤独の沼。


 正常な判断が下せないほど麻痺した思考回路。


 考えることさえ放棄せざるを得なかった、終わりの見えない心の闇。


 もう二度と心から笑える日は訪れないと落涙した絶望感。



 誰か頼れる人がいるのなら、縋りついて、この苦しみを少しでも和らげたい──どんな手を使ってでも救いだしてほしいと渇望する気持ち。


 その全てを──わたしは、身をもって知っている。


 だから、わたしには理香の行動を、甘えという言葉で片付けることは到底できない。


 望みが潰える──その深い絶望と恐怖は、経験した者にしか分からない感覚だ。


 貴志との間にあった事は、決して褒められたものではない。

 それは正直な気持ちだ。


 けれど、あの闇を知ってしまった今となっては、理香の選択を甘えだと、そう簡単に言い捨てることはできない。


 理香の語る話に、少し前の自分が重なる。

 胸に苦しさがよみがえり、胸元の服をギュッと握りしめた。



「多分、今の貴志だったら、わたしの脅しにも屈さずに上手くかわしていたと思う。でも、あの時は、わたしもアイツもまだまだ……子供だったのよ」



 理香は膝を抱えて、座り込んだ。

 自嘲するように言葉を紡ぐ彼女は、シーツに寄った皺を見詰めている。


「実はね、この前のコンサートの後、貴志のところに押しかけたの」


 それは知っている。その時、わたしも彼の部屋のクローゼットの中にいたから。


「アイツったら、自分ひとりだけ幸せそうになっちゃって、何だか許せないっていう思いと、何があったんだろうっていう興味も湧いたの。でもね、あの音色を聴いたのが一番の理由。あの音を耳にして、わたしをもう一度勇気づけてくれないかって──愚かにもそんなことを考えちゃったの。馬鹿よね、わたし」


 理香はわたしの顔を見ると「でも、何もなかったから心配しなくていいのよ」と笑った。


「好きよ──貴志のこと。恋とか愛じゃないけどね。アイツが幸せを掴めるといいな──と、適度に応援するくらいには好き。友達に戻れて一番ホッとしているのは、間違いなく……わたしのほうなの」


 何を思ったのか、彼女は少しだけ楽しげな声で笑った。


「アイツは『断れなかった』じゃなくて『断る理由がなかった』って言ったのね。責任転嫁して逃げてもいいのに、生真面目というか、愚直というか──ああ、でも、わたしが言っていい科白じゃ……ないわね」


 最後は少し自嘲気味になりながら、理香がわたしの顔を覗き込む。


「でもそれも、もう全て過去のことよ。以前の貴志と今の貴志は別物として考えてあげてほしい。だから、真剣に考えて。アイツの演奏の答えを、みつけてあげて」


 理香は朗らかに笑った。


 痛みを知る人間特有の穏やかな表情は、何故か貴志の微笑みに似ている気がした。


 彼女は、既にその絶望の闇から抜け出して、自分の人生をその足で歩み始めたのだ。おそらく、彼女を見守り続けた加山の功績も多大にあるのではないかと想像に難くない。


 わたしも兄と貴志がいたから、この世界に根を下ろすことができた。

 誰かに甘えて頼ることで一歩を踏み出し、いつか再び、ひとりで歩める日がくるのならば、一時頼ることも、縋ることも、悪いことではない。

 それを教えてくれたのは、彼等だ。


 もう二度と経験したいとは思わないし、できるなら誰にも経験してほしくないけれど、この苦しみを知った人間は、他人に対して寛容に──優しくなれるのかもしれない。


 深い絶望でさえもそれを乗り越えた時、心を豊かにする経験のひとつになる。だから理香は、こんなにもわたしに対して心を砕くことができるのだろう。





 貴志に縋るしかなかった昔の弱い彼女は、もういない──そう思うと、何故かホッとした。


 貴志と理香の関係を初めて知った時、自分の心に生じた感情がよみがえる。どうして、複雑な気持ちになったのか──その理由について、もう一度考えようと思った。


 理香が溜め息をつきながら独白する。


「なんでこんな話をしているのかしらね。時々、真珠の年齢を忘れて話しちゃうのよ、これじゃあ、わたしも貴志と咲ちゃんと一緒ね。困ったわ、本当に」


 理香はわたしの頬を撫でてくれた。


 わたしは少し涙目になりながら、彼女に対してお礼を言う。


「理香、言いにくい話をしてくれてありがとう。それとね、いつも助けてくれて、ありがとう」


 なによ、殊勝になっちゃって──と理香はわたしの額を小突いた。


「まあ、あんたは現況、貴志の心を理解できるのかどうか、不安なのかもしれないけど──きっと大丈夫よ。

 正直言うと、年齢差もあるし、あんたの外見は子供だしで、わたしは二人の関係をどう見守っていいのか分からないんだけど、貴志に笑顔を取り戻したあんたの存在には、感謝しているのよ。それは、良ちゃんも、咲ちゃんも、同じ思いだと思うわ」


 理香はベッドに横になり、わたしに布団をかける。

 そして思い出したように「そうだ」と言って、ソファで寝入る晴夏を一度目に入れ、次いでわたしに視線を向けた。



「昼寝から起きたら、晴夏ともきちんと仲直りしなさいよ。あの子が感情を表すなんて珍しいけど、きっとそれはあんたに心を開いた証拠。仲良くなれたってことよ」



 仲良くなれた?


「そうなのかな。そうだと……いいな」



 仲良くなったから、晴夏は言いたいことを遠慮せずに口に上らせたということなのだろうか。



 理香が虚空を見つめ、小さな声で何事かを呟いた気がした。



「晴夏といえば……、わたしは柊女史にも鷹司社長にも謝罪しないといけないわ。あの時は、……あまりにも自分を見失い過ぎていたから。これから目指す未来の為にも、しっかりけじめをつけなくちゃね」



 彼女が何と言ったのか分からなくて「なあに? 聞こえなかったよ」とわたしは問いかけた。


 理香は「何でもないわ、独り言よ」と笑った。




「ほら! もう、寝ましょう。今夜は、三重奏トリオの演奏鑑賞もあるんだから」




 三重奏!? なんと!

 一体どういうことなのだろう?




「え? 誰が弾くの? 聞いてないよ。あれ? 飛び入り参加って午前中と昼だけじゃなかったの?」


 理香はニヤッと笑う。


「あの面子だからね、主催者側から夜の演奏に時間帯変更の打診があったのよ」


 わたしは、誰がスモールアンサンブルを組むのか気になって、ワクワクが止まらなくなる。


「え? 誰? 誰が弾くの?」


 わたしの食いつきに、理香が苦笑する。


「良ちゃんと咲ちゃん、それに貴志よ。咲ちゃんたっての希望らしいわ。あの男色疑惑の払拭に一役買うつもりでいるみたいだけど、本当にできるかどうか……甚だ疑問ではあるわね」


 そうか! だから、咲也の『テンペスト』以降、あの三人は一緒に過ごしていたのか。加山はわたしと晴夏のリハーサルに現れず、昼食も男三人で摂っていたことを思い出す。


「なるほど、そういうことだったのか」


 わたしは納得して呟いた。


「本当は貴志と良ちゃんの二重奏も夕方以降で演奏できないかって問い合わせがあったみたいだけど、貴志が断ったのよ。昼間の明るい時間帯で演奏したいんですって。ま、曲名が曲名だからね。分からなくもないわ。変な勘違いをされたくないんでしょう」


 それは、わたしの為に弾いてくれるという曲のことだろうか。


「曲名?」


 わたしが首を傾げると、理香は人差し指を口元にあてる。


「いまは内緒! 起きたら、貴志の演奏よ。だから、今はゆっくり寝ておきなさい」


 わたしは理香の柔らかな胸元に潜り込み、もう一度瞼を閉じた。



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