第119話 【真珠+穂高】幸せの形


 衣装を着て、バイオリンを構える。

 どんなに素敵なドレスだとしても、演奏が容易たやすくできなければ意味がない。


 服が左手のシフトに影響を与えないか、右手のボーイングの邪魔にならないか、細心の注意を払う。


 晴夏のスーツは右手の運弓に影響が出そうだということで、明日はジャケットを着用せずグレーのジレのみで演奏することになった。


 ジレの胸元にポケットチーフを入れ、全体的に淡い色の仕上がりとなる。

 晴夏と並び、二人の姿を確認したところ、わたしの衣装とより一体感が出たので大人女子二人は大満足のようだ。


「理香は何を着るの?」


 わたしは気になって訊いてみた。


「わたし? わたしは今回は影に徹するつもりだから、黒のドレスよ」


 黒いドレスの理香か。いつものフワフワした格好の彼女とは違って新鮮だ。


「いつもと違う雰囲気だから、加山ンも理香に惚れ直すね」


 わたしがそんな事を言うと、理香は呆気にとられた表情をみせた。


「な……、何をマセたこと言ってるのよ! 良ちゃんとは、そんなんじゃないから!」


 理香は、かなり動揺しているようだ。

 これは失言だったなと反省したが、理香は「え? え? どういうこと? 何でそうなるのよ?」と両手で頬を抑えて非常に戸惑っていた。


 紅子の宿泊棟の玄関チャイムが鳴り響く。


「貴志、やっと来たな。理香がメッセージに添付した写真は見たか?」


 玄関を開けながら紅子は上機嫌だ。

 彼女は貴志に、先ほど理香が送った撮影会の写真を見たのか確認をしている。


「写真? いや、音を消していたから着信に気づかなかった」


 彼は何のことか分かっていないようで、紅子を訝し気に見ている。


「なんだっ つまらんな! ……まあいい、実物を見てみろ! 婿!」


 いつの間にわたしは鷹司家の花嫁になったのだろう。


 紅子の妄想と暴言に、きっと晴夏も死んだ魚のような目をしているのではないかと思う。


 彼がどんな顔で呆れているのか気にはなるが、先ほど理香の部屋で失言大会を繰り広げた負い目もあり、今は彼の顔を怖くて見ることができない。



「真珠、ほら、晴夏の腕に手を置いて! 写真をまた撮るんだから!」


 紅子に追随し、理香もかなりノリノリだ。

 わたしひとりの心だけが置き去りになっている現状である。


 軽く溜め息をつき、大人女子二人の威勢に負けて、晴夏の腕にオズオズと手をかける。

 これに逆らったら、後がこわい──それを分かっているのだろう。晴夏も渋々ながら腕を貸してくれた。


 貴志とも目が合った。

 どうやら、紅子と理香の勢いに怯えるわたしと晴夏を憐れんでいるようだ。


 兄と千景おじさまの愛情の込められたドレスは、貴志の目にはどんな様子に映るのだろう。


 少し胸を張って、お姫さまのような所作になるよう頑張ってはみた──が、残念ながら思ったような反応は得られなかった。


「なるほど。馬子にも衣裳──」


 貴志は、紅子と理香の猛攻にも屈さず、彼女らの思惑にのってなるものか──と、澄ました表情でしっかりと毒を吐いた。


「貴志、お前は、ほんっとーに、いじり甲斐のない奴だな。そんな反応じゃつまらんぞ!」


 紅子はかなり不服そうだ。

 理香も「え? たった、それだけ?」と不満足な模様。


 そんな二人を無視して、貴志はチェロケースを背に、わたしと晴夏の傍まで寄ってくる。


「で? 真珠、晴夏、その格好──バイオリンは弾きやすいか?」


 わたしと晴夏は、貴志のその質問にしっかりと頷いた。わたしは更に腕をぐるぐるとまわして、動きやすいところをアピールして見せた。

 その様子を確認した彼は、わたしと晴夏の頭を撫でて笑う。


「その分なら大丈夫そうだな。紅と理香にはああ言ったが──二人とも、よく似合っている」


 貴志は、それだけ伝えると腕時計を確認し、紅子の部屋から出ていこうと踵を返す。


「もう行っちゃうの?」


 少し寂しく思い、わたしは貴志の服を引っ張った。


「ああ、今から加山と咲と一緒に昼食を摂ることになっている。あの二人は先に行っているから、チェロを部屋に置いたらすぐに行かないといけないんだ。今日は一緒に食事はとれないが、穂高と一緒に紅の所で食べてくれると助かる」


 そうなのか。

 今日のお昼は別々か。

 ちょっと寂しい気分だ。


「どうした? 元気がないな。もうすぐ昼飯時なのに珍しい」


 貴志が揶揄からかいつつも、少し心配そうな目をしたので、わたしは慌ててその表情を誤魔化した。


「そんなことないよ。大丈夫」


 多分、貴志は気づいている。

 わたしが取り繕ったことを──でも、無理強いして理由を尋ねることはしないのだろう。

 わたしが言いたがらないのを分かっているから。 


 貴志が様子をうかがうようにこちらを見詰めている。

 わたしは視線を交差させたまま逸らさずに、彼に微笑みを送り続けた。


 何も答えないわたしの様子を理解した貴志は軽く息を吐き、次いで理香に昼食についての確認をする。


「理香、加山が昼食を俺たちと一緒に摂るなら直ぐに来いと言っていたが、どうする?」


 理香は、悩んでいたようだが割と早く結論を出した。


「咲ちゃんもいるのよね? 貴志と良ちゃんだけでも目立って仕方ないのに、咲ちゃんまでいるんじゃ落ち着かないから、今日はパス! あんたみたいに写真を撮られて全国デビューも避けたいしね」


 貴志は「なんだそれは」と言って渋い顔をした後、部屋に戻っていった。


 わたしは名残り惜しい気持ちのまま、貴志の背中を見送った。


「真珠、大丈夫? ちょっとこっちに来てごらん」


 穂高兄さまもわたしの心の変化に目敏い。

 少し元気のない表情を心配したのか、わたしのことを手招きする。


 兄の傍に近寄ると、本館のドレスショップの袋が目に入った。その中から、彼はラッピングされた縦長の箱を取り出す。


「これは……何でしょうか?」


 兄は、ふふっと笑ってから、その箱をわたしに手渡した。


「これは、真珠のドレスのリボンと同じ色のネクタイ。千景おじさんが、みんなでお揃いでつけたらどうかって言ってね。僕と貴志さんにもプレゼントしてくれたんだ」


 自分のドレスに縫い付けられた光沢のあるリボンを手で触る。

 綺麗な渋い色合いの──古代紫。これとお揃いなのか。


「貴志さんに渡そうと思っていたんだけど、うっかり忘れてしまったんだ。今から届けてくれると助かるんだけど」


 わたしはそのネクタイを受け取り、勢いよく頷くと貴志の部屋に向かって走り出す。


 紅子の部屋の玄関口を開けると、貴志は宿泊棟の扉を開けたところだった。


「貴志!」


 わたしの声に驚いたのか、彼は反射的にこちらを向いた。それと同時にわたしは彼の腕の中に飛び込む。


「真珠、いきなり飛び掛かると危ないぞ。俺が受け止められなかったら怪我をするだろう」


 貴志は困ったやつだな、と言う表情で、そのままわたしを抱き上げた。

 いつもの縦抱きで、わたしの方が彼よりも頭ひとつ高いところにいる。


「ごめんなさい。でも、貴志は、絶対に受け止めてくれるでしょう?」


 わたしは彼の首に手を回して、ギュッと抱きついた。


「そうだな。必ず……受け止めるよ」


 貴志の首にまわした腕を緩めて身体を起こすと、わたしは彼の双眸を見下ろした。その瞳からは、穏やかで温かな──包み込むような想いが伝わってくる。


 あの苦しげに笑う彼の姿は、あの朝の──掌越しの口づけを交わした日から鳴りを潜めている。


 暫く見つめ合った後、どちらからともなく二人で笑い合った。



          ***



「穂高、あんまり敵に塩を送ってやらなくてもいいんだぞ」


 紅子さんが呆れたように言う。


「そんなこと、していませんよ。貴志さんは敵なんていう物騒な相手ではないですし」


 敵に塩──そんなつもりはなかったし、敵だとは思っていない。

 真珠を任せられる相手なのかどうか、見極めなくてはいけないけれど。


 そもそも、僕が真珠のことをどんなに想っても、それは叶わない願いだし、叶えてはいけない想いだ。


 ただ、僕は真珠にはいつも笑っていてほしいだけ。


「僕は、真珠の笑顔が見たいんです──父も、母も、つい最近まで、僕に心からの笑顔を見せたことは──なかったんです」


 紅子さんも理香さんも、黙って話を聞いてくれる。


「真珠が初めて、僕の心に温かな──本物の笑顔を向けてくれた。だから、あの笑顔を守りたい──幸せにしたい。そう、心に決めたんです」


 晴夏も静かに僕の話に耳を傾けている。


「幸せを──僕は妹から与えてもらってばかりです。……酷い兄だったのに……。僕は、愛情が欲しくて、誰かに幸せにしてもらいたくて──欲しがってばかりでした」


 僕は、今まで誰にも吐露したことのない気持ちを、淡々と吐き出していく。


「彼女はきっと、僕よりももっと寂しい思いをしていたはず……、僕は兄として、真珠の心に寄り添ってあげなくてはいけなかったのに──守らなくてはいけなかったのに。そのことにさえ気づいていなかったんです」



 真珠は、いつも家で何をしていたのだろう?


 ひとりで──どんな思いで、あのいびつな家にいたのだろう?



 夏休みに入る以前。僕は学校から帰ると習い事に追われる毎日を送っていた。




 彼女は、その間『誰』と、どんな時間を過ごしていたのが──そんなことさえ、僕は知らないのだ。


 彼女が我が儘を言うのは、もしかしたら……寂しさの裏返しだったのかもしれない。

 けれど僕は、彼女の心を受け止めることなく、幼い正義感から、真珠にも厳しい対応をしていたのだ。


 ──そう、彼女が舞台で倒れ、生死の境を彷徨うことになったあの日まで。




「真珠は、自分も欲しかっただろう愛情を、こんなに情けない僕に向けてくれた。僕が欲しくてたまらなかった温かな──優しい笑顔を、何の見返りも求めずに今も──与え続けてくれるんです。どれだけ僕の心が救われたのか、きっと彼女は知りません」




 誰かに幸せにしてほしかった──他力本願だった僕。

 それは間違いだと気づかせてくれたのは、真珠だ。


 僕は彼女を幸せにしたい。

 彼女には、いつも笑っていてほしい。


 自分の手で直接幸せにすることはできないけれど、彼女が幸せになるための手助けなら──してもいいはずだ。




「真珠の幸せが、僕の幸せなんです。それが、あの日から──僕の中にある『幸せの形』なんです」




 僕は、自分の口元に無理矢理笑顔を刷かせた。

 皆にこの複雑な気持ちを撒き散らしてはいけない。




 本当は、自分の手で彼女を幸せにしたい──それは願ってはいけないことなのだから。




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