第117話 【真珠】穂高と晴夏の『想い人』
晴夏と一緒に、理香の部屋で明日に向けてのリハーサルを行う。
晴夏のバイオリンの音色も、加山にブリッジの位置を直してもらったことで、無事元に戻った。これで一安心だ。
わたしたちは、理香の伴奏に合わせて音をかき鳴らす。
いや、理香がわたしたちの演奏の呼吸を読んで、欲しい時に望んだ音をくれるといった方が正しいかもしれない。
ここで盛り上げてほしい。
ここは少しテンポにゆとりを持たせたい。
――その願いをピタリと理解し、わたしと晴夏の望む楽曲へと仕上げてくれるのだ。
ただ上手に弾くだけのピアニストなら五万といる。
けれど彼女のこの寄り添うよう、導くよう──更に奏者を引き立てようとするピアニストの存在は、とても稀少だ。
彼女はまるで呼吸でもするかのように、苦もなく私たちの演奏に溶け込んでくる。
この伴奏の腕前は素晴らしいとしか言いようがない。
貴志が昨年まで、毎年彼女を伴奏に指名していたのは伊達じゃなかった。
そう納得できる実力の持ち主なのだ。
…
「午前中の練習はこれくらいにして、 夕方もう一度リハーサルをしてから明日に臨みましょう。真珠に晴夏、このモチベーションを保つのが大切だから、今日は無理せずリラックスして過ごしてよ」
理香が頬を上気させて瞳を輝かせている。彼女もわたしたちとの合奏を心から楽しんでいるのが分かり嬉しくなった。
「理香、ありがとう。わたしが将来コンペティションに出ることになったら、理香の伴奏を永久指名で予約しておきたいくらいだよ。本当に最高のアカンパニストだと思う」
わたしの言葉に理香は嬉しそうに笑う。
「伴奏者の永久指名なんてされたら、あんたの『お兄さま』に間違いなく刺されるわね。わたし」
理香は苦笑いになって、そんな物騒なことを口にする。
いやいや、穂高兄さまが、そんな恐ろしいことをするわけがない。
「お兄さまは王子さま――いや、天使? だから、そんな怖いことなんかしないよ。優しさの権化だもん。思いやりがあり過ぎて、こっちが心配になっちゃうくらい――ね? ハル?」
最近、兄と仲良しこよしの晴夏に話を振ってみる。
「穂高? 王子さま? あ……うん……どう、だろう?」
およ? 歯切れが悪いな、晴夏よ。
ああ、そうだった。
晴夏は理香の名前を彼女が自己紹介する以前から知っていたくらいに、彼女のことが気になっているのだ。
お兄さまも、理香のことを知っていたし――二人して理香を巡る、恋のライバルなのかもしれない?
晴夏は当初、理香を警戒していた様子も見受けられたが、あれは警戒ではなく緊張だったのだろう。
恋する女性の近くにいる――そんな初々しさ溢れる、心高鳴る緊張感か。
わたしも一度でいいから経験してみたいものだ。
最近、兄と晴夏の二人が仲良くしているのは、理香について語らい、情報交換をしているからなのかもしれない。
彼女の前で、わたしが兄だけをほめ倒すのは、晴夏の男としての沽券にかかわるのだろう。
やはり、好みの女性の前では、自分が一番素敵でありたい――と、そう言うことか。
晴夏は、体力的に弱いところはあるけれど、心はしっかり男の子なのだな、とちょっと感心もする。
頑張れ、晴夏!
今のままだと、将来的に理香は加山のお嫁さんになってしまうが、幼い初恋の甘酸っぱい思い出くらいにはなるのではないかと思う。
兄と晴夏は高校生になったら初恋の理香ちゃん先生に進路指導してもらうことになるのだろう。
叶わなかった恋の相手からの個人指導(?)――何ともキュンッとくるシチュエーションだ!
その頃には彼らの心を釘付けにする『主人公』が現れるのだが、初恋の理香ちゃん先生と『主人公』との狭間で、多感なお年頃を過ごすのだな。
その時には、お姉さんなわたしが是非とも相談に乗ってあげなくてはならない!
そのためにはわたしも頑張って恋やら愛やらを色々と学んでおく必要がある。
実地は難しいしハードルが高いので、通信教育で恋愛講座なるものがあるのか探してみる必要がありそうだ。
十年後の楽しみができたところで、気になることを思い出す。
そうなると、兄の『想い人』というのは――理香ということになるのだろうか?
その『大切な人』のために、明日の演奏に臨むと言っていた。
でも、理香に会うよりも前に『大切な人』発言をしていた気もする――が、実は理香のことを既に知っていた可能性も無きにしも非ず。
やはり兄の『想い人』は――理香?
気になる人物でなけれは、事前に名前を調べるなんて熱烈なことはしないと思う。
誰かの名前を知りたい、と必死になって調べた経験は皆無なので、あくまでもわたしの予想でしかないが――
よし!
ここはわたしが兄の為に一肌脱いでさしあげよう!
想いは本人から伝えるのは当たり前だが、まずは演奏を聴いてもらわないことには何も始まらない。
わたしは意を決して、理香に笑顔で話しかけた。
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