第112話 【鷹司晴夏】未来の構想図


 コンサート翌朝──突然、目が覚めた。

 昨夜、真珠との夜の練習をキャンセルせざるを得なかったことを思い出し、僕は頭を抱えた。


 昨日は夜の練習のためにする筈だった昼寝ができなかった。


 それが原因で、僕は立食パーティー後、部屋に戻ってすぐに眠ってしまったのだ。


 母に確認すると、真珠は練習ができなかったことを別段怒るでもなく「それじゃあ、仕方ないね」と言って、帰って行ったらしい。


 約束を破ってしまったことを申し訳なく思いながら、窓の外を眺める。


 外で太陽の光を浴びたい──そう思い、母に許可をとってから外に出る。


 ガゼヴォへと向かう小径に足を進めると、貴志さんの棟の窓が開いていることに気づいた。


 もう起きているのか──そう思って窓辺に近づく。


 窓の外からはベッドが目に入った。


 あれは真珠だろうか?

 なぜ貴志さんの部屋で眠っているのだろう?


 彼女は白いタオルで目元を隠し、スヤスヤと寝入っているようだ。


 ──貴志さんは?


 その姿を室内に探す。

 彼はソファに腰かけて、ノートパソコンで何かを読み込んでいるようだ。

 何冊かの本がテーブルの上に開かれた状態で置かれている。

 積まれている本と書類も目に入る。こちらは読破したものなのだろうか、付箋が貼られているようだ。その本の背表紙には、日本語と英語と──あとは僕の知らない言語が記されていた。


 真剣な顔で本に目を通し、それをテーブルに戻すと別の書類を読み、次いでPC画面に向き合う。

 

 僕は、彼を覗いているだけの状態に気づき、朝の挨拶をしようと窓をノックする。


 貴志さんが勉強中なのか、それとも仕事中なのか、どちらかは分からない。


 邪魔をすることになるが、一度声をかけておきたかったのだ。


 僕に気づいた彼は本をテーブルに置くと、窓辺に近寄る。


「ああ、晴夏か。おはよう」


「おはようございます。勉強中にすみません」


 僕がそう言うと、貴志さんは優しく笑った。


「大丈夫だ。そろそろ切り上げようと思っていたところだ」


「音楽の……勉強、ですか?」


 彼が真剣に読み込んでいた本が気になり、興味が湧いたので質問してみた。


「いや、これは違う。経営学や経済学──各国の政府が統計をとった経済政策後の変遷データをアナリストの論文とあわせて読んでいたんだ」


「経営? 経済?」


「ああ。一応、俺もホテル経営の一端を担っているからな。経営顧問や専門のブレーンもいるが、何かあった時にオーナーが『知らぬ存ぜぬ』というわけにはいかないからな。今は大雑把な当たりをつけるために勉強中の身だ──晴夏には……まだ少し難しい話かもしれないな」


 貴志さんは僕の頭の上に、その大きな手を置く。


「……逃げることは──止めたんだ。後悔しないために」


 彼は、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。


 その言葉のあとで、彼はベッドの上の真珠のことを見た。

 彼女が寝返りを打って、目元のタオルが外れたことに気づいたからだ。


 瞼が少し赤く腫れあがっているように見えた。


「ちょっとコイツのタオルをもう一度冷やしてくる。鍵を開けるから、玄関から入ってきたらどうだ?」


 貴志さんは僕の頭頂を撫でたその手で、今度は真珠の頭を撫でる。


「いえ、今は遠慮しておきます。僕は部屋に戻って朝食をとるので、シィが起きたらいつでも練習できると伝えておいてください」


 僕はそう言って、窓辺から離れた。


 貴志さんは「そうか」と言うと、タオルを手に持ったまま、僕の背中を見送ってくれた。



 貴志さんは、やはり大人だ。


 現在のことだけでなく、彼の頭の中には未来の構想図も組み込まれているのだろう。


 音楽家としての未来も。

 経営者としての未来も。


 彼は何をどう選択していくのだろう。


 そこには、彼の『天女』──真珠との未来も含まれているのかもしれない。


 僕は──


 僕はまだ、目の前にある問題にしか向き合うことができない。


 貴志さんと自分の間にある差を比べて、焦ってはいけない──そう言い聞かせて、自分自身を納得させなくては動けなくなりそうだった。


 微かな焦燥感を覚えながら、僕は空を仰いだ。




          …




 事件が起きたのは、その日の午前中──ガゼヴォで真珠と協奏曲の練習中のことだった。


 昨日よりも森の周辺に人が多い。なぜだろう? と不思議に思った。

 僕たちの練習を眺めている人垣に、西園寺理香の姿を認めドキリとする。


 理香と一緒にいるのは昨日のバイオリン・デュオの男性だ。二人は何かを話し合っている。


 そちらに気を取られて、僕は気づけなかった──突然現れた女性の集団が真珠の腕を取ったことに。


 僕は一歩出遅れた。

 彼女は既に三人の女性に囲まれていたのだ。


 穂高と約束したのに、肝心な時に真珠を守れなかった──焦る僕の心を他所に、一人の女性の手が僕の腕に置かれた。


 ゾワリと肌が粟立ち、緊張が走る。


 けれど、その場を救ったのは──要注意人物の筈の『西園寺理香』だった。



 彼女と一緒にいた男性が僕の元に近づいてくる。


「その手を離してあげてください。バイオリニストにとって、腕は命と同等の意味を持ちます──失礼」


 僕の腕を掴む女性に話しかける彼は、穏やかな口調ではあるけれども有無を言わせない笑顔を女性に向ける。彼は、その女性に断ってからその手に触れ、僕の腕を自由にしてくれた。





 予期せぬ事態と、想定外の人物からの救助により、僕たちは西園寺理香の宿泊棟へ移動することになった。


 穂高に知らせないといけない。けれど、どうやって?


 真珠は、理香に対して警戒をしている様子はない。


 どちらかというと彼女に興味があるようだ。


 そう言えば、昨日のコンサートで、理香たちの演奏に大きな拍手を送っていた。


 そして、今朝、僕の母と伴奏者について話していたことを思い出す。その中で、理香の名前を耳にした気がする──まさか?


 理香の部屋に入るとソファをすすめられた。


 真珠が怪我をしたということで、その手当の為に僕たちは離れ離れになってしまった。


 落ち着かないまま、加山良治と名乗った男性と一緒に玄関口の部屋で待つ。


 戻ってきた真珠は、何故か髪型を変えていた。先ほどまで首元に巻いていたスカーフを飾りにしている。

 髪を上げた彼女の雰囲気は、いつもよりも大人びて別人のようだった。

 僕は思わず目を見開いて、その姿を凝視してしまった。


 真珠は「理香が結んでくれた」と嬉しそうに結び目を指差している。


 戻ってきた彼女の首元の印の位置に、小さな絆創膏が貼られていた。


 貴志さんも「かなり反省している」と後悔を口にしていた印。


 隠す必要があるものなのだな──ということだけは漠然と感じていた。それを理香は、怪我だと言って絆創膏で覆ってくれたのだ。


 理香への警戒心を少し緩めるべきなのだろうか。けれど、まだ、その判別はつかない。



          …




 そのすぐ後、貴志さんが慌てた様子で理香の部屋に飛び込んで来た。次いで、穂高が駆け込んで来る。


 二人とも真珠を心配して、ここまでやってきたのだ。


 僕は、二人の訪れにホッと安堵した。




 真珠だけは、二人が──いや、僕も含めて三人が、何故こんなに彼女のことを心配しているのか、全く理解できていないようで、呑気な顔でキョトンとしていた。





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