第76話 【真珠】「何故、信じられないのかというと」
晴夏とわたしの二人は、理香と加山の前で合奏をする。
まずは二人の呼吸を見てもらい、その後、理香の伴奏とあわせて三人で調整していくのだ。
伴奏譜を渡し、譜読みをしながら二人の合奏の確認をしてもらう。
穂高兄さまは、紅子とのレッスンの時間になったので、彼女の部屋に戻って行った。
貴志は、わたしたちのリハーサルの様子を壁に寄りかかりながら眺めている。
…
さきほど、理香と加山の二人がガゼヴォでの一件について、兄と貴志へ説明してくれた。
昨日の『クラシックの夕べ』では、ビデオ撮影していた人もかなりいたため、どこかでそれを目にした人達が貴志に興味を持ち、その映像に出ていたわたしと晴夏に近づいたのだろう──と、そんな憶測を話していた。
だが、コンサートは昨夜のこと。
女性たちとの遭遇は今日の午前中──いくらなんでも、それは早過ぎるという話にもなった。
その話を受けて貴志が教えてくれたのだが、今年から前日のコンサート映像を本館ロビーの隅で随時流すようになったとのこと。
本館には食事の時以外、滅多に顔を出さない理香と加山は、そのことを初めて知ったようで「なるほど」と呟いていた。
件の彼女たちは、今朝から流れているビデオを見た宿泊客、もしくはチャペル『天球館』の見学に来ている観光客、双方の可能性もあるということで「当面子供だけで行動するな」と申しつけられた。
そうなのか。
ロビーでビデオを流していたのか。
それは知らなかった。
ぜひ、そのビデオをDVDに焼いてほしい。貴志と紅子のあの映像をまた見たい。
…
それにしても『チェロ王子』か──まだまだ先の未来にて呼ばれる筈の愛称が、既に貴志に冠されていることに驚きを隠せない。
貴志がプリンシパル・チェリストをつとめる交響楽団の定期公演前。その宣伝ポスターや電車の中吊り広告に彼の写真が使われると、持ち去る人が続出するとゲーム内で誰かが語っていたことを思い出す。
彼の
その号は発売日当日瞬時に姿を消し、緊急増刷がかけられたという伝説も攻略本に載っていたと記憶している。
公の場に出るのは公演時のみと露出が少ない割に、歌手に俳優、アイドルやタレントを差し置いて、クラシック界のプリンス『チェロ王子』が『抱かれたい男ナンバーワン』の座をキープしていたのだ。
他からの追随を許さない、圧倒的人気だったことがうかがえる。
『この音』の三十代にさし掛かった頃の葛城貴志のスチルを思い出す。
その姿と重ねて、現在の彼の姿をまじまじと見る。
ゲーム開始年齢よりも若い現在の彼でさえ、人目を惹かずにはいられないのだ。
年齢を重ねた十年後──大人の落ち着いた包容力と成熟した自信、そこに男の色気が加わり、人を惑わす魅力が顕在するのだろう。
チェロ王子の虜になる女性が続出するのもわかる。
昨日のコンサートでの、ほんの数分間の映像を目にしただけで、見ず知らずの女性がこんなにも彼に興味を持つのだ。
そうでなくても、彼の周りに侍る女性は多く、実際に選り取り見取りなのだろう。
そんな女性に事欠かない彼が告げた──『この音色を君に捧ぐ』というあの言葉には、どんな意味が隠されているのだろう。
一度は、わたしのイカれた耳と湧いた頭が見せた幻聴及び幻覚でないかと疑いもしたが、『最後日に演奏する』と彼はハッキリ言っていた。
そのことから、真意は分からないが実際に口にした科白だということは理解している。
──おそらくわたしの妄想ではないはずだ。
この言葉はゲーム上で重要な意味を成すのだが──本来の意味ではない可能性もある。
彼は、どんな意図をもって、伝えてくれたのだろうか。
何故あの瞬間にビデオがまわっていなかったのだろう。
そうすれば彼の表情を再確認できた筈なのに。
もう、どうしていいか分からない。
大事にされている──とは思う。
今日もわたしのことを心配して探してくれた。その様子をみても、その考えは間違いない。
でもそれは、保護者としての心配なのかもしれない。
あの掌越しのキスの時、貴志は震えていた。
深い愛情を感じたと思ったのに、あの震えは、わたしを宥める為とは言え「何故子供に、こんなことをせねばならんのだ」という、怒りからくるものだったら、本当にどうしよう。
貴志に嫌われたら──間違いなく、泣く。
しばらく立ち直れないだろう。
それだけは断言できる。
何故こんなに、一度耳にしたと思った言葉が信じられなくなり、不安になるのかというと、わたしの実年齢が問題なのだ。
そう、つまるところ──わたしは、ただの子供だ。
精神年齢は子供ではないが、恋心を伝える対象には、やはりどう考えてもなり得ない。
これを言ってしまっては身も蓋もないのだが──平たく言えば、健全な成人男性の欲求を満足させるようなことは何もできない──この今の真珠の生身の身体では。
まかり間違ってそんなことをしようものなら、心身共に軽く死ねると思う。
恋愛には精神的な繋がりが一番大切だ、と少女漫画なら言えるが、実際いい年をした大人が肉体的な繋がりを求めないことなどあり得ないだろう。
そんな上級者向けの実体験は無いし、そんな行為をしたいと思ったこともない。相当、枯れていた伊佐子時代なのだが──『種の保存』という生物に課された本能を考えると、恋愛感情が芽生えた時点で、自然と身体の繋がりを求めるようになるのではないか、と思うのだ。
今は貴志と、そういった行為をするなど不可能だ。
せめてあと十年、いやできるならもう少し待ってほしい。
わたしは本当にどうしてしまったのだろう。
こんなことを真剣に考えるなんてどうかしている。
自分にとって貴志の存在って何なのだろう──今まで全く経験したことのない感情が心の中に育っているのは分かる。
でも、これが何から生まれた感情なのか、さっぱり分からないのだ。
少なくとも、これは尊に感じていた感情とは全く違うものだ。それだけは分かる。
自分の心なのに、判断がつかない。
貴志には、振り回されてばかりだ。
こんな経験、今までしたことがなかった。
もう自分のすべてが全力で信じられないほど、今朝から彼の言葉に翻弄されているのだ。
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