第四話 【揺らぐ心と揺るがぬ覚悟】
「これが、俺とあいつらの間にあった話。俺が中村を好きになれないのはこれが理由だ」
夜風の涼しいバルコニーのような場所で、ラディナたちに背を向けた葵はそう話を締めくくった。
最近ではあまり聞かないいじめの話。
親世代ではそこそこ大きな問題として取り上げられることの多かった話だ。
「……それで、その……その後はどうなったのかって、聞いてもいいのかな?」
「構わない、と言っても大したことはなかったよ。全部が嫌になって、でも死ぬ勇気はなくて、部屋に篭って家族の誰かが持ってきてくれる飯を食って、無意味に、無気力にネットを眺めて過ごしてた」
滔々と語る葵の言葉には、まるで何でもなかったかのような雰囲気を感じる。
実際、そういう語り方をしているのだろう。
でもそれがどれだけ辛かったのかは、想像に難くない。
何でもないことと思い込み、いざ対面してみれば何もできなかったということこそが、その証明だろう。
今同じことが起こればおそらく対応はできるはずだ。
少なくとも、引きこもりになるようなことにも、今日のように後に
だけど当時は小学生だ。
精神も未熟で、成長真っ只中の小さく弱い、ただのガキ。
そんなガキが、好きだった人や協力してくれた人に嵌められた。
結果として友達だと思ってた人に、その他大勢に嫌悪の視線を向けられて、心ない声を浴びせられた。
心が病み、閉ざしてしまうには十分すぎる。
「両親も心に傷を負った俺に何もしてやれなかったって思い詰めてね。必要最低限しか部屋から出ようとしない俺に毎日声を掛けてくれたよ。事情をわからない妹と弟との間に距離ができちゃったし」
この場にいる誰もが知る由もないが、弟――柊との間に距離ができたのはこの頃からだ。
妹も昔は弟と同じだったが、中学に入る前くらいに誰からか事情を聞いて、葵に真実を聞きにきてくれてからは隔たりはなくなっている。
「んで、一年くらいずーっと部屋に引きこもってた俺を、結愛が引っ張り出してくれた。両親と同じように、毎日俺の部屋に来ては色々な話をしてくれた」
昨日の夜に見た動画が面白かった。
楽しそうなゲームを見つけた。
泣ける漫画を読んだ。
毎日、よく見つけてくるなと感心するくらい、様々なことを扉越しに話してくれた。
天気が大荒れでも、反応が全くなくても、毎日毎日、違う話を提げて来てくれた。
「結愛は罪悪感を抱えてた。自分が振った相手の逆恨みで葵が傷ついた。だから葵を立ち直らせるのは結愛の義務だと思ってたらしい。だからリアクションも何もない俺に毎日毎日話をしてくれた。扉越しだから、聞いてるかどうかもわからない相手に半年以上も。その頃には俺も根負けして、面と向かってその話を聞くようになった」
そうなれば、また見方は変わってくる。
結愛の楽しそうな表情からより一層聞いた話が楽しくなり、悲しそうな顔を見ればその情景が目に浮かぶ。
面と向かって話をするという懐かしい行為のおかげで、塞ぎ込んでいた葵は徐々に心を取り戻していけた。
「その後は、学校へは行きたくないけど将来のために勉強はしておきたいから結愛に遅れた分の勉強を教えてもらって、中学からは学校に復帰した。んで、今の高校に入って後は小野さんたちの知る通りだよ」
「……だから綾乃くんは、必要以上に私たちと関わろうとしなかったの?」
日菜子が眉を顰め、瞳を揺らしながら訊ねてきた。
不安げに揺れる瞳が――その持ち主が何を考えているのかは理解できた。
葵の話に真剣に耳を傾けて、その結果辿り着いた答えを、日菜子は遠回しに口にする。
だから葵も不義理を働かないという信条に則り、日菜子の目を見て答える。
「そうだね。それも理由の一つなのは間違い無いと思う。他人と深く関わらなければ、あんな事は起こらなかった」
アレは、恋愛という友人よりも一歩踏み込んだ関係へと至ろうとした結果が引き起こした悲しい出来事だ。
つまりそこへ至りさえしなければ、あんな事が起こることはない。
少なくとも、その可能性をグッと減らせるのは間違いないだろう。
「で、もう一つ――と言ってもこっちが本命。さっき言った通り、俺は結愛に助けられた。その根底にあったのが罪悪感、贖罪の気持ちであっても、結愛に救われた事実は変わらない。だから俺も、結愛に何かあったら助けられるようにって色々と努力するようになった」
どこにでもいる高校生より少し逸脱していると自覚している所以はここにある。
いじめを被害者として体験し、塞ぎ込んで立ち直って前を向いて歩き始めた。
結果的に前を向いて歩いていたわけではなくただ見て見ぬふりをしていただけだったが、どうあれ普通からは少しだけ外れていることに変わりはない。
「勉強はもちろん、戦闘の面でも色々と努力した。ほら、最近特によく聞く、チンピラとかの増加とかがあったから、武力的な面も鍛えるようになった」
「……綾乃くんが強かったのはそれが要因なんだね」
「うん。で、話を戻すと、その努力に費やす時間を増やしたかったから、友達というものを作らなかった。友人関係ってどうしても時間を取られるからね。性格的にもいなくてよかったものだから、敢えて作らないように立ち回った。敢えてね」
敢えてを強調し、葵は頷く。
冗談っぽく茶化す葵に対し、日菜子が悲しそうな顔を見せた。
憐れまれているようにも感じる。
「綾乃くんは辛くなかったの?」
「今までのことを聞かれてるなら、辛くないって答えが正しいかな」
今さっきのことなら消化し切れてなくて自分でも驚いたけど、と歯切れ悪く言葉にする。
その言葉に日菜子は少しだけ葵を見つめる。
言葉の真意を汲み取ろうとでもしているのか、葵の瞳を黒の瞳で真っ直ぐ射貫く。
「そっか。よかった」
そしてフッと表情を和らげて、ホッとしたように笑った。
今まで一年間、生徒会の書記として少なくともクラスメイトよりは同じ時間を過ごした
いつもはもっとわかりやすく、何なら言葉にしてくれるのでありがたかったのだが、多くを語ろうとしない今の日菜子のことは、何一つとして理解できない。
「綾乃は――」
日菜子への疑問を抱いている中、翔が口を開く。
どこか暗さを見せる表情を顔に宿し、日菜子と同じで葵を見つめている。
尤も、その瞳には看破するようなものは全くない。
あるのはリア充の瞳に宿っているとは思えないほどの闇だ。
己の嫌な過去を一切合切引きずりだされでもしたのかと言わんばかりに、もはや睨んでいると言っても過言ではない瞳を葵に向けている。
「綾乃は、会長を好きなのか?」
「親愛の意味でなら好きだ。さっきの会場で言ったと思うけど、俺は性的興奮を感じられない。恋愛がイコール性的なものっていうわけじゃないけどね。それが何か?」
勘違いしてはいないと補足を付けて。
飄々とした雰囲気で話した葵を、翔は変わらず怖さすら感じる雰囲気で見据える。
「もし、自分の知っている人が、身を挺して自分を守ってくれたとして。その助けてくれた人が何らかのデメリットを負ったら、綾乃はどう思い何を感じる?」
「その知っている人ってのは、さっきの質問からして結愛だっていう仮定の下考えろと?」
その質問に翔は首肯する。
顎に手を当て、視線を下に落とし、考える素振りを見せる。
数秒程度の停滞ののち、葵はゆっくりと顔を上げた。
「多分、感謝よりも先になんでって疑問が来るかな」
「疑問?」
「ああ。俺は俺のことを価値のある人間だとは思ってない。そんな風に思ってる俺を結愛が助けてくれたら、やっぱりなんでが先に来るだろうな」
「……じゃあ、その次は?」
その答えが望んでいたものではなかったのか、瞳に宿す光を変えずに翔は淡々と問いかける。
質問というより尋問じゃないかこれ、と心の内で疑念を抱きつつ、次を考える。
「感謝と後悔かな」
「感謝と後悔……」
葵の答えを復唱する翔に頷いて、さっきと同じようにその理由を説明する。
「感謝は言わなくてもわかると思うから後悔の説明だけにするけど、これはまぁ守られなきゃダメだった自分の弱さに対しての後悔だね」
「弱さに対しての後悔?」
「そう。俺が弱くなきゃ結愛が犠牲になってまで助ける必要はなかった。俺が至らなかったから、結愛を犠牲にした。その弱さを見過ごしていた後悔」
自分が強ければ結愛を犠牲にすることもなかった。
例えそれが武力的な面でも知力的な面でも、至らなかったから結愛を犠牲にした。
なら、結愛や家族がどれだけ慰めてくれても後悔する。
葵の説明を聞いて、翔は押し黙る。
微妙な空気が流れ、バルコニーに静寂が落ちる。
「……あの、答えたんだけど」
その雰囲気に耐えられなかったのは葵だ。
質問に答えその反応を待っていたのに、それが一向になかった。
反応しづらい回答をしてしまったのか、と発言を思い返すには十分すぎるくらいの時間だ。
結果、少しばかり恥ずかしいことを言ってしまったと自覚した。
ライトノベルの主人公にでもなったかのような言い回しをしてしまった自覚を持ったが故に小っ恥ずかしくなった。
ラノベや漫画、アニメをよく視聴していたからこそふと出る言葉だが、それがいわゆる厨二病やそれに近いものであることは十分に理解している。
故の羞恥心。
「ごめん。思ってたよりちゃんと考えてくれてたんだなって驚いちゃって」
「そ、そう? ならいいんだけど……。それでこの質問は、結局何を知りたかったの?」
キョトンとした顔でそう告げた翔を責めることはできない。
今までの葵の態度を鑑みれば、ここでしっかりと回答したことが珍しく写っても何らおかしなことではない。
それを自覚しているから、葵は少しだけ恥ずかしそうに続きを促した。
「うん……綾乃はさ、会長のことを救いたいって言ってたよね?」
「言ったね。本心だよ」
「その為にはどんなことでもするとも言ってたよね」
「ああ。それも本心だ」
確認するような質問を繰り返す翔は至って真剣な表情で、茶化す雰囲気など微塵もない。
先ほどのような、心の闇を孕んだ視線もない。
あるのは純然たる真っ直ぐな瞳だけ。
そんな光を瞳に宿した翔は小さく深呼吸をして、今までにないくらいの力を宿した瞳で葵を見据える。
「それはさっき言った綾乃と会長の立場を入れ替えたものになるんじゃないか?」
「……」
翔の言葉を聞いて、葵は少し考える。
さっき言った、とは知っている人間が身を挺して守り犠牲になったら、のことを言っているのだろう。
その立場が逆となれば、話の内容はわかりやすい。
要は葵が身を挺して結愛を助け、守り、そのせいで葵が犠牲になったら、という過程を話しているのだろう。
つまり――
「――つまり二宮くんは、俺が犠牲になったことで結愛が悲しむんじゃないかって危惧してる。そういうこと?」
「そうなる、かな。誰だって大切な人、知っている人に傷ついてほしいと思ってるわけじゃない。少なくとも俺は、俺のせいで大切な人が傷つくのは嫌だ」
実感のこもった言葉と視線が、葵を飲み込む。
プレッシャーを放っているわけでも、そう言った話術で語っているわけでもない。
なのに、異様なほどの圧を感じる。
「正直俺は、綾乃と会長がどんな関係なのかを未だに理解しきれてない。綾乃の言った通り家族だと仮定するなら、学校での立ち振る舞いなんかも納得できるかな、程度のものだ」
恋人って風には見えないし、と付け加える翔のそれは、些か自身が欠落しているように見える。
ひとえに、葵と結愛の関係を理解するだけの情報のピースが足りないのだろう。
実際、翔は葵と結愛の関係を理解しきれていないと言っている。
理解してもらう為に話すと長くなってしまうし、そもそも話したところで葵の虚言として片付けられる可能性も否定できないので話すつもりはない。
「俺には二人がどんな関係なのかはわからない。けど少なくとも、会長にとって綾乃は大切な人だと思う。じゃなきゃ、あんなに人がいる場所でスキンシップなんて取らないと思うから」
確かに、と内心で頷く。
学校という衆目のある場所で、異性がスキンシップを図るとなれば、それなりの関係にあるのは間違いないだろう。
ただし翔の目から見れば、あのスキンシップは恋人のものではないと写ったらしい。
葵と結愛は恋人ではない。
しかしただの友人でもない。
その事実をこの世界で唯一知っている葵は、その観察眼の鋭さに舌を巻く。
「だから、綾乃が自分を犠牲にして会長を助けても、会長の心には傷を残す。それが例え短い時間で癒えるものでもそうでなくても、大なり小なり傷は残る」
「……つまり?」
圧をかけるような言い方ではない。
純粋な疑問をぶつけるような聞き方。
葵から投げられた言葉を受け止めた翔は、強い意志を込めた視線と言葉で投げ返す。
「自分を犠牲にして誰かを助けるなんてやめた方がいい。助けてもらった会長も、何より綾乃自身も救われない」
「……」
真っ直ぐ、翔は気持ちを投げてくる。
その言葉になるほどと頭の中で頷いた。
確かに、結愛は葵が犠牲になってまで自分が助けられることをよしとしないだろう。
もしそうなったら、きっと葵のように何で自分が犠牲にならなかったんだと後悔するはずだ。
それがわかっているから、その言葉を受けて納得できる。
「確かに、その通りだと思う」
「! わかってくれるのか……!」
「そりゃまぁ言ってることは理解できる。俺が少し前に言ったことをまんま逆転させただけって言ったのは二宮くんだよ? 理解できなきゃおかしい」
地頭は良くないが流石にそれくらいは理解できる。
伊達にテストで学年一桁を獲り続けていたわけじゃない。
でも――
「――でもごめん。俺は俺を犠牲にしなきゃならない場面が来たら、確実に犠牲になる」
続けた言葉に、翔は唖然とした表情を作った。
まぁそうだろうと少しだけ申し訳ない気持ちを抱きつつ、葵は続ける。
「俺は俺より結愛のほうが価値のある人間だと思ってる。だから間違いなく俺より結愛を優先するし、それは未来永劫変わらない」
「…………それは――綾乃の犠牲で会長が悲しむとしてもか?」
「ああ」
「っ――」
葵の即答に、翔は“何で”とでも言いたげな表情を見せた。
一年程度の付き合い――それもごく僅かなものでしかない葵が初めて見るその表情は、何故か辛そうに見えた。
「綾乃は――会長のことを好きなんじゃないのか……? 何で好きな人を悲しませるようなことを――」
苦しそうに絞り出した言葉は最後まで言い切られずに、俯いた翔によって中途半端なところで切られた。
でも言いたいことは全て理解できた。
真っ直ぐ気持ちを伝えてくれた翔に、返礼として葵も真っ直ぐ答える。
「……二宮くんは二つ勘違いしてる」
葵の言葉に翔は顔をあげる。
その先にあった優しさと諦めと悲しみを混ぜ合わせたような何とも言えない表情を、疑問に顰められた眉を貼り付けた顔で見据えた。
「一つは俺を犠牲にしなきゃいけない状況での話。俺と結愛、二者択一になった場合は俺を捨てて結愛を助けるって話だ。何も望んで犠牲になろうってわけじゃない。二宮くんも言ってたけど、結愛に悲しんで欲しいわけじゃないからね」
大切な人に悲しんで欲しいと思うほどのSっ気も、それを実行する為に自身を犠牲にするほどのMっ気もない。
そもそも結愛には可能な限り笑っていて欲しい。
その為に俺が必要だと言ってくれるのなら、健康に気を使い可能な限り長生きはするつもりだ。
それくらいには結愛を大切に思っている。
「で、もう一つ。俺の言動は全部結愛の為に、みたいな風に思われてるかもしれないけど、それが間違いだ」
「――間違い?」
翔の疑問の声に、葵はそうだと頷く。
「俺は結愛が大事だよ。その為に動くのは当然。でもそれは、結愛の為じゃなくて俺の為だ。俺が結愛を助けたい、結愛には幸せでいて欲しいから、その幸せを延長させる為に俺を犠牲にするのを厭わない」
結愛の幸せに葵が必要なら長生きする。
でも結愛の幸せが妨害されるなら、その妨害を身を以って挺し犠牲にすることも厭わない。
明確な矛盾だが、葵の心は昔っから何一つとして変わっていない。
これが綾乃葵という存在。
これこそが――
「家族想いの、究極な自己中。それが俺だから」
まるで、そうなるのは仕方ないよね、とでも言わんばかりの表情を作った葵を、やはり呆然とした顔で見つめる。
その隣にいた日菜子も、ほんの少し離れた位置に固まっているラディナたちも、その話を聞いていた誰もが唖然としていた。
「二宮くんが俺や結愛のことを考えてくれてたのは、正直すごく嬉しいよ。俺は他人に好かれようとも、興味を持たれようとも思ってなかったから、こうして色々と考えてくれたのは普通に嬉しい。ありがとう。でも俺は、誰に何を言われても変わらない。だから、ごめん」
そう言って葵は頭を下げた。
葵たちのことを考えていてくれたことへの感謝。
翔の考えてくれていたことを無碍にしてしまったことへの謝罪。
その二つを合わせてのお辞儀。
「……もし」
唖然とし、言葉を失っていた翔が口を開く。
何を言われても受け止められるように、葵はしっかりと耳を傾ける。
「もし、そのせいで……綾乃が犠牲になったせいで会長が悲しんだら……。お前は、どうするんだ」
「どうするって……そりゃできる限りはフォローするけど、二宮くんの言う犠牲って死んじゃうことだろ? だったそんなの、どうにもできないだろ」
淡白に、ただ事実になるだろうことを言葉にする。
だけどそれは――
「――綾乃は分かってない」
「分かってないって何をだ?」
唐突にそう告げられて、葵は疑問を頭上に浮かべる。
主語が抜けたその言葉はまるで理解が及ばない。
だから思わず、反射のように聞き返した。
――それが、翔にとっての琴線だとも知らずに。
「自分の知っている人が! 自分を守るために犠牲になった時の気持ちをっ、お前は全く理解してない!」
目を大きく見開いて、語気を荒げる。
葵の呼び名が“綾乃”から“お前”に変わっているあたり、心を相当乱しているように思う。
冷静に状況を分析する葵とは裏腹に、激情し冷静の真逆を加速する翔はツカツカと葵に歩み寄り、その両肩を掴む。
何も理解していない葵の両肩を握り潰さんばかりの力を込めて掴む翔は、目前に迫った葵に対して怒気の声で叫ぶ。
「自分を助けてくれたことへの感謝と! その人が取り返しのつかない犠牲を負った罪悪感と! それを無視して生きられない贖罪の気持ちが! 全部が全部、人生の枷になった人の気持ちが! お前に、理解できるのかよ……!」
今日この会話において、最も感情の――気持ちのこもった言葉が、葵へ言葉のナイフとなって突き刺さる。
両肩を握っていた拳はいつの間にか弱められており、鎮まっていった語気と相まって弱々しさすら感じる。
葵の瞳を貫いていた視線は俯くように、項垂れるようにして落ちていく。
「誰もそんなこと、望んじゃいないんだよ……。助けた人も、助けられた人も悪くない。でも――誰も望んでいなくとも、助けてくれた人の存在が枷となって人生を縛るんだ。どうにも、ならないんだよ……」
そこまで言う頃には、掴みかかってきた時の勢いは無くなっていた。
落ちていた視線が上げられ、葵の瞳を捉えたときには、縋るような、救いを求めるような、そんな弱々しい瞳になっていった。
二宮翔という存在が、おそらく悩み続けて、抱き続けてきた感情。
全てを理解し、体験してきたからこその、脅迫じみたアドバイス。
自身の失敗を曝け出し、他の人へのアドバイスとする。
それがどれだけありがたいことか、葵は知っている。
「二宮くん」
両肩に乗せられた手を優しく握る。
それを肩から退けながら、思考を整理して口を開く。
「ありがとう。こんな俺と、あの結愛を心配してくれて」
手を下ろさせて、葵は翔の顔を見る。
悲しそうな顔をした翔は、瞳に揺らぎを宿している。
「俺はきっと変わらない。今までがそうだったから」
下ろした手を離す。
ストンと力が込められていなかった翔の両手は重力に引っ張られて定位置に戻る。
「でも心には留めとく。だから二宮くんも、もう一度向き合ってみるといいかもしれない」
葵の言葉に、翔は答えない。
俯き、脱力したまま立っている。
反応は得られないと判断し、でも伝えたいことは伝えられたはずなので、翔から視線を外す。
そして隣にいる日菜子へと向けた。
「小野さんも、俺の独白、聞いてくれてありがとね」
「……ううん。こっちこそ、ありがとう。辛かったこと、話してくれて」
日菜子は笑顔でそう言った。
その笑みに葵を貶すものがないのは、心が理解できずともわかる。
表情だけで気持ちを理解させるのが、日菜子が人気たる所以なのかもしれない。
「じゃ、もう行くね。想定外が多くて割と疲れちゃったから」
「そうだね。もう夜も遅いし……」
「うん。じゃあまた」
「――またね!」
立ち込める暗雲を晴らしてくれるような、まさしく晴々とした笑顔で日菜子は言った。
それに笑顔を返して、葵はバルコニーを後にする。
落ち込んでしまった翔のことは、幼馴染の日菜子に任せれば問題はないだろう。
「ラディナたちもありがとね」
「いえ……。正直、初対面の時の“興味がない”発言は見栄を張っているだけだと思っていたので、そこにちゃんとした理由があって驚いてます」
「あぁ、あれね。懐かしいな」
ラディナと出会った時に、葵への嫌悪感を露わにしていたラディナが吐き捨てるように言ったことがあった。
数ヶ月ぶりに判明した事実を聞いて、ラディナは言葉通り驚いていたらしい。
「……苦労、していたんだな」
「んー、どうだろ。俺には家族がいたし、特にこれと言って何か苦労したとは思ったことないかな」
同情するような言葉を投げたアフィに、感慨もなく事実を答える。
他人から辛いものだと思われるものであっても、結局当人がそう思わなければ違うのだ。
「でも主様、辛かったんだよね?」
「まぁそうね。ついさっき自覚してからはそうだったのかもって考えたけど、でも今までそう感じてなかったんだから今更そう感じる必要もないと思ってる」
心配してくれたソウファの頭を撫でながら答える。
嬉しそうに笑うソウファを見ていると、こっちの心まで癒されるようだ。
「ま、過去に何があっても今の俺は変わらない。だから今まで通り接してくれ。じゃないと俺の心が持たない」
「そうやって茶化せている間は問題なさそうですね」
「かもな」
軽口のやりとりを交わせる今なら、問題はないだろう。
アフィは賢いから葵の言っていることをしっかりと理解し実践してくれるはずだ。
ソウファは全てを理解していなくとも存外聡く周りを見て動ける。
この三人なら、きっと大丈夫なはずだ。
「――あ、人来るから止まって」
常時展開の“魔力感知”が廊下の曲がり角に気配を捉えた。
ぶつかってはまずいのでなるべく視界に映りやすい場所で待機する。
数秒後、現れたのは豪奢なドレスを身を纏った女性だった。
胸の辺りまで伸びた赤の混ざった金色の髪に、自信に満ちた翡翠色の瞳。
豊満とまではいかないがスレンダーとも言わない、バランスの良い体つきをしている女性。
身長はラディナより高く葵より低い程度でオーラもなく、妃とは思えないほどに、街中で見かけてもおかしくないくらいの美人だ。
その美人を、葵は見たことがある。
今日のパーティーで帝王の隣に立っていた。
つまりは妃様だ。
そんな位の高い人物がなぜこんな場所に、しかも一人でいるのかと言う疑問が湧いたが、無礼があってはいけないのでひとまず会釈をする。
そして顔を上げる。
相手も同じタイミングでお辞儀をしていたのだろう。
顔を上げた時、ちょうど視線が交錯した。
瞬間、その瞳から目が離せなくなった。
おかしいと言う自覚ができるくらいには不自然に吸い寄せられる翡翠の瞳に、視線と思考が奪われる。
妃としてのオーラも存在感も、ありとあらゆる全てを瞳に集約しましたと言わんばかりの圧倒的な存在感を放つ瞳に、綾乃葵の全てが引き込まれる。
それから逃れようとしても逃れる術がない。
何らかの攻撃を受けているわけではないはずだが、それでもまずいと本能が叫んでいる。
だが視線から逃れねばと考えるほどに、余計に抜け出すのが難しくなる。
蟻地獄にハマった蟻が、逃れようともがくほどに中心へと引き摺り込まれるように。
ズルズルと瞳に飲まれていくのが理解できた。
「――葵様?」
「っ――だ、大丈夫」
秒数にしては五秒合ったかどうかの短い間、その瞳から視線を離すことができずにいた葵は、ラディナの呼びかけによって現実に引き戻された。
白昼夢でも見ていたかのようなふわふわした感覚が、葵の中に残っている。
ドサッと、何かが倒れる音がした。
その方を見てみれば、そこには豪奢なドレスを身に纏った女性――妃様がいた。
柔らかなカーペットの敷かれた廊下に倒れ込んだ状態で。
「――ぇ、あちょ、だっ大丈夫ですか!」
その事態に慌てて抱き寄せる。
口元に手を持っていき、呼吸が無事なことを確認。
念のため手首から脈も測り、異常がないことを確認する。
一般知識に毛が生えた程度の葵では妃様が倒れた理由がわからない。
ゆえに、この後の対処法がわからない。
「どうしますか?」
「……ひとまずラティーフがアヌベラに連絡を。帝王を呼べるなら状況を説明して来てもらって。医務室的な場所に運んでるから」
「わかりました」
ラディナからの問いに素早く指示を飛ばす。
その指示が正しいかなんて葵にはわからない。
そもそも妃様が倒れた時点でその理由すらわからないのだ。
正しいかどうかなんて、誰に理解できようか。
ただ今は、できることを最大限にやるしかない。
そう己に言い聞かせ、妃様を抱き抱えて医務室へと走った。
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