第62話 氷の山脈

 帝国アルハグラの首都、リーヌラでは混乱が生じている。王宮の屋根が吹き飛んだ直後から、誰も中に入れなくなってしまった。何故かはわからない。ただ入ろうとしても、見えない壁のようなものがあって前に進めないのだ。ラハム王子の安否は不明。このままの状態が続けば、また反乱が起きるのではないか。人々を不安が包んだ。




 妖人公ゼタは、口から大量の黒い液体を吐き出した。


「これで一安心といったところでございましょう」


 王宮の玉座の間、ゼタの脇に立っている人型の枯れ木の如き異形は、魔界医ノスフェラ。その向こうでは、魔獅子公フンムが、毒蛇公スラが、黒山羊公カーナが、揃ってゲーゲー吐いている。


「皆様方も良い反応です。ご気分はいかがですかな」


 ゼタが弱々しい声を上げる。


「最悪だ。本当にこれで毒が抜けているのか」


「いかにも。このノスフェラの特製万能解毒剤をもってすれば、いかなラミロア・ベルチアの猛毒であっても、ものの数分で完全回復いたします。皆様は驚嘆なされる事でしょう」


 自信満々な魔界医に、四賢者は疑惑の視線を向けたものの、それでもフンムは立ち上がろうとした。これにはさすがのノスフェラも眉を寄せる。


「無茶をなさいますな。ほんの数分の我慢ですぞ」


「その、数分が、惜しい、のだ」


 フンムはヨロヨロと立ち上がる。すると、ゼタもそれに続いた。


「奇遇、だな」


 まだ脚が震えているが、妖刀『土蜘蛛』を支えに立ち上がる。


「……根性論は趣味ではないのですが」


 そう言いながら、カーナもフラフラと立つと、隣の巨大な蛇に目をやる。


「アナタは立たないのですか」


「蛇は寝るのが、基本姿勢」


 スラは面倒臭そうにつぶやいた。


「やれやれ、これではどんなに医者が優秀でも無意味ではありませんか」


 困り顔のノスフェラに向かってゼタは問う。


「いま、炎竜皇はどちらにおられる」


 枯れ木のような魔界医は、しばし穴の空いた天井を眺めると、こう返答した。


「どうやら、ダナラムのフーブ神殿のようででございますな」


 これに驚くフンム。


「何故そんな場所に」


「そこまでは、それがしに申されましても」


「連れて行け、ノスフェラ」


 ゼタの目に、炎が宿っている。フンムの目にも。カーナは一歩二歩とノスフェラに近付き、スラはようやく鎌首をもたげた。


「医者は便利屋ではないのですが」


 魔界医ノスフェラはため息をつくと、パン、と手を打ち合わせる。五体の魔族は姿を消し、王宮を覆っていた見えない壁は取り払われた。




「暗愚帝だと」


 ギーア=タムールは鼻先で笑う。天井を破壊されたフーブ神殿の中、全身を漆黒に染めたゲンゼルはうなずいた。


「いかにも。余は暗愚なり。無知にして蒙昧。何も知らず、何もわからぬ。それ故に」


 その右手が突然、ジクスに向けられた。弾ける銀色の火花。ギーア=タムールが「ほう」と声を上げる。


 ゲンゼルとジクスの間に立つ銀色の人影。長い銀色の髪の少女。ジクスはその背を呆然と見つめていた。


「わかっているか、ジクリジクフェル」


 ギーア=タムールが笑う。


「おまえはいま、その黒いのに食われるところだったのだぞ」


 その言葉でようやく状況を理解したジクスは、悔しげな顔でゲンゼルをにらみつけているが、声は出ない。


「なるほどな。やはり無双の力は無限に使い続ける訳に行かんか」


「それはあなたも同じでは」


 風の巫女の言葉に、青い聖騎士団長は微笑む。


「語るに落ちたな。我ら聖騎士は地上に顕現せし神の御業そのもの。力に果てなどあろうはずがない。まがい物の神の信徒にはわからぬ事だ」


「では、確かめてみましょうか」


「……何」


 風の巫女が左手を水平に上げると、神殿奥の瓦礫が吹き飛んだ。


「あなたが聖騎士だと言うのなら、こちらにも神の戦士はおります」


 土煙の向こう側に、人の姿が浮かび上がる。それは風月。先程ゲンゼルと戦った神殿守備隊長。全身は傷だらけで、顔に血の気はない。しかしその体が銀色の輝きに包まれたかと思うと、傷は一瞬で消え去り、目が開いた。


「風月、お相手をしてあげなさい」


 巫女の言葉に、風月は頭を下げて応じた。


「御意にございます」


「面白い」


 そうつぶやくと、ギーア=タムールは背後の聖騎士たちに命じた。


「おまえたちは手を出すな。代わりと言っては何だが、この愚鈍帝を任せる」


「いやいやいや、余は暗愚帝であるぞ」


「たいして変わらん」


 青い聖騎士団長は、風月に向き直る。


「さあ、フーブの戦士の力、見せてみるがいい」




 どうしようもない。炎竜皇ジクスは目の前で展開される戦いを、ただ見つめているしかなかった。天竜地竜の巨大な力を使いすぎて、体はガタガタだ。どこかで休めなければ崩壊してしまう。だが、そのどこかへ逃げる力も残っていない。もはやただの木偶でくの坊に成り果ててしまっていた。


「いましばらく、お待ちください」


 風の巫女が、小さな声でそう告げる。


「……ボクを取り込もうというのか」


 なるほど、フーブはこうなる事を予測していたのだ。弱らせるだけ弱らせて、飲み込んでしまうつもりなのだろう。ザンビエンやギーア=タムールの言う通りだ。ボクには才覚がない。そう考えたジクスの心を読んだのだろうか、巫女は振り返り小さく笑う。


「そういう事ではございません」


 そのとき、フーブ神殿上空の空間が歪んだ。それに気付いた月光の将ルーナが、剣を抜いて飛ぶ。だがその剣はすぐ動きを封じられた。打ち込まれた赤い刀身に黄金の刃、妖刀土蜘蛛によって。


「炎竜皇!」


 フンムが、スラが、カーナが、そしてノスフェラが、ジクスを囲むように舞い降りる。ジクスの目が見開かれた。


「君たちは」


「ご無事でありますか、陛下」


 フンムの言葉に突っかかるカーナ。


「おやおや、どこをどう見ればご無事に思えるのやら」


「モメてる、場合か」


 スラが呆れ、ノスフェラがうなずく。


「いかにも。いま陛下に必要なのは、それがしの治療でありますぞ」


「何とかなるのか、ノスフェラ」


 食いつかんばかりの勢いでフンムがたずねる。魔界医は小馬鹿にしたように微笑んだ。


「誰に向かっておっしゃっておられますやら。このノスフェラがここにいて、何とかならぬ訳がございますまい」


 そしてジクスを見つめる。


「少々痛いですが、構いませぬかな」


 と言いながら、すでにその両手の指は十本の小刀と化している。ジクスはかすれた声で苦笑した。


「うん、わかった。任せる」


「それでは、まず二つの神の祝福をえぐり取るべく、緊急手術を開始致します」


 ノスフェラの鋭い指が、ジクスの右肩と左手首に突き刺さった。




 漆黒に染まったゲンゼルを取り囲む聖騎士たち。暗愚帝を名乗る存在は、ニシシ、と笑った。


「余は暗愚なれば、畏敬を知らず、恐怖を知らぬ。聖騎士も地虫も変わりない」


 怒声と共に斬りかかる聖騎士たち。だが、バリンッ! と何かが裂けるような音が響くと、聖騎士たちの首が跳ね飛んだ。




「仲間の首が跳んでいるよ。いいのかい」


 妖人公ゼタは口元に笑みを浮かべた。もちろん虚勢である。まだ毒の影響から回復しきっていないとは言え、土蜘蛛を押し込む事ができない。それを片手で受けているルーナの動きをかろうじて封じてはいるものの、有利か不利かで言えば、圧倒的に不利であった。


「聖騎士は無敵ではない」


 月光の将ルーナは平然と言ってのけた。


「だが、不死身だ」




 宙を舞った聖騎士たちの首は地面に落ちる事なく、しばし漂った後、吸い寄せられるように元あった場所に戻る。そして傷口は一瞬で消えた。さしもの黒いゲンゼルも、これには目を丸くする。


「ほうほう、何ともまた厄介な」


 聖騎士たちの顔に、余裕の笑みがこぼれた。しかし、その中の一人の体が突然、漆黒に染まる。そして煙のようにかき消え、鎧だけが地面に落ちた。唖然とする聖騎士たちに向かい、ゲンゼルは腹を叩いて言う。


「殺して死なん聖騎士を喰ろうてみたが、いやあ、喰らえるものであるな」


 フーブ神殿の中に戦慄と衝撃が走った。ニンマリと笑顔でつぶやく暗愚帝。


「百万か。腹を壊さねば良いが」




 氷の山脈はガステリア大陸の中央を南北に走り、東西を分断する壁である。雲を遙かに超える高さと極めて険峻な山容は、人を一切寄せ付けないばかりか、草木すらも生存を許されぬ死の世界。その名の通り、中程より上はすべて氷雪に覆われている。


 魔道士ダリアム・ゴーントレーに連れられて、タルアン王子とリーリア姫は、ようやく氷の山脈に到着した。したと言えばした。手を伸ばせば岩肌に触れられる距離までは来ているのだ。この内側に魔獣ザンビエンがいる。だが、おかしい。


 天使が降臨し、ギーア=タムールの封印が解かれたのであれば、自動的にザンビエンの封印も解かれるはず。しかし、氷の山脈は静寂に閉ざされていた。魔獣が復活した様子はない。


「どういう事だ」


 振り返るタルアンの問いに、魔道士は魔剣レキンシェルの白い刃を伸ばし、岩肌を軽く叩いた。青い火花が激しく飛ぶ。


「結界ですな。おそらくは天使の仕業でしょう」


「天使は、ザンビエンを封じる力を持っているという事ですか」


 愕然とするリーリアに、ダリアムはうなずいた。


「驚くにはあたい致しません。天使の力とは、個体の持つ能力ではありませんからな。天界がこの世界に流し込む力の顕現こそが天使。その力が巨大であるのは、すなわちザンビエンを押さえ込むのに、それだけ天界が本気であるという証です」


「……いや、つまり僕らはどうすればいいのだ」


 首をかしげるタルアンに、ダリアム・ゴーントレーは微笑んだ。


「さあ、それが問題であります」


 そう言って振り返る。タルアンとリーリアもつられて振り返ると、そこには白い巨体。天使が両腕を広げて浮かんでいた。


「う、うわぁっ!」


 タルアンはまたダリアムにしがみつく。


「ど、ど、どうするんだ、これ」


「まさか、もう追いついて来るなんて」


 リーリアの声も震えていた。だが、ダリアムはニッと余裕の笑みを浮かべた。


「まあ、お二人とも落ち着いてよくご覧ください」


 平然としたダリアムの様子に、リーリアが恐る恐る見つめると、天使は動いていなかった。


「止まっている?」


 リーリアがダリアムの顔を見上げる。魔道士は首を振った。


「止まっているのではありません。動けないのです」


「動けない? 何故だ」


 タルアンも、ようやく天使に目をやる勇気が出た模様。


「簡単に申し上げれば、ここは結界に近すぎるのです。いまここで迂闊に力を振るうと、結界が壊れるのでありましょう。せっかくザンビエンを封じているのに、すべてが台無しになる。天使はそれを怖れているのです」


「では、逃げられるのか」


 思わず本音の出たタルアンに、ダリアムは苦笑した。


「逃げてどうします。われらはザンビエンに用があるのですよ」


「あ、それもそうだな」


「ではこの状況、どうするのですか」


 そう言うリーリアを、ダリアム・ゴーントレーは見つめた。不意にその目に、遠い昔の景色が重なる。


――どうするのですか、父上


 耳に残る懐かしい声。しかしそれを振り払うように、ダリアムは天使に向き直った。


「……まあ、お任せください。何とかしてみせましょう」

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