◆月世界手帖
挿絵
<1> 彩り
冬の朝、遠雷は洗面台の鏡の前に立ち、目の前に映る自分の顔をじっとみつめた。
既に見慣れて馴染んだ顔にかかるのは、キャラメルとハチミツの間くらいの色の、明るい金髪。ちなみにこれは、髪をこの色にするつもりだと翡翠に話したときに、彼が洩らした言葉だ。
(失敗した…)
濡れた髪を拭いながら身震いし、遠雷は立て続けに二回くしゃみをした。
髪の遺伝子情報を段階的に少しずつ操作し、好みの色に近づける。遠雷は半年間のコースを選んで、施術を始めたのは夏だった。髪の性質が変わるため、外側からも保護液と定着剤を使う必要があった。つまり洗髪するのだが、冬の朝に髪を洗うのがこんなに辛いとは気づかなかった。今日で最後とは言え、寒さが沁みる。
洗面所にも暖房はあるが、どうにも効きが悪かった。ここで髪を乾かしていたら風邪引くかも、と遠雷はドライヤーを持って居間へ移動する。
ソファで髪を乾かしていると、玄関の方で音がした。続いて、ドアが開いて閉まる音。
翡翠がタフタを連れた散歩から帰ってきたのだ。彼の声の後に、タフタの首輪につけたチャームの音が近づいて来る。居間の引き戸の隙間に鼻面を突っ込んで、タフタが部屋に入ってくる。遠雷に気づいたので、目が合った。
「おう、タフタ、おかえり」
ドライヤーの音が気になるのか、タフタは近づいてこない。髪はあらかた乾いていたので、彼はドライヤーを切った。そこに翡翠が、
「さむーい」と、陰気な声で言いながら入ってくる。
ソファにいた遠雷と目が合うと、彼は声を出さずに「あ」と、言った。
「なんか、おいしそうな色になったね」
興味深げに近づいてきた翡翠は、新しい髪の色をしげしげと眺めた。まともに顔を合わせるのは三日ぶりで、彼がこの色になった遠雷の髪を見るのは初めてだった。そして翡翠には、昨日受けた施術で最後だと伝えてあった。
「翡翠の望みどおりだろ?」
遠雷は頭を振ってドライヤーを置くと、ソファの上に落ちた髪をつまんで拾う。
「いくらおれが甘いものが好きだからって、遠雷の髪の毛なんか食べる気にならないね」
そう言って彼は鼻白む。遠雷は笑って、抜けた明るい色の髪をくず入れに捨てた。
この髪は、年を取れば白髪になるかもしれないが、少なくとも再び遺伝子情報をいじらない限り、もとの黒髪にはもどらない。
「最初に金髪にするって聞いた時、どうかなって思ったけど、けっこう似合ってるね。ちょっとずつ変えてくの見てるせいもあると思うけど、思ってたほど違和感ない。髪の色変えるのに、わざわざ遺伝子いじらなくても、って思ってたけど、遠雷は似合ってる」
「そうだろ。このほうが男ぶりが上がる。染め直す手間もないしな」
「そうだよねえ、結局、染め直しめんどくさいからって、お金かけて遺伝子いじってるんだよねえ」
呆れたように翡翠が言った。その足元にタフタが擦り寄って、散歩帰りのおやつをねだったので、翡翠は台所へ向かった。遠雷はそれを眺め、口元だけで笑った。
この髪の色は、地球人だった頃の自分の色だ。
遠雷がタショクタイシツ、という言葉を初めて聞いたのは、コノン市の宿泊所で働いていた時だ。従業員の休憩室か客のための待合室か、もう覚えていないが、地上放送を映すモニタがつけっぱなしになっていて、そこに映った番組から聞こえてきた言葉だった。
知らない言葉に遠雷がモニタを見ると、そこにはモデルから女優に転身中のヴィオレッタが映っていた。まだ月で生活を始めて間もない遠雷でも顔を知っている、当時二十歳くらいの新進気鋭の彼女は、色白の肌に整った細面、そして名前の通り菫色の髪をしていた。背中に届くその髪は珍しい色合いで、顔の右側から左側に向かって淡い色から濃い色へ、綺麗なグラデーションになっている。
その髪は以前から遠雷も知っていた。月の技術ではずいぶん綺麗に染められるんだな、と感心したのだ。染色剤が落ち、髪の毛先から根本に向かって色が抜けているのはよく見かける。だが、彼女のように左右に色が変わるのを遠雷は見たことがなかったし、その色合いが売りのようで、モニタの中の彼女も自慢の髪を艶めかせていた。ソファに座った彼女のはにこやかにかつ堂々と、隣に座った男性のインタビュアーと話していた。
『髪だけでなく、実は目の色も変わるとか』
『そうなんです。髪に比べると全然目立たないんですけど、朝から夜にかけて少し色が濃くなるんです』
カメラが近づき、ヴィオレッタの顔が大写しになる。彼女の瞳は切れ長で、髪と同じように菫色、中心だけほんのり黄味がかって輝いている。その目のかたちは、彼女の神秘的なたたずまいの大きな特徴だった。会話を聞くと、そこになにか変化があるようだが、ぼんやりとモニタを見ているだけの遠雷には、それがなんなのかはわからなかった。
初めて聞く耳慣れない言葉も、だから彼女の魅力や美しさを表す言葉なのだと、遠雷は勝手に納得していた。そのくらいで興味を失い、遠雷がそこを離れようとした時、
『髪や目でよかったですね』と、インタビュアーが言ったのが耳に入る。
『どういうことですか?』
ヴィオレッタの声の調子が、わずかに固くなったのがわかった。遠雷はもう一度、モニタの方を振り返る。
『いや、その、肌の色だったりすると、目立つだろうなって…』
わずかに焦りの色を浮かべて、インタビュアーが言った。にこやかだったヴィオレッタは真顔になり、それから一瞬溜め息を堪えて、再び笑顔を浮かべた。
『肌の色が変わるのも、私たちにとっては自然なことだし、美しさのひとつだと思います。私も小さい頃はこの髪の色でからかわれたりしましたが、両親はいつもこの髪を褒めてくれたし、今では私の髪を素敵だと言ってくれる人もたくさんいます。残念ながらまだ、タショクタイシツは偏見の目で見られることが多いですけど、やがてそんな日はなくなるだろうと思います』
『もちろんです、今では差別は禁止され、日に日に理解が進んでいますからね。その髪の色を監督が気に入って、出演が決まったという次の映画ですが……』
話は当たり障りのないことへ移り、ヴィオレッタの態度も元通りだ。
その後もその言葉は何度か耳にしたけれど、遠雷はなんのことだかよくわからないままだった。次にそれを意識することになったのは、アンディエルへ引っ越し、翡翠と同居を始めてからだ。遠雷の勤める店に来た客が、タショクタイシツだなんだと、厨房の方で少しだけ話題になったのだ。同僚のひとりはタショク、とも言った。
遠雷はコノン市で見たヴィオレッタのことを思い出した。自分の端末で検索してみると、すぐに結果がでた。
【多色体質】
先天的に毛髪、眼球の虹彩、皮膚の色が一定ではなく変化する体質のこと。ほとんどは一部位だけだが、髪と目、髪と肌など、複合的に変化することもある。感染性、遺伝性はなく、突発的な遺伝子変異が引き起こす身体の変化である。色の変化率、変化に要する時間は個人差があり、性別や年齢によっても異なる。発生の割合は十五人にひとり程度というのが、現在の通説である。
多色体質のとして名が挙がる著名人の中には、ヴィオレッタの名前もあった。彼女に関する記述へのリンクをたどると、ヴィオレッタのあの美しい菫色のグラデーションの髪は、薬品で作られたものではなく、まさに多色体質というもので、一日の間に起こる色の変化によるものらしい。常に左右から決まった色の濃淡ではなく、時間によって何通りかのグラデーションを作るということだ。
へえ、こんな月面人がいるのか、と遠雷は興味を惹かれた。それで次に翡翠と夜、家で顔を合わせた時に、聞いてみた。
「翡翠、『多色体質』って知ってるか?」
「うん、知ってるけど」
いきなりどしたの、と答えた翡翠の表情を見る限り、知っていて当然の知識のようだ。
「多色体質の人間に、会ったことある?」
「小、中学校でいたよ。遠雷だって、会ったことあるでしょ」
「あるのかも知れないけど、気づかなかった。だからあまり詳しく知らなくて」
「遠雷って、たまにそういうのあるよね。なんか普通にみんな知ってるはずのこと、全然知らないっていう」
「だから今、頭を下げて教えを乞うているんだろ」
わざと偉そうに言うと、翡翠が笑った。
「全然さげてないじゃん。威張ってるじゃん」
「こないだ店の奴らが、客のことタショクだとかどうとか言ってたから」
なにげなくそう言うと、翡翠がわずかに顔を顰めた。
「あー…、その言葉、良くないね。隠してる人も多いらしいから、親しくないと気づかないかもね。おれの周りにもいるはずだけど、高校くらいからほとんどみかけなくなったもん」
ウェブの検索結果には、十五人にひとり程度と書いてあった。割合から考えればクラスにひとり以上いることになるし、月の総人口はおよそ二千万人だから、単純に計算しても、百三十万人くらいいるということだ。少なくない。
「けっこうたくさんいるってことだよな。なんで隠す必要が?」
「ほんとに全然知らないの?」
翡翠はさらに顔を顰め、首を傾げて遠雷を見る。
「昔は病気扱いされてたんだよ。『多色症』とか言われて、遺伝子の病気だって。今はそうでないってことが、はっきり証明されてるけど」
「髪や肌の色が変わるのが病気?」
遠雷はヴィオレッタのことを思い浮かべた。彼女は二年前よりも今の方が美しく、モニタの中や街角で、見ない日はないくらい大人気だ。化学薬品では決して作り出せないあの独特な髪の色は、病気どころか彼女の大きな魅力だった。
ただ、目の前の翡翠はどこか言いづらそうに口ごもる。
「なんていうか、ほら、目の色が変わるくらいだったら、そんなに気にならないけど、髪とか、肌の色とか、一日の間で変わったりするとね、やっぱり目立つしね」
その言葉に、わずかだが嫌悪感が混じっているのに、遠雷は気がついた。翡翠にしては珍しい。
「肌の色が変わるって、白から黒に、とかそういうことか?」
「そうそう、小学校の俺のクラスメイト、学校にいる間にだんだん色が黒くなってた。二十四時間ごとに色が変わって、夜の間にまた色が白くなるんだって。なんかちょっと、それ気持ち悪くない?」
そういってわずかに顔を顰めた翡翠に、遠雷は軽い衝撃を受けた。翡翠がこんなふうに、相手の性格や行動ではなく、単なる見た目を悪くいうところを、初めて見たからかもしれない。遠雷も顔を顰める。
「なんで? 肌の白いやつも黒いやつも、その中間のやつも、皮膚に色いれてる奴も、月では普通だろ」
「もともとそういう色なのと、一日の間に色が変わるのは全然違うよ。遠雷だって実際に見たらそう感じると思うよ。それに人口皮膚の青とかピンクとかは珍しくないけど、普通とは言えないし」
「人工皮膚の色じゃなく、生まれ持った色が気持ち悪いって、翡翠が言ったんだろ」
月面人は肌の色も顔立ちも体つきも様々だ。遠雷が知る限り、平均的な体つきが地球人より華奢なのは確かだが、見た目の平均を決めるのは難しい。それに、薬局に行けば手軽に髪の色を変えられる染色剤が棚一杯に並んでいるし、コンタクトレンズの色の種類だって豊富だ。服と同じように、その年の流行する色で品揃えや形が変わる。遺伝子操作の施術を受ければ、薬品や医療品なしに、髪、目、肌の色を、月ではほとんど自在に変えられるはずだ。だから見た目がどうこうで気持ち悪がられる、というのが、遠雷にはよくわからなかった。
「そうだけど。そう感じるのはしょうがないじゃん」
翡翠が憮然として言った。遠雷はあえて気づかないふりをして、
「だから隠す?」
「色素を固定する治療法があるんだよ。子どものうちはダメだけど、ある程度身体ができてきたら、治療できるから」
「治療って。病気じゃないんだろ。色が違うのはなんでもないのに、色が変わるのはおかしなことなのか?」
翡翠はさらに不機嫌そうな表情で言った。
「おれに言われても困るんだけど。もう禁止されてるけど、人の意識ってそんなに簡単に変わらないじゃん。さっきみたいに『多色』とか、『地球人』とか、未だにそういう差別的な呼び方する人いるし」
「は? 『地球人』?」遠雷は思わず目を瞠った。
「なんで『地球人』? 百歩ゆずって、病気だって思われるのはわからなくもないけど、なんでそれが『地球人』なんだ」
「ほら、地球人って自分たちで環境汚染を引き起こして、地球を生物が暮らせない場所にしたでしょう。汚染による遺伝子異常っていうか…」
「地球人に色が変わるやつなんていないだろ。そんな研究結果があるのか?」
「今のところ、ないけど」
「だったらむしろ、月面人の特徴じゃないか。月面人の祖先は月面人なんだから、地球人の遺伝子異常が月で起こるわけないだろ。地球と月は日照時間も酸素濃度も環境も重力も自転速度も違うから、月面人のルーツが地球人のはずないって、翡翠がいつも言ってるじゃないか」
「わかってるよ、だから都市伝説みたいなものなんだって」
遠雷の話を遮るように、不機嫌な口調で翡翠が続けた。
「そうやって差別の理由にされてきたんだ。多色体質の人は病気だ地球人だ、汚染された遺伝子だって、差別されてきた歴史があるんだ」
「で、翡翠もその差別が好きってことだな」
「好きなわけないだろ、差別には反対だよ」
「でも、小学校のクラスメイトは気持ち悪いと思ったんだろ。誰だって歳を取れば白髪になるし、皮膚の色だって変わるし、皺が増えれば顔の形だって変わる。多色体質はそれがもっと、色の変わりが大きかったり、小さな頃から起こるだけのことなのに」
「遠雷が多色体質ってなにか聞いたから答えただけなのに、なんで怒るのさ」
「『地球人』って呼ばれてるって、わかったから」
遠雷が言うと、翡翠は黙ったまま彼を窺う。
「翡翠は地球が好きだけど、俺が『地球人』だったら、翡翠には気持ち悪いと思われてたってことだな」
「そういう言い方、ずるいよ」
翡翠はわずかに傷ついた顔をして呟いた。
「遠雷は地球人じゃないし、多色体質でもないし、それに多色体質の人たちへの差別は、おれが作ったわけじゃない。多色体質のこと何も知らないのがそもそも変なのに、おれに怒らないでよ」
「まあ、そうだな」
遠雷は頷く。そして不満そうに目をそらす翡翠を眺めた。翡翠の言うとおりだ。差別は彼が始めたわけじゃない。遠雷は多色体質ではないし、少なくともこの身体は、地球人ではなかった。だけど自分は、と遠雷は思う。
まだ地球に暮らしてた頃のことを覚えている。それはただの思い出ではなく、生々しい記憶として、まだ自分の中に残っている。
本物の地球人は身体ごと取り替えて、知らん顔をして月面人になりすましている。その一方で最も月面人らしい特徴を持つ人々が『地球人』と呼ばれ、その特徴を気味悪がられ、差別されているなんて。
地球人だった頃の特徴を取り戻そう。あの頃の外見に、少しでも近づけよう。本物の地球人は多色体質の人々ではなく、自分なのだから。薬剤ではなく遺伝子操作で。そう決めたのはその時だ。
翡翠は戸棚にしまってあるタフタのおやつを物色し、中からひとつ取り出すとタフタに与えた。
犬は尻尾を揺らして遠雷の足元へやってきて、そこでもそもそと口を動かしている。
遠雷が腕を伸ばしてタフタを撫でたりしていると、不意に髪に誰かの指先が触れた。誰かと言っても、この場合はひとりだ。顔を向けると、すぐ隣に立った翡翠が、物珍しそうに遠雷の髪を摘まんだり、ひっぱったりしている。
「良い色だなって思ったんだけど、なんかさあ」
髪に触れたまま、彼は遠雷の顔を覗きこむ。
「タフタの色にすごく似てない?」
遠雷は思わず足元に眼をやった。床暖房の効いた部屋、毛足の長い敷物の上で、散歩帰りのおやつを食べ終えたタフタは早くも目を閉じている。その毛並み。
断じて違う。地球に暮らしていた頃の自分は金髪だった。けれど正確な明るさは、もうはっきりとは思い出せない。おぼろげな記憶の中の、かつての自分の髪色に近づけたのだ。
遠雷は強くそう思っていたけれど、目の前のタフタを見ると自信がなくなる。
ひょっとして無意識に、もう記憶もおぼろげな色に変わって、見慣れた色に近づけてしまったんじゃないかと。あーあ、と遠雷は大袈裟にソファに背を預けた。
「じゃあ、やっぱり最高の色ってことだな」
遠雷が口の端で笑って翡翠に言うと、彼は肩を竦めて自分の飼い犬を見る。
「そうだね、言い返せないよ」
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