第16話 公女の口づけ
朝八時半に図書館に来てから調べものを続けていたわたしたちだったが、気がつくと十一時を過ぎていた。
朝が早かったのもありそろそろお腹が空く時間だ。
「ねえ。調べものはこれくらいにして、お昼にしよう」
いかに情報弱者なわたしたちには有益とはいえ、ネットの情報だけではそろそろ頭打ちになるだろう。
頃合いもいいのでわたしはヨハネを昼食に誘う。
「あ……でもわたし、お金なかったんだ」
「それくらいは僕が出すよ。元々僕から誘ったしね」
「ありがとう。でも大丈夫なの?」
「幸いそこまで物価が上がってなかったからね。むしろ余裕はあるから、少しくらいは贅沢したって構わないほどさ」
「そこまで言うのなら……ちょっといきたいお店があるんだ」
お金に余裕があるというヨハネの言葉を信頼したわたしは、先ほど調べて気になっていた店に彼を誘った。
その名も「ルンテ風黒麦料理専門店 公女の口付け」
ルンテ風とはわたしの世界ではヨーロッパに位置する中堅国家の一つ、ルンテシュタット公国風の料理を指す。
この国では麦類やじゃがいもを使った料理が盛んらしいのだが、その中でもジャポネで手に入りやすい黒麦……蕎麦粉とライ麦の料理を中心に出しているそうだ。
現時点でのジャポネの黒麦料理を知る上で、黒麦代用料理の源流とされるこの国の料理が参考に良いのではとわたしは感じていた。
「ルンテ風か。アマネはこういうのが好みか」
「好みというか、黒麦を知る上では一番じゃないかなと思ったのよ」
「ふうん。僕としてはいわゆる代用料理の方が気になるけれど」
「ヨハネはせっかちね。こういうときは源流を知るべきなのよ」
わたしはヨハネにちょっと上から目線で語ってしまうが、実のところ戸塚店長のやり方を真似ただけだったりする。
「さて、何を頼みましょう」
店に入り、席に案内されたわたしたちはメニュー表を開いた。
その中には黒麦のパスタに黒麦の粥、黒麦のケーキ、そしてライス代わりの黒麦のパンが並んでいる。
元々の目的を考えればパンを注文するべきだが、このパンだけ注文するのも悩ましい。
「勉強も兼ねているんだし、このコース料理とかがいいんじゃないかな?」
「でもお金は大丈夫? 数字が五桁まであるけれど」
「きのうデートみたいだと言ったのはアマネの方じゃないか。景気付けも兼ねてきょうくらいは贅沢しても問題ないさ」
昨夜「デート」と聞いただけで顔を真っ赤にしていたヨハネのこの物言いに、わたしは少しだけ驚いた。
後で聞いた話では図書館で調べものをしたお陰で、このときには彼が勝手に抱いていた誤解は解けていたそうだ。
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「どうぞどうぞ」
強気なヨハネに引っ張られる形で、わたしたちは黒麦のフルコース 一人前一万ルートを注文した。
待っている間は当面の目標である「現在手に入る材料を使ったパン」の研究開発についてふたりで話し合った。
とりあえずこの店ではパンを提供しているが、何故街の小売りではそれが出来ないのか。ヨハネも本来のルンテ風パンについては知識があるため、その辺も参考にして意見を出しあうことにした。
元々のルンテ風は小麦とライ麦などの雑穀を混ぜたパンのことで、わたしの世界ではドイツ風に近いようだ。
言われてみれば「ルンテシュタット公国」という国名もドイツ語風なので、これもシンクロニシティなのだろう。
わたしはライ麦のみで作ったドイツパンを食べたことなどないが、ドイツパンはライ麦の比率を増やすほどに癖味が強くなるの知っていた。
小麦抜きではそのあたりが小売りには不向きだったのだろうか。
「お待たせしました。前菜とお飲み物になります」
意見交換が盛り上がって肌が火照り始めた頃に、前菜の麺と飲み物がやってきた。
黒麦と言うだけあって黒い麺。鼻孔をくすぐるこの臭いは蕎麦だろうか。
少量の麺と取り合わされているのは炒めたキャベツと小さいトマト。少し干からびた風な見た目から想像するに、ドライトマトなのだろうか。
それらと共に来た飲み物はルビーのような色合いである。赤ワインらしきそれにわたしは少しだけ怖じ気づく。
「大丈夫かな?」
昼間から苦手なお酒など飲んで大丈夫かとわたしは呟いてしまった。
「これはジュースだよ」
そんなわたしの声をヨハネは逃さなかった。
「だからアマネが飲んでも大丈夫さ」
「聞こえてた?」
「アマネが居たところではどうかはわからないけれど、まだキミにはお酒は早いって」
「子供扱いするんだから。これでも二十歳よ、わたし」
「そうなのか」
わたしは子供扱いに少しだけプリプリしつつも、苦手なアルコールではないと教えられて安心してグラスに口をつけた。
葡萄のジュースは甘さが控えめで濃度も薄いが、その薄さが口直しに丁度いい。肝心の麺は塩とオリーブオイルで和えた蕎麦そのもので、素朴な味わいが次のメニューへ食欲を繋いでいく。
「スープでございます」
前菜に続いてのスープはじゃがいものポタージュ。
こちらはお高いコースなだけあって味は充分なものだが、黒麦は浮き身のクルトンくらいにしか見当たらない。しかしこのカリっと硬いクルトンは噛み締めると酸味があり、これがポタージュの滑らかな舌触りにマッチしていた。
「こちらは本日のメイン。ヴァイスシュヴァルツソーセージの赤ワインソースと付け合わせのパンになります」
前菜で食欲を呼び起こし、スープで温まった胃の前に、ようやくメインの料理とともにパンはやってきた。
皿には予想通りのライ麦パンが各人一つ。そこにブラウンソースを纏った白と黒のソーセージが並ぶ。
ソーセージの彩りは白には牛乳、黒には豚の血を混ぜることで味わいと色合いを出しているそうだ。
そこにあしらわれた赤ワインベースのブラウンソースは真逆な色合いの二つのソーセージを一つにまとめていた。
「すっぱ」
さて肝心のパンの方だが、こちらは正直に言えばあまり口に合わないとわたしは感じた。
ボソボソとした口当たりと酸味が強いこのパンでは一般受けは難しいのだろう。
たしかにソーセージは絶品だが、お高いコース料理のメインを彩るパンがこれでいいのかと、わたしは小首を傾げてしまう。そんなわたしをヨハネは諭す。
「なるほどね」
「なにかわかったの? わたしとしては期待はずれというか、黒麦だけではこの程度なのかというかだったんだけれど」
「たしかにここで言う黒麦……小麦が入っていない、ライ麦と蕎麦だけではこんな風になってしまうのかもね。とくにこの酸味はライ麦を多く混ぜたパン独特のものだね。でもこのコースを彩るパンとしてはこれで正解さ」
「???」
「試しにソースにパンをつけてごらん」
「!!! 美味しい!」
わたしは言われた通りにソースをつけると、パンの欠片を口に運んだ。
するとどうだろう。先ほどはボソボソに感じたパンの舌触りはソースが染みて心地よく変化したのだ。
それに発酵したライ麦の酸味がソースの味にアクセントを与えていて、料理を食べ飽きさせない。一口大にカットしたソーセージと一緒に食べるとまた一段と格別である。
そうか、これはコース料理だったとわたしはヨハネに気付かされる。
「パンだけ食べて美味しくないだなんて早計だったわ」
「ニホンにもあるそうだけど、このパンは簡単に言えば白いごはんさ。オカズと一緒に食べるからこその美味しさだから、単品で食べて味気ないと言うのも当然だよ。無論、単品で食べても美味しいのなら、それに越したことはないだろうけど」
「この酸味はたしかに人を選びそうね。食べやすいように惣菜パンに仕上げれば別なんだろうけど、それだけで上手く行くのなら苦労はないわ」
「それはおそらく値段が関係しているんだろうさ。レストランの追加メニューだからというのもあるんだろうけれど、このパン一つで六百ルートもするとメニュー表に書いてある。
仮にパン単品を半額にして惣菜込みで四、五百ルートで売りに出したとしても、スシバーのナミスシ弁当なら一人前の値段になるし、大手の量販パンなら同じ値段で惣菜パンが三つ買える」
「惣菜パン二つで千ルート……これじゃちょっと高すぎるわね」
「この店を真似てレストラン形式としてなら付加価値で元が取れるかも知れないが、アマネがやりたいパン屋はそういうのじゃないだろう?」
「うん」
「わかったのならここでの経験はちゃんと憶えておこう。アマネが言うように、源流に触れるのはいい経験だ」
「そうだね。それにまだデザートも残っているんだから、これは楽しまないと」
「その意気さ」
最後に残った一欠片にソースを纏わせたわたしはメインまでの料理を綺麗に平らげる。給仕もそれを見ながら次のメニューを手配しているようで、メインの余韻をジュースで締めくくったところでデザートがやってきた。
「本日のデザート。ホイップクリームとブルーベリーソースを添えたパンケーキになります」
出てきたお洒落なケーキに、わたしはつい「キレイ」と呟いた。
近頃流行りのなんたら映えしそうなパンケーキがテーブルの中央に並び、どうやらふたりで取り合って食べるためのモノのようだ。
「僕は少しで構わないよ。アマネが好きなだけ取ってよ」
「そう言われても、わたしだって食べきれないわ。だからこうやって……半分こ」
わたしはパンケーキを綺麗に二人前に分けたのだが、その時のヨハネの機微には流石に気づかなかった。
取り分けられた半分のパンケーキにホイップクリームをたっぷりと纏わせたわたしは、ナイフで一口大にしたそれを口に運んで租借した。
山のように盛られたホイップクリームと、その山をとぐろを巻いて昇るベリーのソース。俗に言うユニコーンカラーに彩られたパンケーキはわたしの口のなかで蕩けた。
「甘ーい」
この甘さはホイップクリームではなくパンケーキ自体のモノなのだろう。
蕎麦とライ麦が半々に混ぜられた生地をベーキングパウダーで膨らませたこのケーキ生地には大量のメープルシロップらしきものが仕込まれていた。
むしろ山盛りのクリームが口直しのポジションのようで、甘さを押さえるために頬張ったクリームの中に沈む砂糖菓子が口の中を甘味で犯す。
「ごちそうさま」
デザートを完食したわたしは口元をぬぐって素面に戻った。
もしかしたらこの脳内麻薬じみた甘味に変な顔をしてやいないかと少し心配してしまうが、ヨハネの様子から推測するに問題なさげである。
「美味しかったわね」
「それは同感。あとはこれからどうしようかだ。とりあえず蕎麦粉とライ麦を買うとして、アマネは他にはなにが必要だと思う?」
「そうね……塩と砂糖は当然として、日持ちは悪いでしょうけれどバター、牛乳、卵にじゃがいも……そうだ、アレも」
「あれ?」
わたしは当面の必要物資を頭に浮かべていたのだが、その最中にもう一つ大事なことを思い出した。
ヨハネは当然ながらアレとは何かたずねてくるが、ちょっと恥ずかしくて言いにくい。
「せ、生活必需品よ。女の子にはいろいろあるの」
「これは失敬。お金は当然僕が出すから、最優先で買いに行こう」
「そんなにがっつかなくてもいいじゃないの、んもー。ただの着替えのことだって」
いろいろとひっくるめた勿体ぶる言い方をしてしまったのだが、わたしが欲しかったのは要するに下着とシャツとパンツである。
着替えがないので予備の服が欲しいだけなのだが、変に素直に言わなかったせいで余計な心配をかけてしまったことをわたしは後悔することとなる。
着替えを購入するため、しばし店内で別行動をしていたわたしたち。わたしが服を選んでいる間にヨハネがちょっとしたモノを買い付けていたことをわたしが知ったのは、だいぶ後の話ではあるが。
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