北村 悦子(キタムラ エツコ)の場合⑨
「駆け落ち」
家に帰って部屋に
そして、銀次さんの真剣な眼差しと
「返事を待っている」
という言葉にすぐに「はい!」と答えたかったが、その直前に父の寂しそうな顔が浮かぶ。
自分の心の中の葛藤を嫌というほど感じる。
銀次さんと一緒になりたい。
父を悲しませたくはない。
それからしばらくの間、父と銀次さんが仲良く談笑しながら酒を
「何か辛い思いをさせてしまっているね。」
銀次さんが心配そうに私を見つめた。
「ううん、違うの、幸せを感じてるの、貴方という私だけを愛してくれるひとに出会えて本当によかったって…。」
「悦子さん、ありがとう、でも無理はしないでほしい。君の心の中の痛みは僕もわかっているよ。」
「銀次さん、ありがとう、あとは私の決断次第だとわかっているの。でも、あと一歩が…」
銀次さんが私をすっぽりと覆うように抱きしめた。
「僕は、いつまでも待つよ。だから焦ることなんてないから。」
そう言うと、優しくキスをしてくれた。
甘く長いキスを受けながら、私の心が固まっていくのを感じた。
「銀次さん、あなたと一緒にいます。私を連れて行ってください」
決行日は二週間後の日曜日の夜に決めた。
反対をされるかもと思ったが味方をしてくれた母にはそのことを告げた。
話をした瞬間は驚いていたが、しばらく考えて
「あなたが自分の力で幸せになるというなら、私は止めないわ」
予想していたのと違う母の心の強さを感じる言葉だった。
冬空の下、朝からぐっと冷え込んだその日は、夕方になるに連れて曇り空になり、日が沈む頃には雨が降り出した。
霧雨のような細かな雨粒がしっとりと窓を濡らしていた。
「悦子お嬢様…。」
婆やが、身支度を手伝ってくれながら何度も私の名前を呼んだ。
トランクに必要なものを詰め込み、厚手のヘリンボーン柄のコートを羽織り、カシミヤのマフラーをしっかりと首に巻いた。
父はその日は地方に出張で出ていて戻らないことがわかっていた。
母と婆やに見送られて、霧雨の中、住み慣れた家を後にした。
玄関を
「本当は、いけないのだけれど…」
振り返ると目を真っ赤にしながら
「辛かったらいつでも戻ってくるのよ。送り出す言葉でないけど…ごめんね。でも、本心だから。」
私は言葉を出すことは出来なかったが、母の目をジッと見つめて大きく
待ち合わせ場所は、家から少し先の路面電車のホームだった。
そこに車で来てくれることになっていた。
腕時計を見ると約束の時間まであと5分くらいだった。
今更だが、本当にこの恋にかけることを後悔していないか、自問自答した。
「後悔はない」
口に出して言う。
しかし、やはり父が、怒り、悲しみ、自暴自棄になってしまうのではないかと想像すると、そのことだけは、申し訳なく思い、どうか父が
霧雨が風に
時計は約束の時間を5分ほど過ぎていた。
雨が少し強くなり、寒さがより増してきて傘を握る手が
時計はすでに15分を過ぎていた。
車がこの時間に混むことはないだろうから、雨で事故にあったのではないか、故障してしまったのではないか、などあれこれ巡らせた。
もう30分を過ぎて、9時近くになり、人通りもほとんどなくなった。
1時間が経過して、流石におかしいと思い、何か連絡を取る方法はないか、頭を巡らせた。
ふと、そこから歩いて5分ほどのところに公衆電話があることを思い出した。
もしかしたら移動している間に銀次さんが来てしまうかもしれないと葛藤したが、そうだ、とひらめき、首に巻いていたマフラーを路面電車のベンチに巻きつけた。
このマフラーは銀次さんが、オープンカーでも寒くないようにと買ってくれたものだったので、私が戻ってくるという合図が伝わるはずだ。
寒さに凍えながら、公衆電話を目指し、ようやく辿り着いてボックスに駆け込んだ。
10円硬貨を入れ、銀次さんの下宿に電話をした。
9時を回っていたが、まだ若い人なら起きているだろうから、銀次さんが留守でも様子は聞けるとコールを聞きながら思った。
数回の呼び出し音のあと、ガチャリという音と共に男性の声で
「もしもし、どちら様、ご用件は?」
と、ぶっきらぼうに聞かれた。
「夜分すみません。平方銀次さんをお願いしたいのですが…」
そういうと、無言でゴトリと受話器を置く音がして、思わず耳を受話器から離した。
数十秒の後、
「平方さんはいないよ。出かけてるようだ。よろしいか?」
「あ、はい。」
そういうと電話はガチャリと切られ、また、受話器から耳を背けた。
銀次さんは出ている、やはり、車で何かあったのかもしれない。
不安がよぎり、良からぬ想像ばかり、してしまう。
電話ボックスの中で考えを巡らせていると、
ドンドンとボックスを叩かれ、振り返ると見知らぬ男性が
「まだ、ですか?」
と聞かれ、我に返った私は
「すみません」
と詫びてボックスを後にした。
ひょっとするともう路面電車のホームに来てくれているかもと、急いで戻ったが、
ベンチに巻かれたマフラーがしっとりと濡れているだけだった。
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