23,いいヤツだから卑屈になる

 ここは湘南、茅ヶ崎。海、街、山が共存し、多くの人が憧れるこの地に、私は生まれ育った。


 いま隣には好きな人がいて、いっしょに穏やかな海と鮮やかな夕陽を眺めている。


 こんなに贅沢で、幸せな日常があるだろうか。


 なのに、私の心は満たされていない。


 カネの亡者みたいにいくらお金を持っていても欲が尽きない、城を大きくしたいという感覚ではない。


 どこかにぽっかり、穴が開いている。


「卑屈か。そうだな、茅ヶ崎の雰囲気が良くて便利な街だからって、それがすべてをカバーしてくれるわけじゃない」


「んだんだ」


「例えば目先のことだと、そろそろ学年末テストがあるだろ? 俺にとってはそれが重荷だったりする」


「あ、そうだテスト! やばい理系科目は勉強しても良くて30点だから諦めてるけど『一般常識』がもう混乱!」


「一般常識? 社会科?」


 そう、我らが湘南海岸学院には『一般常識』や『ビジネスマナー』など、珍しい必修科目がいくつかある。本当に社会で活躍できる、心と知性が豊かな人間の育成を目的にしたカリキュラムだ。


 まぁ、うちのクラスの連中なんか社会でクソの役にも立たなそうなヤツばっかだけど。


「社会科に毛が生えたようなやつ。IoTとかLGBTとかそういうナウい単語をたんまり暗記するんですよお客さん!」


「ナウいってお前、何歳だよ」


「60歳くらいかもね」


「そうか、じゃあおぶってやろうか、ばぁちゃん」


「す、すまんのう、じゃあお言葉に甘えようかのう。あ、でもちょっと汗かいてるからやめとく」


「本気で負ぶさるつもりか」


「もう脚がパンパン」


「しょうがねぇなぁ、ほら」


 陸が私に背を向け、前屈みになって翻した右手をひょいひょいと、水を掻く鳥のように振って誘っている。


「え、ええ!? いいよいいよ! 恥ずかしいって……」


「……確かに、言われてみればそうだな」


 陸は少し口ごもった。


「うんうん、でしょ?」


「けど、まぁ乗れよ。しんどいんだろ?」


「しんどいけど、みんな走ってるんだし……。あ、走らないで海浜公園で遊んでるヤツもけっこういるんだった」


「じゃあいいだろ。その代わり、短距離走を本気でやれば」


「うん、まぁ、でも、その、汗かいてるし?」


「あぁもうめんどくせぇ!」


「うえっ!?」


 決断力に欠ける私に痺れを切らした陸は強引に私の手を引いた。右手を右手、左手を左手でフォークリフトのように私の両腕をくいっと持ち上げ、おんぶした。


 うああ、ああああああ……!


 なんだろう、なんでかな、実は以前、捻挫して武道にお姫様だっこで保健室まで搬送されたり、あの忌まわしい体育祭の胴上げで男子にからだを触られた経験はあるけど、あるのに、陸だと意識しちゃう。


 しかもきょうはバレンタイン。これからチョコを渡そうってときに、汗ばんだからだを押し付けてしまっている。


「あの、胸が当たっちゃうんですけど」


 からだを押し付ければ胸が当たる。当たり前のことだけど、ドキドキしすぎて何か会話をしていないと落ち着かない。


「わりぃ、だが反り返ると転んで後頭部打つからそのままでいてくれ」


「もしかしてセクハラ目的? 体勢変えられないようにして」


「……まぁ、少しよこしまな気持ちはある」


「ぷっ、正直だね」


 意外な返答に、思わず失笑してしまった。


「うるせぇ、俺も男だ」


「汗臭くない?」


「少しフルーツのにおいがする」


「においって? くさい? かぐわしい?」


「においはにおいだ。お前、変態だな」


「変態じゃないし。汚して悪いからクリーニング代くらいは払おうと思っただけ」


「クリーニングは定期的に出してるから心配するな。あとこのブレザー、電車でオッサンエキスをたっぷり付けられてるから」


「うえっ……」


 電車通学は大変だ。


 茅ヶ崎から藤沢までは2駅、電車によって所要時間は異なるが5分から10分ほど。だけど、毎日乗るとなると億劫だろう。


 しばし無言のときが流れる。私は陸の首筋に顔を近付け、瞼を閉じた。


 あぁ、すごく寒いのに、ぽかぽかする。


 いまの私、満たされてる。


「沙希はな、いいヤツだから卑屈になるんだよ」


 不意に陸が言った。


 陸の背からずり落ちそうになったので、私は身動みじろぎして体勢を持ち直した。


「うわっ、急に動くな」


「ごめんごめん。それで、いいヤツだから卑屈になるって、どういうこと?」


「俺たちが生きてる環境は、負の要素が強すぎるんだ。江ノ島の橋で人の間を擦り抜けてく自転車とか、歩きスマホとか、バスに乗っててバス停に止まる前に立ち上がる連中とか。


 そういうのって、世間で散々やらないように注意されてるし、常識が備わってれば悪いことだってわかるのに、身勝手な意思と行動で他人に迷惑かけてるだろ? 沙希がそういうのが許せない。ついでに言えば俺とまどかも。


 それに、学校では大概誰かの悪口が飛び交ってる。負の要素にまみれて生きてりゃストレス溜まるし、卑屈にもなるだろ」


「うん、そういう身勝手な人たちは見てると本当にストレス溜まる。あと、食べながらスマホとか通話とか、他のことしてるヤツも。食べられる命にも料理に関わった人たちにも失礼だっつーの」


「間違いねぇ。ラーメン屋行ったときなんか、店主が目の前にいるカウンターでよくこんなことできるなって思うわ」


「ラーメン屋ね。店員さん、ガツンと言ってやれよってよく思う。あぁ、なんかラーメン食べたくなってきた。ニンニクたっぷりのヤツ」


「そのときは脚が張ってもおぶらないからな」


「うん、私も自主規制する」


「ニンニクたっぷりっていうと、登夢道とむどうか」


「登夢道ね! 野菜たっぷりの! こんど行こっか!」


「だな、俺もラーメン食いてぇ」


「絶対行こうね!」


「おう、約束な」


「うん!」


 ゴール地点まで残り1キロ。ということは、私は2キロもの間、陸に負ぶさっている。


「そろそろ降りようか? 重いでしょ」


「こんくらいで重いとか、俺をナメてんのか」


「ふふっ、そっかそっか! 私は軽いもんね!」


 意地っ張りめ。


「勝手に言ってろ」


「うん、私は軽い! 軽い女!」


「いいのかそれで」


「ん? 何が?」


「わからないならいいや」


「なんだよぉ、目隠しするぞ?」


「やめろ、倒れる」


「ひひひ」


 少し、いや、だいぶ疲れが取れてきた。


 気が楽になった。


 すこぶる精神疲労なんだな、私。


 歩きスマホとか、やってる本人は気付かないかもしんないけど、ああいうのって、自分に危害がなくても見てるだけでストレス溜まるんだよね。


 なら不快にならず済むようにって、私も同化してしまったら、それはもう人として終わっている。


 こうして日々、私たちは負の勢力に立ち向かって生きている。


 悪口や人間関係もそう。


 日々の課題や部活もストレスの原因。本当にどこにいても四六時中、心は窮屈で、休まる暇がない。


 色んな物事に影響を受けて、負のスパイラルに巻き込まれている。


 そこに陸が、手を差し伸べてくれた。有難い。


 愚痴ばかり言っていると良いことが起きなくなるしぐったりするけど、たまには吐き出さないと、身が持たない。心のデトックス。


 他方そんな自分も、きっとどこかで誰かに迷惑をかけている。


 だから呼吸するくらい自然に、周囲に気を配って生きる。迷惑をかけないように、みんながハッピーライフを送れるように、自分が罪悪感を背負わないために。


 偽善?


 いいんだよ、結果みんなでハッピーになれるなら。

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