第13話

「へえ、男? 女?」

 娘が生まれたと報告すると安本はそう言ったきり、私の答えなど待つ様子もなかった。

「わあ、お前も、パパなんだな」林は、はしゃぐように言った。そして「写真は? 見せてよ、あるんでしょ?」と急かされた。

 林に言われた私がスマホの画面を見せると

「これ、目開いてるの? 毛がない!」

 林は指さしながら、キャキャと女子高生のように笑った。

「大変だな、これから」

 安本が低い声でポツンと言ったが、私のスマホ画面を見ることもしなかった。

「おい、安本、テンション低いよ、見ろよ、こんなに可愛いんだぞ。ちょっとくらい大変でも良いよなあ?」

 当時の林は、入社後四年経ち営業から経理部に異動していた。仕事の調子も、同じ部署の人間関係も良いと言い、以前よりも随分と明るくなった。着実に進歩している林を私は尊敬していた。

「林、お前さ……」

 安本は、笑う林に何か言いたげだったが、途中でやめた。

「こいつ、酔ってる。ははは。飲みすぎだよ、安本」

 林はいつもの調子で上手くあしらった。

 林のように生きるのは、繊細なテクニックを駆使しなければならない。そんなに簡単に出来る事ではないのだ。どれだけ自分を押し殺しているのだろう。林は、放っておいても大丈夫だ。正統派で上手に生きていける、と思わせる。一方、安本のような人間は、無神経なようで実は全くそうではない。林と比較をするならば、安本の方が難しい人間だ。不器用だ。誰かの助けが無ければ生きていけなくなるほどに弱いのだ


 妻は産後の体調も良く、一週間も経たないうちに退院した。私の仕事は同じペースで流れた。早朝から出勤し帰りは夜遅い。娘の世話で妻は手一杯だったで私の夕食を作らずに済む日が一日でも多い方がいいようであった。外で食べてきてね、というメールを受け取る日もあった。しかし家へは、出来るだけ早く帰ろうとしていた。そうすると安本の意地悪が始まる。

「おいおい、まだ飲み始めたばっかりだろ」

 安本が私に絡むと、

「奥さん待ってるからさ、それに赤ちゃんも」

 林が言葉を乗せてくる。

「うん。じゃあ、あと三十分だけ」

 私が言うと、安本は耳元で、

「もっと楽しめよ」

 と小さく囁くのだった。


 度重なる飲み会に、帰る時間が遅くなる日が週のほとんどになってくると、さすがに妻の機嫌も悪くなった。

「毎日のように飲み歩いてるのね」

「悪い、断れなくて」

 同じような会話を繰り返して、同じ様に途切れて終わる。生活とは、そういうものだ、林ならそう言うのだろう。そして、安本は、そんな生活はしない。では、私は、どうすればいいのだろう。中間はなんだろう。中間に正解はあるのだろうか。答えは見当たらなかった。


 家庭での夕食の回数は確実に減った。一緒に食卓を囲む日は月に数えるほどだった。

「出来るだけ早く帰ってこれない? もう毎日大変なのよ」

「帰れる時は帰ってるよ」

「いいわよね、男は」

 何度繰り返したのか分からない会話。妻はある時期から、何も言わなくなった。私がどれだけ遅く帰っても早く帰っても、何も言わず、私が尋ねた事だけに応えるようになった。その間にも娘は成長し、産婦人科で赤らんでいた頭部もすっかり人間らしくなっていた。


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