番外編5

「まおうのところへ。まおうにあいたいんだ」


 そうお願いしたのだから、すぐに会えると思っていたのに、待てども待てども機会は訪れない。――気が遠くなってきた。









 最近はエコだとかなんだとか、どこへ行こうとも冷房が弱く、ふくよかな身には生きづらい。そのように世を儚みながら、早水はやみず 大祐だいすけはおしぼりを何度も額に当てた。

 今、大祐が腰を落ち着けているオフィス街のコーヒースタンドも、例に漏れず蒸し暑くて、拭っても拭っても汗が噴き出る。北極並みに冷やしてくれていいのに。それが駄目だというなら、南極並みに冷やしてくれてもいい。

 ところで――。Tシャツに七分丈のズボンという軽装の自分が、こんなにも見苦しい有様なのに、シャツこそ半袖だとしてもきっちりネクタイを締め、くるぶしまである長いスラックスを履いた目の前の青年は、どうしてこんなにも涼しげなのか。それがそのまま人としての経験の差に思えて、大祐は尻の据わりが悪くなった。


 ――帰りたい。


 でもこんな風に引け目を感じるのも、もうじき終わりだから。自分にそう言い聞かせて、大祐は逃げ出したくなる気持ちを、ぐっと抑えた。


「本当にいいんですか? こんな素晴らしいものをいただいてしまって」


 青年は大事そうに抱え込んだ大きめの紙袋から、もう何度目かになるか、LPレコードのジャケットを取り出し、うっとりと眺めた。青年の手もとにあるレコードは、有名なジャズのレーベル「BLUE NOTE」のナンバリングのうち、特に貴重とされる千五百番台の一枚だ。大祐はそれを、レコードの収集をしていた亡父の部屋で見つけた。そしてジャズ鑑賞が趣味だという青年のことを思い出し、譲ることにしたのだ。


「貰うだけっていうのは申し訳ないから、なにかお礼をさせてください。本当にお金はいらないんですか?」


 青年の声は、欲しかったものを手に入れた喜びに、うきうきと弾んでいる。

 大祐は青年の申し出を固辞した。


「いや、いいよいいよ。どうせ俺じゃ、そいつの価値は分からないし。大事にしてくれる人が持っててくれたほうがいいって」


 一応は父の形見なのだ。できれば大切にして欲しい。


「でもこれ、売れば、十五万くらいしますよ?」

「いや、そういう暇もないし……」


 そう、大祐に残された時間は、一週間を切っている。それに、金はもう必要ないのだ。


「だけど……」


 それでも気が引けるのか、青年はこのままレコードを受け取ってしまうことを躊躇している。ミルクとガムシロップをたっぷり入れたアイスコーヒーで喉を潤しながら、大祐はいっそのこと、なにもかも全部、話してしまおうかと迷った。


 ――自分はもうじきこの世界から消えるから、できるだけ持ち物を処分したいんだ。


 だが正直に告白すれば、きっと根掘り葉掘り聞かれるだろう。自分でもにわかには信じられない。現実離れした話に、足を突っ込んでいる自覚がある。まともな社会人である青年ならば、尚受け入れ難いに違いない。

 きっと青年は善意から、「あなたは騙されている」だとか「冷静になりなさい」だとか、自分を説得しようとするだろう。しかし大祐は大祐なりに時間をかけて考え抜き、決めたことなのだ。上から目線で水をさされるのは、勘弁して欲しかった。せっかくのテンションが下がってしまう。

 では、さて、どうするか。大祐は甘すぎるコーヒーをストローで吸い上げながら、机の上に置かれた青年のスマートフォンに目をやった。スマホケースのチェーンのストラップに、指輪が繋がれている。


「それ、いいな」

「これですか?」


 青年は指輪をストラップから外し、大祐に渡してくれた。

 指輪の、幅五mmほどの太い金属のアームは黒光りしており、ずしりと重い。男性用だからか石などはついておらず、平べったい円形のトップに不思議な模様が彫られている。流行りのものとは思えないが、その無骨かつ古式ゆかしいデザインが、大祐の夢見がちな心を捉えて離さなかった。ファンタジー映画の登場人物がはめている、魔法の指輪のように見えるのだ。


「もし良ければ、レコードの礼ということで、この指輪をくれないか? アクセサリーが欲しくて色々探してるんだけど、なかなかこれっていうものがなくて」

「そんなもので良ければ、どうぞどうぞ」


 商談成立だ。青年は晴れて自分のものになったレコード入りの紙袋を、隣の椅子の背もたれに丁寧に立て掛けた。


「でもそんなおもちゃだけじゃ悪いし、なにかほかに欲しいものを思いついたとか、お金が必要になったら、言ってくださいね」

「ああ。ありがとう」


 とりあえず話がまとまったので、二人は飲み物にそれぞれ口をつけた。


「無くしたと思ったのに、戻ってきた。そうか、あなただったんだ。あなただったんですよね……」


 青年は隣に置いた紙袋を見て、次に大祐に目をやった。妙に感慨深げである。よっぽど欲しいレコードだったのだろうか。


「え?」

「いえ、ええと、なんだか変な感じだなと思って」


 どこか誤魔化すようにつぶやきながら、青年はコーヒーの入ったカップに口をつけた。

「変な感じ」。青年が口にした感想には同意できるので、大祐もまた頷いた。

 青年と大祐がこうして実際に会うのは、今日が初めてだった。姿を見るのも、声を聞くのも初めて。普段二人はネットワーク回線を介し、文字と文字で会話をしているのだ。

 青年と大祐は、「漆黒と混沌」という名のオカルト系SNSで出会った。「漆黒と混沌」――通称「しっこん」において、大祐は「絶対零度の死神」と、青年は「運命を調律せし悪魔」と名乗っている。大祐も青年も互いの本名を知らないし、知るつもりもなかった。


「でも、会ってみて、確かにそうだなって……」


「悪魔」という割には穏やかに、青年は微笑む。


「え? なにが?」

「いや、ほら、ナミさんがよく俺たちのニックネームって、どっちがどっちだか分からなくなるって、ブツブツ言ってるじゃないですか?」

「あ、ああ」


「ナミ」というのは「しっこん」で、彼らと仲の良いユーザーの一人だ。正確には「黄泉の国のナギナミ」という彼女の、歯に衣着せぬ物言いによると、大祐と青年のニックネームはそっくりで、紛らわしいそうだ。

「絶対零度の死神」に、「運命を調律せし悪魔」。似ているといえば、似ているだろうか……? どちらも中二病を患っている者ならば、好きそうな名前ではあるが。


「それでね、まあニックネームが似てるって言われるだけあって、俺たち自身もちょっと似てません?」

「は?」


 思ってもいないことを言われて、大祐は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。目を白黒させている大祐に構わず、「悪魔」はニコニコしながら続けた。


「俺、二十七なんですけど、『死神』さんもそれくらいでしょ? 体格も似てるし。それにほら、お互いメガネだし」


「悪魔」はかけているメガネのフレームを、指で押し上げた。大祐もつられるように、自分のメガネに触れた。


「いやあ……」


 頭ごなしに否定するのも悪いから言葉を濁すが、大祐からすれば到底そうは思えない。――「似ている」なんて。

 大祐は二十五歳だから、確かに「悪魔」の歳に近いかもしれない。背は二人とも百七十cmに満たず、小柄で、そこも同じだ。しかしあとは、全てが違っている。

 スリムでシュッとした体型の「悪魔」と比べて、大祐は太っていてスタイルが悪い。それになにより、生きる世界が違う。片やビジネスマン、片や無職である……。


「俺、『死神』さんが好きって言ってたゲームも好きですし。好みや考え方も似てるんじゃないですかねえ」


 だからなんだというのだろう。自分の趣味の世界に、無神経にズカズカ侵入された気がして、大祐は苛立った。が、堂々と糾弾する勇気もなく、へらへらと笑う。


 ――このファッションオタクが!


 引きつった顔で微笑みながら、大祐はぼってりとベルトに乗った己の腹の肉を、テーブルの下で摘んだ。会話が途切れてしまって、「悪魔」は困ったように微笑んでいる。


「――頑張ってくださいね。これから。色々。大変だろうけど、絶対に諦めないで」


「悪魔」は唐突に、励ましの言葉を口にした。

 ほらやっぱり「悪魔」だって、本当は察しているのだ。――大祐の状況を。




 昼休みに会社から抜けてきたという「悪魔」と別れて、大祐は駅へ向かった。電車には三駅分しか乗っていないが、しかし普段近所のコンビニやスーパーくらいにしか足を向けない大祐にとって、本日の外出は遠足のような一種のイベントだった。

 せっかく遠出したのだから、大型書店にでも寄ろうか。同人誌やフィギュアが欲しい。家の荷物を減らしているのに、また新しいものを欲しがっている自分に呆れつつ、だがまあ眺めるだけならいいだろうと、大祐はスマートフォンで目的の店を探し始めた。

 真昼の空は雲ひとつない快晴で、アスファルトからの照り返しもきつい。しかもオフィスビルの谷間で荒れ狂う熱風が、容赦なく顔に吹きつけてくる。


「あちい……死ぬ……」


 スマホをいじる手を止め、暑さに喘ぐように顔を上げたところで、スーツ姿の男女とすれ違った。ちくりと胸が痛む。


 ――自分はあんな風になれなかった。


 既に割り切ったり、開き直ったりしたはずなのに、昼間働く人々に出会うたび、自己嫌悪に陥る。


 早水 大祐が高校三年生だった夏、彼の両親は事故で死んだ。夫婦揃って近所に買い物に行った帰りに、脇見運転の車に跳ね飛ばされたのだ。――即死だった。

 兄弟姉妹もおらず、祖父母や親戚との縁が薄い家に育った大祐は、いきなりひとりになってしまった。

 孤独な生活に慣れようと藻掻いているうちに大学受験に失敗し、次の年こそはと浪人したが、勉強に集中できず……。気づけば大祐は、学生でもなく、もちろん社会人でもない、宙ぶらりんな存在となっていた。

 幸か不幸か両親が残してくれた家と、保険金や賠償金があったから、贅沢をしなければなんとか生活はできた。しかし経済的にも、精神的にも、早晩限界はくるだろう。

 目的もなくパソコンをいじるか、ゲームをするか、アニメを見るか、漫画を読むか……。一見楽しそうに見えて、「こんなことでいいのか」と焦燥感に苦しめられる日々を送りながら、だから大祐は決心したのだ。

 するならばコンティニューではなく、リセットだ、と。


 ――だから俺は旅立つんだ。


 大祐が力強い眼差しを天空に向けたところで、小さなうめき声が聞こえてきた。


「う……うう」

「……?」


 足を止めて見回すが、辺りに変わった様子はない。しかし苦しそうな息遣いは、絶え間なく聞こえてくる。きょろきょろと周辺を探しながら進むと、なにやら派手な色が目に飛び込んできた。

 ――青。業務用の室外機の裏で、ひらひらと青い布が揺れている。

 布のはためく、ビルとビルのわずかな隙間を覗き込めば、誰かが倒れていた。十代半ばと思われる少女だった。


「おい……。おい……!」


 ここは大通りから外れているから、ほかに通りかかる人はいない。仕方なく大祐は室外機を乗り越え、肉がつかえる体を横にしてビルの間に入り込み、少女に近づいた。


「ん……」


 少女の腕を突っつけば、華奢な体がぶるっと震えた。どうやら息はあるようだ。

 出血もなく、特に目立つケガもない。もしかしたら、熱中症だろうか。


「大丈夫か? なにか飲むか?」


 リュックから麦茶のペットボトルを取り出しながら、大祐の鼓動は早くなった。

 自分がこんな風に積極的に、誰かと関わろうとするなんて。しかも相手は女の子だ。


「ほら、お茶だ。まだ口をつけてないから、キレイだぞ」

「……!」


 蓋を取ってペットボトルを差し出すと、少女はガバッと起き上がり、奪うようにしてそれを飲んだ。大祐は少女の勢いに驚き、次に彼女の格好を見て、唖然となった。

 少女は見慣れない衣装を着ていた。上は袖が肩までしかないチュニックに、下はミニスカートかと思えば、布を巻いているだけだ。色は上下とも、鮮やかな青である。足には蔦かなにかで編まれた、粗末なサンダルを履いていた。


 ――なんだこれ。コスプレか?


 少女の大きな瞳は、紅玉のように赤かった。日焼けした肌に、そばかすが浮いている。髪は枯れ草色で、どこからどう見ても日本人ではないだろう。そしてなんといっても目立ち、見なかったことにしたいがそうはいかないのが、頭の上でひくひくと動いている猫のような耳だ。

 大祐は数日前に聞いた噂を思い出した。


 ――そういや、ネコミミ少女が出没してるって……!


 ちょうど今、大祐は、ネコミミ少女の目撃情報が相次ぐ、話題のK県にいるのだ。

 思わず硬直した彼の手を、少女はネズミを捕まえるネコのようにぱしっと払った。大祐の全身に、感電したかのような刺激が走る。


「いってぇ……!?」


 少女は焦点の合わない目で大祐を見ながら、ぽつりとつぶやいた。


「おなかへった……」




~ 終 ~





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