5-3






 袋に入った食材をコンロ近くの作業台に載せて、一息つく。エアコンのスイッチを入れてから、イズーは洗面所で顔を洗った。

 後から後から汗が噴き出てくる。夏の日差しは、今日も凶暴だった。

 タオルを首に引っ掛け、何度も汗を拭いながら、イズーは台所へ戻る。帰りにスーパーに寄って買ってきたのは、ニンジンに玉ねぎにしめじ、あとは玉子だ。

 窓から差し込む西陽が、ただでさえ大きなイズーの影を更に伸ばす。時計を見れば、もうじき五時だ。そろそろ、夕食の準備に取り掛かってもいい頃だろう。

 イズーはシンクの脇にある、キャビネットを開けた。

 ホーローの両手鍋。薄暗い中にあっても存在感のある姿が、どんと目に飛び込んでくる。男でも両手でないと持つのがつらいその重たい鍋を、イズーは以前にも使おうとしたことがあった。初めて料理に挑戦した、数週間前のことだ。しかしそのときはどういうわけか鍋の蓋が開かず、断念せざるを得なかった。


「……………………」


 イズーはホーローの両手鍋をコンロに据え、じっと見下ろした。

 丸みを帯びた独特のフォルムに、色は爽やかなグリーンと、いかにも女性が好みそうな外見をしたその鍋に、不審な点は見当たらない。しかし蓋を持ち上げようとすると、やはり今回もビクともしなかった。


 ――やっぱりな。


 鍋から手を離すと、イズーは目を瞑った。

「視覚のチャンネルを変える」。それは先ほどまで会っていた僧侶・幻燈に、教えてもらった技だ。

 ――今まで見えなかったものを見る。そう意識して瞼を開くと、色つきのレンズを眼球にはめたかのように、辺りがセピア色に染まっている。この状態で、イズーは霊魂を視認できるようになった。幻燈が言うには、このように視覚のチャンネルを変えれば、幽霊や精霊といった肉体を持たない生き物が見えるようになるのだそうだ。

 

 ――ずっと気になっていたんだ。


 両手鍋を使おうとしてできなかったあの日、別の鍋を使ってカレーを煮込みながら、うっかり居眠りしてしまった。そのとき、イズーは不可思議な罵倒の言葉を聞いたのだ。


『起きろ、クソ野郎!』


 生気のこもった力強い声。しかしもちろん、部屋にはイズー以外、誰もいなかった。だとすれば霊の仕業かと疑うが、あの声は肉体を失い、疲れ果てている亡者が発したとは思えなかった。張りが、全く違う。

 ――ならば、誰なのか。

 正体は分からないが、イズーは幽霊とはまた違う、別の見えざるものの気配を台所から感じていた。


 ――今日こそは、突き止めてやる……!


 イズーの閉じた瞼の裏に、様々な色が映る。それがくすんだ緑色に変化したところで、目を開いた。

 すると――。つくねんと、小人が、両手鍋の上に座っていた。小人は蓋のツマミに腰掛け、ムスッとした顔でイズーを見上げている。


「ちっ。見つかっちまったな。まあ、時間の問題だと思ってたけどよ」


 ぎょろっとした緑色の目と、鷲鼻に大きな口。そしてキンキン響くその声は――間違いない。火をかけた鍋を放置し、寝入ってしまったイズーを起こしてくれたのと、同じ声だった。


「まったく、てめえ、なにもんだ? でっけえ図体の中に、妖力ようりきがぎっしり詰まってやがる。こんな人間がいるなんて、見たことも聞いたこともねえぜ」


「妖力」とは、イズーの世界で言うところの「魔力」のことだろうか。


「お前は、その両手鍋の関係者か?」

「おうよ」

「ほほう……」


 このような生き物を見るのは初めてだ。イズーは高い背を屈め、小人をまじまじと観察した。

 身の丈は二十センチほど。艶やかな金髪は長く、くるりと外向きにカールされている。その上品な髪型は、小人の荒々しい喋り方にあまりに不似合いだ。だいたいちゃきちゃきと淀みなく日本語を話すのに、なぜ金髪碧眼なのだろう。そういえば問題の両手鍋は、フランス製だった。鍋が舶来品であることが、小人の見た目に影響しているのだろうか?


「俺は魔法使いのイズーだ。お前の名は?」

「魔法使いぃ? 怪しい野郎だな……」


 小人は胡乱な目つきでイズーを睨んだ。怪しいという点では、小人という存在だってどっこいどっこいだと思うが、イズーは黙っておいた。


「それに、俺に名前なんかねえよ!」

「じゃあ質問を変えよう。お前はいったい何者なんだ?」


 小人は小さな胸をぐぐっと反らした。


「俺はこの鍋の付喪神様だ!」

「つくもがみ?」


 初めて聞く言葉に、イズーは首を傾げた。


「なんだよ、お前! 俺たちの姿が見えるほどの妖力を持ってるくせに、付喪神も知らねえのかよ! 失礼な奴だな!」


 頭から湯気が出そうなほどプンプン怒りながらも、小人は親切に説明してくれた。

 こちらの世界では、長い年月損なわれることなく形を保ってきた物には、命が宿る。人智を超えた不思議な力を備わり、生まれた彼らのことを、「付喪神」と呼ぶそうだ。


「長い年月というのは、どれくらいだ?」

「昔は百年くらいだったそうだけどよ。今は消費サイクルっつーのがみじけえから早まって、例えば俺なんかは、この家に来て五年目で命を授かったぜ。家電の奴らなんかは、もっとはええ。二年生き延びられれば、たいてい付喪神になれる」

「ほー」


 小人改め「両手鍋の付喪神」は、恋人のことでも語るかのような、うっとりした顔つきになった。


「俺のあるじの嬢ちゃんは、社会人になって初めて貰ったボーナスで、俺を買ってくれてな。それはもう大事に大事に使ってくれてるんだ。美味いものができれば喜んで、俺を褒めてくれるんだぜ。『あなたのおかげ』って。可愛いじゃねえか」


「主の嬢ちゃん」とは、風吹のことだろう。

 付喪神の表情は一転、険しくなった。


「そんな俺の、大事な主のうちに! てめえみたいな木偶の坊が転がり込んで来やがって! この家の付喪神たちは、みんなてめえのことなんざ、認めてねえんだからな! 主になにか酷いことでもしてみやがれ! 絶対に許さねえからな!」


 どうやらこの付喪神は、イズーに敵意を持っているらしい。だからあの日も鍋を使わせてくれなかったし、言葉遣いも好戦的なわけか。


「うん、まあ、その忠誠心の高さには感心するが、鍋になにができるんだ?」


 別に馬鹿にするつもりもなく、純粋に疑問に思い、イズーは尋ねた。そこを聞き返されるとは思わなかったのか、付喪神は答えに窮している。


「そりゃあれよ……! なんだ、その……。ま、まずい飯を作ってやる!」

「うーん。それは風吹も巻き込まれて、つらいんじゃないのか?」


 計画の問題点を指摘されると、付喪神はハッと驚いた顔をして、身長の割に大きな頭を垂れた。


「どうせ俺は非力だよ……。飯を煮炊きするくらいしか、能がねえからな……」

「あ、いやいや。それは十分立派な能力だと思うぞ、俺は」

「うるせえ、黙れ! 敵に慰められるなんて、ますます惨めになるじゃねえか……」


 しょんぼり肩を落としている付喪神に、イズーは顔を近づけた。


「俺は本当にそう思っているんだ。だから今日は是非、お前の力を借りたい」

「は?」


 付喪神は訝しげに顎を上げた。


「風吹が――お前の主がな、体調を崩したようなんだ」

「そりゃ一大事じゃねえか!」


 付喪神の顔色が変わった。やはり彼の主に対する想いは、一際強いようだ。


「そうなんだ、大変なんだ。だから俺は風吹が元気になるように、消化が良くて温まる、そしてなにより美味いものを食べさせてやりたい。――協力してくれないか?」

「……………………」


 付喪神はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて「しょうがねえな」と不機嫌そうにつぶやき、姿を消した。

 イズーは、つい先ほどまで付喪神が座っていた鍋の蓋に、手を伸ばした。持ち上げてみれば、嘘のようにあっさり鍋が開いたではないか。


『焦げつかせでもしたら、ぶっ殺すからな!』


 鍋から聞こえてきた乱暴な脅し文句に、イズーは神妙に頷いた。









 夕飯の支度を終え、イズーは居間で休憩することにした。とりあえずテレビを点けたが、見ることなく、昼間の幻燈の話を思い出す。





「元の世界に、あなたももうじき戻れなくなるかもしれない。どうぞ後悔なさいませんように……」


 幻燈の声にはほんのわずか、痛みを堪えるような揺らぎがあった。


「私はこちらでの生活が落ち着いてから、元の世界に帰れるのか試してみたのですよ。『異界の扉』を呼び出せるかどうか」

「そういえば……」


 イズーも、元の世界には一度も戻っていない。こちらでの生活が充実していて、そんな気には一切ならなかったのだ。


「しかし、できなかった。妻の場合も同様です。扉を呼び出す呪文を唱えても、うんともすんとも言わなかった」

「『異界の扉』は、一方通行なのか? 行くのはいいが、帰れない?」

「――分かりません。しかし、私は……。こちらでの楽で不自由のない生活にうつつを抜かし、故郷を捨ててしまったようなものです。親にも兄弟にも友人にも……。お世話になった方々に、もう会うことはできないのです…」


 幻燈は目を伏せ、コーヒーカップの中身をスプーンでぐるぐるかき混ぜた。


「……………………」


 気落ちしている幻燈の前で、イズーは呪文を唱え、ひょいひょいと指を回した。するとイズーの指の先、空中に、見慣れた取っ手が現われた。「異界の扉」を呼び出すための、あの取っ手である。


「!」


 幻燈は思わず、持っていたスプーンを落とした。


「俺のほうはまだ、戻ろうと思えば、戻れるみたいだな。だが、魔力が弱い。ここは場所が悪いらしいな。これじゃ、扉は出ないだろう」


 イズーは首をひねり、不満げな様子だ。言われてみれば確かに、宙に浮かんでいる取っ手は、魔王の城で見たときよりも全体的に薄く、ぼんやりしていた。








 幻燈は、元の世界に戻れなくなってしまったことを、悔いている様子だった。

 自分は、どうだろうか。イズーは考えてみることにした。

 イズーは幼い頃、奴隷商人に売られた子供だ。だから両親も兄弟も、家族と呼べる者はいない。

 そのほかに、元の世界に残してきたもの。せいぜい、地位や名誉といったところか。だが未練はない。

 魔法使いの頂点である「魔導師」にまで上り詰めたものの、喜びは少なかった。むしろ魔法を極めるためにやれることは全部やってしまったから、退屈になっただけだったのだ。


 ――だから俺は、魔王を探しに来たんだった。


 最強と謳われる魔王に会えば、新たな知識を得ることができるかもしれない、と――。

 もっともっと。あらゆる秘密を解き明かしたい。神や悪魔と同じ領域に到達したい。

 だったらその願いは、ここに残ったほうが叶うのかもしれない。なぜならこちら側の世界は、イズーの知らないことで満ち溢れているからだ。


 ――そうだな。やっぱり帰ることはない。ここにいればいい……。


 イズーはソファの上で目を閉じ、再び視界のチャンネルを変えた。眼球を覆う緑色の幕を通して、エアコン、電話機、パソコン、テレビの影に、なにかいるのが見える。イズーが気になるのか、向こうもこちらをチラチラと覗いているようだ。

 両手鍋の付喪神が言ったとおり、どうやらこの部屋にはたくさんの付喪神が住み着いているらしい。もっと彼らのことが知りたいものだ。

 元の世界で言うところの精霊が、こちらの付喪神に近い存在だろうか。


 ――そういえば、精霊……。


 イズーは変じた視界そのままに、自分の体を見回す。すると、ビー玉ほどの小さな球体が四つほど、かすかに光りながら、くるぶしの辺りを弱々しく回っていた。

 イズーはホタルでも捕まえるようにそれらを両手で包み込むと、近くにあった菓子の空き箱にしまった。


「消えたと思ってたのに……」


 イズーが捕まえた光る球体は、彼が元の世界で飼っていた精霊たちだった。「異界の扉」をくぐると同時に姿が見えなくなっていたから、てっきり置いてきたと思っていたのだが、実はイズーとずっと一緒にいたらしい。

 精霊は、空気に溶け込んでいる特別な養分を吸って生きている。恐らくこちらの世界の空気は、精霊にとっては薄いのだろう。だから充分養分を取れず、すっかり縮んでしまい、精霊たちは生きているのがやっとの状態のようだ。


 ――こいつらだけは、近いうちに、元の世界に帰してやったほうがいいな。


 イズーが精霊をしまった菓子箱を目につかないところへ移動していると、玄関のドアが開いた。


「ただいまー!」

「おかえり」


 帰ってきた風吹を抱き締めると、イズーの気はほっと緩んだ。


「イズー、今日はなにしてたの? いいことあった?」

「ああ、まあまあだ」


 覗き込んだ風吹の顔は、朝と変わらず少し青い。だいたい彼女は帰ってくると真っ先に、「今日の晩ごはんなあに?」と目を輝かせて聞いてくるのに、今日はそれがなかった。よっぽどつらいのだろう。

 可哀想になって、イズーは汗で湿った風吹の頭を撫でた。彼にとって頭を撫でるなんてくすぐったいことをしたのは、風吹相手が初めてだ。


「風吹。夕飯に雑炊を作ったんだ。野菜と玉子をたっぷり入れたぞ」

「わあ! あったかいもの、食べたかったんだ。先にシャワー浴びちゃうね」


 イズーからそっと離れると、風吹は荷物を置きに寝室へ向かった。その後ろ姿を眺めながら、イズーは苦笑する。

 ごちゃごちゃ言い訳をしたが、実際は簡単なことなのだ。

 風吹のいる、この世界にいたい。離れたくない。――それだけ。





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