2-4(完)

 海月邸からの帰り道、風吹は二台分の携帯電話を確認した。

 会社から持たされているものには、メールが一件入っていた。単なる業務連絡で、特に急ぎのものではない。

 私用のものには、着信が一件あったようだ。留守電が入っていたので再生してみれば、イズーからだった。


『風吹、俺だ。今日は俺が夕飯を作ったから、まっすぐ帰ってくるといい』


 妙に誇らしげな同居人がおかしくて、風吹は思わず笑みをこぼした。

 やっぱり待っていてくれる人がいる生活は、いいものだ。









 会社に戻ることなく、そしてイズーの言葉にも甘えて、風吹はどこにも寄らず直帰した。

「夕飯を作ったから」。イズーはそう言っていたが、玄関のドアを開けたその瞬間、彼がなにを用意してくれたのか分かった。

 スパイシーかつ食欲をそそるあの香りが、辺りに充満していたからだ。


「カレーだ!」


「ただいま」を言うよりも早く、風吹は歓声を上げた。


「ああ。好きか?」

「うん、大好き! わー! お腹ペコペコだし、嬉しいな! ――あれ?」


 ジャケットを脱ぎながら部屋へ上がった風吹は、不思議そうな顔をしてきょろきょろと周囲を見回した。


「もしかして、お掃除もしてくれた? 家中ピカピカだけど」

「うん、まあ、うん……」


 イズーは口ごもり、自分を無邪気に見上げる風吹から目を逸らした。

 主人に好かれようと、必死に尻尾を振る飼い犬。自分の今日の行動は、それ以外のなにものでもない。当のご主人様を前にすると、今更ながら恥ずかしくなってくる。


「そっかあ……」


 自分の頭よりずっと高い位置で、気まずそうな表情を浮かべているイズーを眺めながら、風吹は意味ありげに笑った。


「な、なんだ?」

「んーん。ありがとうね、イズー。家がキレイだと、気持ちいいね~!」


 風吹は足取りも軽やかに、寝室に着替えに行った。





 シャワーを浴びてさっぱりした風吹が居間のソファに座ると、イズーは待ち構えていたように夕食を運んだ。いつもとは逆。今日はイズーが給仕する側だ。


「イズー、料理できたんだね」


 白い器に盛られた山盛りのカレーを前に、風吹の声はわくわくと弾んでいる。

 カレーには大きめの野菜がゴロゴロと、たくさん入っていて、美味しそうだ。


「いや、正直に言うと、これが初めてだ。口に合うといいんだが……」


 心配そうに見守るイズーの目の前で、風吹はホカホカと湯気を立てているカレーをスプーンで掬った。一口食べて、すぐに満面の笑みになる。


「美味しー! すっごく美味しいよ! 初めて作ってこんなに上手にできるなんて、イズーって天才じゃない!?」

「……!」


 大げさなほどのお褒めの言葉を賜った直後、イズーの緊張に強ばっていた全身からはほわんと力が抜けた。安堵したあと、だがすぐに使命を思い出し、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールとグラスを取って戻ってくる。まさに忠犬だ。


「グラスで飲んだほうが美味いそうだが」


 風吹はいつも、ビールを缶から直に飲む。


「あー、分かってはいるんだけど、グラスを洗うのがめんどくさくて……」

「今日は俺が洗うから、ほら。少しでも美味いほうがいいだろう」


 買ったはいいがあまり稼働率のよろしくなかったグラスに、イズーはビールを注ぎ始めた。手つきはぎこちなかったが最初にきちんと泡を作り、そのあとは静かにグラスのてっぺんギリギリまで満たす。そして見事、ビールと泡が七対三の、いわゆる黄金比を完成させた。もちろんこれも、ネットの受け売りである。


「おお。これはまた結構なお点前で……」


 風吹はグラスの半ばまで一気に飲んでから、満足気にぷはーと息を吐いた。


「くうー! 美味しい! でも、どうしたの? 今日は至れり尽くせりだね」

「今日だけじゃない。明日もまた掃除するし、飯も作るから。――これからはずっとやるから」

「ふーん……」


 風吹は帰ってきたときと同じ、なにか言いたげな笑みを浮かべた。


「……なんだ?」

「ううん。すっごく助かるなあって、思っただけ」

「……………………」


 自分が急に家事に目覚めたわけ。その動機を、風吹はきっと見透かしている。イズーの顔は赤くなった。


「イズーも一緒に食べようよ。このニンジンのつけ合わせも、さっぱりしてて美味しいね。色も鮮やかで綺麗だし」

「ラペというそうだ……」


 イズーも自分の分の夕食を運び、食べてみた。

 カレーもニンジンのラペも美味い。初めて作ったにしては上出来だ。

 イズーは改めて、「漆黒と混沌」の仲間たちに感謝した。


「あー、食べたー! おなかいっぱい! 幸せー!」


 上機嫌の風吹は食べ終わった食器を台所へ運び、洗おうとする。イズーは慌ててそれを止めた。


「いいから! 俺がやるから! お前は休んでいろ!」

「いや、でも、ご飯作ってもらったし、片づけくらいは……」

「いいんだ! 今日からこれは、俺の仕事だ!」

「うーん……。じゃあ、ちょっと待ってね」


 風吹は寝室に一旦引っ込むと、エプロンを手に戻ってきた。シンプルな黒地のそれを、イズーに着せてやる。


「意外と洗い物って、水と泡が飛んで、汚れるからね。――よし。ちょっと小さいけど、我慢してね」


 女性用のエプロンは長身のイズーには短く、裾は足の付け根までしかない。それでもしないよりはマシだろう。

 自分がやると譲らないイズーに、とりあえず洗い物は任せて、風吹は鍋に残っているカレーを保存容器に詰めることにした。


「本当にこれからもご飯作ってくれるの?」

「ああ」

「明日はこのカレーでいいよ。せっかくだし」

「飽きないか?」


 流れる水の音をBGMに、二人の会話は続く。


「平気だよー。二日目のカレーって、美味しいじゃない。あ、じゃあさ、これをドリアか焼きカレーにしてくれたら嬉しいな。好きなんだ」

「ドリア、焼きカレー……」


 まだ食べたことのない料理だ。皿に残った泡を流しながら、イズーはリクエストされたそれらを、あとでネットで検索してみようと思った。


「さーてとー」


 詰め終わったカレーを冷蔵庫にしまうと、風吹はイズーの背後に忍び寄った。

 イズーは神妙な面持ちで、食器を洗っている。気を抜くと、つるつる滑るからだ。

 そんな彼の大きな背中に、風吹は抱きついた。


「うわっ!」


 落としそうになった皿をなんとか掴むと、イズーは首を捻り、風吹を見下ろした。

 風吹は笑っている。――いつものあの、悪魔の笑みだ。


「今日はいっぱいお世話になったから、お礼をしないとね……」


 イズーのエプロンの下に、風吹は手を潜り込ませた。


「ちょ、ちょっと待て!」


 イズーは水を止めて、自分から風吹を引き剥がそうとした。しかし手が濡れているからと触れるのをためらってしまい、その隙に風吹に、履いていたハーフパンツと下着を下ろされてしまう。


「よ、よせ! んっ……!」


 急所を握られ、イズーは風吹の柔らかな手の感触に反応してしまう。


「イズーのこれ、すぐ大きくなっちゃうよね。可愛い」

「やめてくれ……! た、頼むから……っ!」

「でも昨日からずっと、したがってたじゃない?」


 風吹は明らかに面白がっている。

 ――この温度差がつらい、憎い。


「やっ、いや……だっ……!」


 イズーは首を振った。しかし、限界が近いのも分かっている。

 自分はこんなにも堪え性がなかったのか。

 風吹とこういった関係になってから、イズーは落ち込んでばかりだ。


 ――早い。早過ぎる……!


 イズーはシンクの縁を、指の関節が白くなるほど掴んだ。


「いやだ……! 俺一人だけ、なんて……!」

「……………………」


 風吹はひょいと体をずらし、斜め後ろからイズーの顔を覗き込んだ。イズーもまた振り返り、風吹と目を合わせる。


「俺は風吹とセックスしたい……!」


 まっすぐ風吹と見詰め合って、イズーは言った。恥ずかしいことを、しかも力いっぱい言い切った自覚はある。だがこのまま、一方的にイカされるのは嫌だ。

 風吹はわざとらしく首を横に傾けた。


「そうなの?」

「そうだっ!」

「まあ、しばらくおあずけしちゃったもんね。ごめんね……」


 風吹はイズーと位置を入れ替えると、足を左右に開き、つま先立ちになった。そして雄を迎え入れるために、クッと腰を上げる。


「いいよ……。おいで……」







 がむしゃらに何度か行き来し、イズーはようやく理性を取り戻した。


「風吹……。痛いか……?」


 本当はこっちのほうだって、自分がご奉仕するつもりだったのに。――普段は自分ばかり気持ち良くなってしまっているから、今日は風吹に楽しんでもらおうと、各種必殺技を、お得意のインターネットで調べておいたのに。

 風吹は上体を捻り、自分に後ろから覆いかぶさっているイズーの頬に触れた。


「ううん、へーき……。イズーの好きなように動いて……」

「だが……」


 風吹はまるで猫の顎を撫でるかのように、イズーの喉を指先でくすぐった。


「ガツガツ求められるの、好き……。乱暴にしていいよ」

「……!」


 ――そんなことを言われたら。

 頭の中が真っ白になって、イズーは欲望のまま風吹を貪った。

 普段は落ち着いていて、常識的な風吹が乱れている。そのギャップがたまらない。

 いやそれすらも、相手の興奮を煽るための技巧なのかもしれないが。

 分かってはいても、風吹の掠れた声といやらしい台詞に耳を攻められ、脳みそをかき回されて、イズーは昂ぶっていく。





 終わってから――。

 イズーはもたれかかるように、腕の中の風吹を抱き締めた。朦朧となりながら、思う。

 この女の愛情だとか信頼だとかを、自分だけのものにしたい。

 その代わり、自分の持っている全てを捧げるから。


 ――どうかこの気持ちを、受け入れて欲しい。


 イズーは風吹の耳に歯を立てた。


「いたっ……」


 風吹は藻掻くがイズーは離さず、そのまま彼女の耳孔に愛の言葉を注ぎ込んだ。


「好きだ」

「イズー……?」

「好きだ、愛してる。愛してるんだ。俺を一生、お前のそばに置いてくれ……!」


 しばらく二人はそのまま抱き合った。やがて風吹はイズーの腕の中でゆっくり振り向き、彼の顔を見上げた。その目には、なぜか嫌悪感が滲んでいる。


「お国柄……なのかな? 随分、情熱的なんだね」


 言葉を選んではいるが、風吹がイズーに悪感情を抱いていることが伝わってくる。


 ――あれー?


 イズーが戸惑っているうちに、風吹は下げられたスウェットパンツと下着をさばさばと脱いだ。


「このままシャワー浴びよっと。先に使うね」

「あ、ああ」


 浴室へと向かいかけ、風吹は足を止める。しばらく無言で佇んだあと、彼女は振り返った。


「あの……。あのね、大丈夫だよ。あんなこと言わなくても、君が飽きるまでここにいてくれていいんだからね? 追い出したりしないから」

「え?」

「――たった一週間しか一緒にいないのに、『愛してる』とか『一生そばに』なんて、ちょっと……」


 風吹は苦笑を浮かべ、目を伏せた。

 どうやら風吹はイズーの愛の告白を、ただの媚びだと誤解しているようだ。ここを追い出されないための――。

 確かにタイミングも悪かった。急に家のことなどやり始めたから、露骨なご機嫌取りだと思われてしまったのだろう。


「風吹、そうじゃなくて、俺は本当に……!」


 言いかけて、イズーの動きは止まった。

 風吹を愛している? 本当にそうか?

 

――「魅了の術」に、言わされたのではないか……?

 

 自分の気持ちに確信が持てず、口を噤んでしまったイズーに、風吹は淋しげに微笑みかけた。


「もういいって。さっきのは忘れるから」


 そう言い残して、風吹は浴室に消えた。


「風吹……」


 イズーは呆然と立ち尽くしかなかった。すっかりしなびた下半身が丸出しで、それがますます哀れを誘う。





 本日、魔導師殿はよく働いた。しかし最後の最後で、彼は大きくボタンを掛け違ったのである。





~ 終 ~





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